第九十五回 楽毅が斉を滅ぼし、田単が燕を破る(中篇)

*今回は『東周列国志』第九十五回中編です。
 
楽毅は出兵して六カ月で斉地の七十余城を攻略しました。全て燕の郡県に編入されます。
しかし莒州と即墨だけは堅守を続けたため攻略できませんでした。
楽毅は兵を休めて士をもてなし、斉湣王による暴令を除いて賦役を軽くしました。また、斉桓公と管夷吾のために祠を建てて祭祀を行い、逸民を訪ね求めました。斉民は楽毅の政治に大喜びします。
楽毅は、斉の地には二城しかなく、しかも楽毅の掌中にあるので、大事を成せるはずがないと信じました。そこで恩徳を用いて民心を感化し、居民自らの意志で投降させたいと考え、敢えて猛攻を加えませんでした。これは周赧王三十一年の事です。
 
 
斉の使者が楚に入りました。淮北の地を全て割譲する代わりに援軍を求めます。
斉の使者に会った楚頃襄王は大将淖歯に兵二十万を率いさせ、斉救援の名目で斉の地を受け取りに行かせました。
但し、頃襄王は淖歯にこう言いました「斉王は危急に陥ってわしに救いを求めた。卿が斉に行ったら、機を見て行動せよ。楚に利があると判断したら、状況に応じて便宜を計ればよい。」
重任を与えられた淖歯は恩を謝して退出し、兵を率いて斉湣王がいる莒州に入りました。
湣王は淖歯に感謝して相国に立て、大権を全て淖歯に委ねます。
しかし淖歯は勢い盛んな燕兵を見て、斉を援けても功を立てられないのではないかと心配します。そうなったら二国の罪を得てしまいます。そこで秘かに使者を送って楽毅と通じました。斉王を殺して斉国を燕と二分し、燕人自身に王を立てさせるという計画を伝えます。
楽毅が回答しました「将軍が無道を誅殺して自ら功名を立てるのなら、桓文(斉桓公と晋文公)の業も語るに足りません。命に従わせていただきます。」
喜んだ淖歯は鼓里に大軍を整列させて湣王に閲兵を請いました。
湣王が到着すると、淖歯は湣王を捕えて罪を読み上げました「斉は滅亡の徵が三つあった。血の雨は天のお告げだ。地が裂けたのは地のお告げだ。誰かが闕に向かって哭したのは人のお告げだ。しかし王は省戒(反省して戒めること)を知らず、忠臣を殺戮して賢人を廃し、非分(分を越えたこと。天子になること)を希望した。今、全斉がことごとく失われたのに、一城で生き永らえようとしている。これ以上何を望むのだ!」
湣王は頭を下げるだけで何も言えません。夷維が王を抱きかかえて哀哭したため、淖歯は先に夷維を殺し、生きたまま湣王の筋(筋肉)を引き抜いて(生擢王筋)屋梁の上に掛けました。湣王は三日経って息が絶えます。強盛を誇った湣王でしたが、最後は凄惨な禍を受けました。
淖歯は莒州に戻ってから斉王の世子を殺そうとしましたが、見つかりませんでした。
淖歯は燕王に自分の功績を告げるため、使者を楽毅に送り、楽毅から燕に伝送させました。当時、莒州と臨淄は秘かに通じ合っていたため、使者の往来も止められませんでした。
 
斉の大夫王孫賈は十二歳で父を喪い、家には老母しかいませんでした。湣王は王孫賈を憐れんで官職を与えました。
湣王が出奔すると王孫賈も従いましたが、衛ではぐれてしまったため、秘かに家に帰りました。
王孫賈の姿を見た老母が問いました「斉王はどこですか?」
王孫賈が答えました「児(子供。私)は王に従って衛にいましたが、王が夜中に逃げてしまったため、居場所が分からなくなりました。」
老母が怒って言いました「汝が朝去って晚に帰る時は、私は家の門に寄りかかって遠くを望んでいます(家の前であなたを待っています)。汝が暮れに出て帰ってこない時は、私は閭(小巷の門)に寄りかかって遠くを望んでいます。国君が臣を望むのも、母が子を望むのと同じです。汝は斉王の臣でありながら、王が昏夜(夜)に出走したら行方が分からなくなってしまいました。帰って来てどうするのですか?」
王孫賈は恥じ入って老母に別れを告げました。
 
王孫賈は斉王の足取りを追って莒州にいると聞き、斉王に従うために莒州に入りました。そこで淖歯に殺されたと知ります。
公孫賈は左肩を袒(服を脱ぐこと)して市で叫びました「淖歯は斉の相となりながらその君を弑した!臣として不忠である!私と共にその罪を誅討したいと思う者は、私に倣って左袒せよ!」
市の人々が互いに顔を見合わせて言いました「この人は若いのに忠義の心を持っている。我々義を愛する者は皆、彼に従うべきだ。」
こうして瞬く間に左袒する者が四百余人も集まりました。
当時、楚は大軍を派遣していましたが、全て城外に分散して駐屯していました。淖歯は斉王の宮殿に住んで酒を飲み、婦人に音楽を奏でさせて楽しんでいます。
数百人の兵士が宮外に並んでいましたが、王孫賈は四百人を率いて兵士の器仗(武器)を奪い、宮中に殺到しました。淖歯は捕まって切り刻まれます。
王孫賈等がすぐに城門を閉じて固く守ったため、主を失った城外の楚兵は半数が逃走離散し、半数が燕国に投降しました。
 
斉湣王の世子法章は斉王が難に遇ったと聞き、急いで服を着替えて窮漢を装いました。臨淄の人王立と名乗って難を避け、太史敫の家で傭工になります。灌園(園の手入れをすること。または農業に従事すること)に励んで苦労する姿を見て、誰も尊貴な人だとは気がつきませんでした。
太史敫には娘がおり、まだ笄年(十五歳)でしたが、偶然、園中で遊んで法章の容貌を目にし、驚いてこう言いました「これは非常(非凡)の人にちがいありません。なぜこのような所で身を屈して辱めを受けているのでしょう。」
太史の娘は侍女を送って来歴を確認しました。しかし法章は禍を恐れて固く口を閉ざします。
太史の娘が言いました「白龍が魚の服を着るのは(白龍魚服)、畏れて姿を隠すためです。後日得る富貴は言い表せないほどになるはずです。」
この後、太史の娘は時折侍女を送って衣食を届けました。二人は次第に親密になり、法章がこっそり自分の出生を太史の娘に教えます。娘は夫婦の約束を交わし、私通するようになりました。しかし家の中で知る者は誰もいません。
 
この頃、即墨の守臣が病死しました。軍中に主がいなくなったため、人々は兵法に精通した者を選んで将に推戴しようとします。しかし相応しい人材が見つかりません。
ある人が田単の事を知っていました。鉄で車軸を覆って禍から逃れたので、将に推すに相応しい才があると言います。そこで人々は田単を将軍に擁立しました。
田単は自ら版鍤(城壁を修築する道具)を持ち、士卒と一緒に働きました。宗族の妻妾も全て行伍に入って城を守ります。城中の人々が田単を畏敬し、愛しました。
 
斉の諸臣は四散していましたが、王蠋の死節を聞いて嘆息し、こう言いました「彼は告(引退)したのに忠義の心を抱いていた。我々は斉の朝廷に立ちながら、座して君亡国破を眺め、恢復を図ろうともしない。これで人といえるか。」
諸臣は莒州に集まって王孫賈に投じました。協力して世子を探します。
一年余して法章が状況を知り、自ら名乗り出て「実は私が世子法章です」と言いました。
太史敫が王孫賈に報告し、王孫賈が法駕を準備して迎え入れます。こうして法章が即位しました。これを襄王といいます。
襄王の即位は即墨にも知らされ、互いに犄角の形勢を成して燕兵を防ぎました。
 
楽毅が二城を包囲して三年が経ちましたが、どちらも攻略できません。
楽毅は包囲を解いて九里退き、軍塁を建ててこう命じました「城中の民で樵採(芝刈り)のために出て来た者がいても、彼等の自由にさせよ。捕まえてはならない。もし飢餓に苦しんでいる者がいたら食糧を与え、寒さに苦しんでいる者がいたら衣服を与えよ。」
楽毅は恩徳によって斉の民を帰心させようとしました。
 
燕の大夫騎劫は勇力があり、兵法の談論も好みました。太子楽資と仲が良く、兵権を窺っています。そこで太子に言いました「斉王は既に死に、攻略できていないのは莒と即墨だけです。楽毅は六月間で斉の七十余城を降すことができたのに、なぜ二邑にてこずっているのでしょう?二城を攻略しようとしないのは、斉人がまだ帰心していないからです。ゆっくりと恩威によって斉人を帰心させ、近いうちに自立して斉王になろうとしているのです。」
太子楽資がこれを昭王に伝えると、昭王は怒ってこう言いました「我が先王の仇は昌国君でなければ報いられなかった。たとえ彼が本当に斉で王を称すことを欲したとしても、あれだけの功を立てたのだから当然ではないか。」
昭王は楽資を二十回笞打ち、符節を持った使者を臨淄に派遣して楽毅を斉王に立てました。楽毅は感泣して辞退し、死をもって忠誠を誓います。
昭王が言いました「わしは毅の本心を知っていた。彼は決して寡人を裏切らない。」
 
昭王は神仙の術を好んだため、方士に金石を練らせて神丹を作らせていました。丹薬を服用して久しくなり、ついに体内で熱を発して病死してしまいます。
太子楽資が位を継ぎました。これを恵王といいます。
 
田単は常に細作(間諜)を送って燕の状況を探っていました。騎劫が楽毅に代わる謀をしていること、燕の太子が笞で打たれたこと等を全て知り、嘆息して言いました「斉が恢復するのは燕の後王(次の王)の時だ。」
燕恵王が即位すると、田単は早速人を送って燕国でこう宣伝しました「楽毅は久しく斉で王位に即きたいと思っていたが、燕先王の厚恩を受けていたため裏切ることができなかった。だからわざとゆっくり二城を攻撃して、時が来るのを待っていたのだ。今、新王が即位し、楽毅は)即墨とも連和した(だから楽毅が燕に叛すのは時間の問題だ)。斉人が懼れているのは(燕の)他の将が来ることだ。そうなったら楽毅と結んだ)即墨が滅ぼされてしまう。」
燕恵王は以前から楽毅を疑っており、今回聞いた流言が騎劫の言とも一致していたため、ついに信じてしまいました。そこで騎劫を派遣して楽毅と交代させ、楽毅には帰国を命じます。
楽毅は誅殺を恐れ、「私は趙人だ」と言って西の趙国に奔りました。家族は燕に置かれたままです。
趙王は楽毅を観津に封じ、望諸君と号しました。
 
 
 
*『東周列国志』第九十五回後編に続きます。