第九十五回 楽毅が斉を滅ぼし、田単が燕を破る(後篇)

*今回は『東周列国志』第九十五回後編です。
 
楽毅に代わって将になった騎劫は、楽毅の軍令をことごとく改めました。燕軍全ての将兵が憤怨して不満を抱きます。
騎劫は営塁に入って三日後に軍を率いて即墨を攻撃しました。城の周りに何重もの包囲網を築きます。しかし城内もますます守りを堅くしました。
 
朝起きたばかりの田単が城内の人々に言いました「私は夜に夢を見て上帝にこう告げられた『斉が復興する時が来た。燕はもうすぐ敗れる。』日を置かずに神人が現れて私の軍師となり、戦えば無敵になるはずだ。」
一人の小卒が田単の意を悟り、小走りで田単の前に進み出て小さな声でこう問いました「臣が師になれますか?」
言い終わると走って去ります。
田単は急いで立ち上がって小卒を捕まえ、衆人に言いました「私が夢の中で見た神人はまさにこの者だ!」
田単は小卒に衣冠を着せて幕中の上坐に座らせ、北面して師事します。
小卒が言いました「臣は無能です。」
田単が言いました「子(汝)は何も言うな。」
田単は小卒を「神師」と号し、命令を出す前に必ず神師に報告してから実行するようになりました。
田単が城中の人々に言いました「神師の令が発せられた。『食事をする時は、必ずまず庭で先祖を祭れ。そうすれば祖宗の陰力を得て助けとできる。』」
人々は教えに従いました。
その日から、庭に置かれた祭品を見た飛鳥が羽を舞わせて降下するようになりました。毎日、朝と暮の二回、鳥が城内に集まります。それを眺め見た燕軍は怪異な事だと思いました。やがて神君が下降して斉人に教えを与えたと聞き、燕兵は互いに「斉は天の助けを受けた。敵にするべきではない。敵にしたら天に違えることになる」と噂しあって戦意を失いました。
 
田単は再び燕軍に人を送って楽毅の欠点を挙げました「昌国君は慈悲がありすぎたため、斉人を得ても殺さなかった。だから城中が恐れなかったのだ。もし(斉兵の)鼻を削いで(劓其鼻)軍前に置けば、即墨人は苦死(死ぬほど苦しむ。ここではひどく恐れるという意味)するだろう。」
騎劫は信じて投降した士卒の鼻を削ぎました。城中の人々はそれを見て大いに恐れ、燕の捕虜にならないために、互いに戒め合って城を堅守しました。
田単がまた噂を流しました「城中の人々の墳墓は全て城外にある。もしも燕人に掘り起こされたらどうしようか?」
騎劫は兵卒に命じて城外の墳墓を掘り起こさせ、死体を焼き捨てて骸骨を曝しました。
城壁の上でその様子を眺めていた即墨人は皆涕泣して燕人を憎みました。
 
城内の人々が田単の軍門に集まって一戦を請いました。祖宗の仇に報いるためです。
田単は士卒を用いることができるようになったと判断し、強壮の者五千人を精選して民間に隠しました。残った老弱の者は婦女と一緒に順番に城壁を守ります。
その後、燕軍に友好を求める使者を送り、こう伝えました「城中の食糧が尽きたので、日を決めて投降します。」
騎劫が諸将に問いました「わしと楽毅を較べたら如何だ?」
諸将が皆言いました「毅より何倍も勝っています!」
軍中の将兵が跳びはねて喜び、万歳を唱えました。
 
田単は民間から千鎰の金を集め、富家に命じて燕陣に使者を送らせました。富家の者が秘かに燕将に会い、城が落ちた日に自分の家族だけは助けてもらうように求めます。燕将は喜んで賄賂の金を受け取り、富家の使者達に小旗を与えて門の上に挿すように命じました。旗が挿された家には兵乱を及ぼさないことを約束します。
燕軍は全く警戒をせず、田単が城を開け渡す日を待ちました。
 
田単は城中で千余頭を牛を集め、絳繒(赤い布)の衣を作らせました。服には五色の龍の模様があり、牛の体に被せられます。更に鋭利な刃物を牛角に縛り付け、麻葦に膏油を浸して牛の尾に結びました。その姿は大きな箒を引きずっているようです。
投降を約束した日の前日に全ての準備が整いました。しかし人々は田単の考えが分かりませんでした。
 
田単が食事用の牛を殺して酒を準備しました。日が落ちて黄昏になるのを待ち、五千人の壮卒に酒肉をふるまいます。壮卒が腹を満たすと、顔を五色に塗り、利器を持って牛の後に続くように命じました。百姓が城壁の数十カ所に穴を穿ち、牛を穴から城外に出します。
牛の尾に縛りつけた麻葦に火が点されました。火は徐々に牛の尾に迫ります。驚いた牛は憤怒して燕営に奔走しました。五千の壮卒が枚をくわえて従います。
燕軍は翌日には投降を受け入れて入城できると信じていたため、この夜は安心して寝ていました。
突然、何かが地を駆けまわる音が響いたため、驚いて夢の中から起き上がります。
営外では千余の帚炬(箒形のたいまつ)が光明を放っており、まるで白日のような明るさでした。五采の龍の模様を身にまとった物が突進してきます。角の刃にあたった者は全て死傷し、軍中が混乱に陥りました。
更に壮卒の一団が何も言わずに突入し、大刀闊斧(大斧)で手当たり次第に燕兵を斬り倒していきます。斉兵は五千人しかいませんでしたが、慌乱の中では数万人もいるようでした。
しかも燕人は神師が降下して斉人に教えを授けたと聞いています。今日、神頭鬼臉(顔)を目の当たりにし、何が襲ってきたのか理解できませんでした。
 
城内では、田単が人々を指揮して戦鼓を敲き、喚声を上げさせました。老弱婦女も銅器を敲き、天地を振動させます。
燕兵は恐れて胆を潰し、脚が震えて戦うどころではありません。次々に逃げ隠れしましたが、慌てて奔走する中、互いに踏み合い倒し合い、数え切れないほどの死者が出ます。
騎劫も慌てて車に乗って逃げ出しましたが、ちょうど田単に遭遇して一戟で刺殺されました。こうして燕軍が大敗します。
これは周赧王三十六年の事です。
 
田単は隊伍を整えてから勝ちに乗じて追撃を始めました。戦えば必ず勝ちます。田単が通り過ぎた城邑は、斉兵の勝利と燕将の戦死を聞いて次々に斉に帰順しました。
田単の兵は日に日に勢いを増し、領土を拡大しながら河上に至ります。ついに斉の北界に至って燕に奪われた七十余城を全て取り戻しました。
諸軍の将が田単の功績を大とし、斉王に奉じようとしました。しかし田単はこう言いました「太子法章が莒州にいます。私は疏族です。どうして自立できるでしょう。」
諸将は法章(襄王)を莒から迎え入れました。王孫賈が法章の車を御して臨淄に入ります。襄王は湣王を埋葬し、吉日を選んで宗廟に報告してから朝廷に臨みました。
襄王が田単に言いました「斉国は危難から安泰を取り戻し、滅亡から存続を回復した。全て叔父の功だ。叔父の名は安平から知られたから、今、叔父を安平君に封じ、食邑を万戸とする。」
王孫賈も爵位を与えられて亜卿になりました。
また、太史の娘を迎えて后にします。これを君王后といいます。
この時、太史敫は始めて娘が法章に身を許していたことを知り、怒って言いました「汝は媒(仲介)を取らずに自ら嫁いだ(正式な婚礼を行わなかった)。我が種(子)ではない!」
太史敫は終生娘と会わないことを誓います。斉襄王が人を送って官禄を増やしましたが、全て拒否しました。しかし君王后は歳時(四季)に人を送って父に挨拶し、娘としての礼を欠かしませんでした。
 
 
当時、魏にいた孟嘗君が相印を公子無忌に譲りました。魏は無忌を信陵君に封じます。
孟嘗君は封邑の薛に退き、諸侯に匹敵する生活を送りました。平原君や信陵君と親しく交流しています。
斉襄王は孟嘗君を恐れて使者を送り、相国にしようとしました。孟嘗君は辞退しましたが、斉と連和通好し、斉と魏の間を往来するようになりました。
やがて孟嘗君が死にました。孟嘗君には子(嫡子)がいなかったため諸公子孟嘗君の諸子)が位を争います。その隙を斉と魏が突いて薛を滅ぼし、その地を分け合いました。
 
 
燕恵王は騎劫の兵が敗れてからやっと楽毅の賢才を知り、強く後悔しました。楽毅に謝罪する書を送り、再び燕国に招こうとします。しかし楽毅は帰国を辞退する答書を返しました。
燕王は趙が楽毅を用いて燕を図ることを恐れ、楽毅の子楽間に昌国君を継がせました。また、楽毅の従弟楽乗を将軍にし、併せて重用しました。
楽毅は燕と趙の友好を推進させ、二国の間を往来しました。二国とも楽毅を客卿にします。
後に楽毅は趙で生涯を終えました。
 
当時、廉頗が趙の大将になりました。勇敢で用兵を善くしたため、諸侯が廉頗を恐れます。
秦兵が頻繁に趙の国境を侵しましたが、廉頗のおかげで深入りできませんでした。そこで秦は趙と通好しました。
この後の事がどうなるか、続きは次回です。

第九十六回 藺相如が秦王を屈させ、馬服君が韓の囲みを解く(一)