第九十六回 藺相如が秦王を屈させ、馬服君が韓の囲みを解く(四)

*今回は『東周列国志』第九十六回その四です。
 
この頃、秦の大将軍白起が楚軍を破って郢都を占領し、南郡を置きました。
楚頃襄王は敗走して東の陳を保ちます。
秦の大将魏冉も黔中を攻めて攻略し、黔中郡を置きました。楚はますます衰退します。
そこで楚は秦に和を求めるため、太子熊完を人質として秦に送りました。太傅黄歇に太子を補佐させます。
 
白起等が魏を攻撃して大梁に至りました。
(魏)は大将暴鳶に迎撃させましたが、敗れて四万が斬首されます。魏は三城を献上して講和しました。
秦は白起を武安君に封じます。
 
すぐに客卿胡傷がまた魏を攻めて魏将芒卯を破りました。南陽を取って南陽郡を置きます。
秦王は南陽を魏冉に下賜して穰侯と号しました。
更に胡傷を派遣して二十万の兵で韓を攻撃させました。秦軍が閼與を包囲します。
韓釐王は趙に援軍を求めました。
 
趙恵文王が群臣を集めて問いました「韓を救うべきか?」
藺相如、廉頗、楽乗が言いました「閼與は道が険しくて狭いので、救うのは不便です。」
平原君趙勝が言いました「韓と魏(「趙」の誤りか?)は唇と歯が互いに助け合っている関係と同じです。援けなければ戈が趙に向かってきます。」
趙奢が何も言わないため、趙王が意見を求めました。趙奢が言いました「道が険しくて狭いのは、二匹の鼠が穴の中で戦うのと同じ状況です。勇敢な方が勝ちます。」
趙王は五万の兵を選んで趙奢に指揮を命じ、韓の救援に向かわせました。
 
趙奢は邯鄲の東門を出て三十里の場所で命令を発し、塁壁を築いて営寨を構えました。
営が完成すると、また軍令を出しました「軍事に言及する者は斬る。」
趙奢は営門を閉じて将兵に高臥(安心して寝ること。ゆっくり休むこと)させました。軍中が静かになります。
 
その頃、秦軍は戦鼓を敲いて士兵を指揮し、震霆(雷)のような喚声を上げていました。閼與の城中では屋根の瓦まで震動します。
その様子を一人の軍吏が趙奢に報告し、秦軍の勢いを詳しく語りました。すると趙奢は軍令を犯した罪で即刻斬首し、見せしめにしました。
 
趙奢は二十八日間に渡って駐留しました。毎日、兵達を使って塁壁を高くし、濠を深くして固守する態勢を整えます。
秦将胡傷は趙兵が兵を出したと聞いたのに姿を現さないため、諜人を送って探らせました。
諜人が報告しました「趙は本当に救兵を出しました。大将趙奢が指揮しています。しかし邯鄲城を出て三十里の場所で塁璧を築き、営寨を構えて進もうとしません。」
胡傷は報告を信じられず、左右に仕える親近の者を趙軍に派遣して趙奢にこう伝えました「秦は閼與を攻めており、旦暮(朝夕)には攻略する。将軍が戦えるのなら、速やかに戦いに来い。」
趙奢が言いました「寡君は隣邦が急を告げて来たので、某(私)を派遣して備えさせました。某がどうして秦と戦うのでしょう。」
趙奢は酒食を準備して秦の使者を厚くもてなし、四周の壁塁を観察させました。
秦の使者が帰って胡傷に報告すると、胡傷は大喜びして言いました「趙兵は国を出てわずか三十里で堅壁を築いて進まなくなった。塁壁を増やして自分の守りを固めるだけで、戦情(戦うつもり)は既にない。閼與は必ずわしが有すことになる。」
胡傷は趙への警戒を解いて韓攻撃に専念しました。
 
趙奢は秦の使者を帰らせてから約三日後、使者がそろそろ秦軍に戻った頃だと計算し、射術が得意で戦に慣れている騎兵一万人を選び出させました。一万の騎兵が前鋒となり、大軍が後に続きます。枚(声を出さないために口に含む小板)をくわえて甲冑を巻き、昼夜兼行して二日と一晩で韓の国境に至りました。閼與城から十五里の場所に再び軍塁を築きます。
それを知った胡傷は憤激し、兵の半分に城を包囲させると、老営(本営)の衆を総動員して趙軍を迎え撃ちました。
趙営の軍士許歴が簡(竹簡か木簡)の上に「請諫(諫言の機会を請う)」という二字を書いて営前で跪きました。趙奢は不思議に思って前令を撤回し、許歴を招いて言いました「汝は何を言いたいのだ?」
許歴が言いました「秦人は趙師が突然ここに至るとは思ってもいませんでした。今向かって来る秦師は士気が盛んです。元帥は兵を集めて陣を厚くし、衝突を防ぐべきです。そうしなければ必ず敗れます。」
趙奢は「わかった(諾)」と言って軍令を発し、陣を構えて待機させました。
許歴がまた言いました「『兵法』にはこうあります。『地の利を得た者が勝つ(得地利者勝)。』閼與の形勢は北山が最も高い地ですが、秦将はそこを拠点とすることを知りません。元帥のために残されているのです。速やかに北山を拠点にするべきです。」
趙奢はまた「わかった(諾)」と答え、許歴に兵一万を率いて北山の嶺の上を占拠させました。秦兵の行動が一望で手に取るように把握できます。
胡傷の兵が到着して山を争いましたが、山道が曲がりくねっていて進軍が困難です。秦兵で胆が大きい者数人が前に進みましたが、趙軍が投げる石で負傷しました。
胡傷は咆哮大怒し、軍将将兵を指揮して四方で道を探させました。すると突然、鼓声が鳴り響き、趙奢が大軍を率いて殺到しました。胡傷は軍を分けて対抗します。
趙奢は一万人の射手を左右各五千人の二隊に分け、秦軍に向けて乱射させました。
許歴も万人を駆って山頂から下りて来ます。勢いに乗って雷のように喚声を轟かせ、前後から秦軍を挟撃しました。天地が崩れるように(天崩地裂)秦軍を襲い、秦兵は身を隠す場所もなく、大敗して遁走しました。
胡傷は馬がつまずいて転倒し、趙兵に捕えられそうになりましたが、ちょうど兵尉斯離が軍を率いて到着し、命をかけて救出しました。
趙奢は五十里追撃しました。秦軍は兵を止めて整理する余裕もなく、ただ西に向かって逃奔します。こうして閼與の包囲が解かれました。
 
韓釐王が自ら趙軍を慰労し、趙王に書を送って謝意を伝えました。
趙王は趙奢を馬服君に封じ、位を藺相如や廉頗と並べました。趙奢が許歴の才を推挙したため、許歴は国尉に任命されました。
 
 
趙奢の子を趙括といい、若い頃から兵法を語るのが好きで、家に伝えられていた『六韜』『三略』の書を一覧して読み尽くしました。
かつて父の趙奢と兵法について議論しました。身振り手振りで激しく語り(指天画地)、目の中に人がいないようです。趙奢でも趙括の理論にかないませんでした。
趙括の母が喜んで言いました「このような子がいるのですから、将門からは将が出るというものです。」
しかし趙奢は不快な顔をしてこう言いました「括は将になるべきではない。趙が括を用いなかったら、社稷の福となるだろう。」
母が言いました「括は父の書を読み尽し、兵を論じたら天下に及ぶ者がないと信じています。あなたが将になるべきではないと言うのはなぜですか?」
趙奢が言いました「括は自ら天下に及ぶ者がないと思っている。それが将になってはならない理由だ。兵とは死地である(戦とは生死に関係する大切なことである)。戦戦兢兢として人々から広く意見を求めても、まだ漏れがあることを憂慮しなければならない。しかし括は簡単に語っている。もしも兵権を得たら必ず自分の考えを正しいと信じ、忠謀善策が耳に入らなくなるだろう。敗れるのは明らかだ。」
母は趙奢の言葉を趙括に伝えました。趙括が言いました「父は年老いて臆病になったのです。そのような言葉があっても当然でしょう。」
二年後、趙奢が病にかかって危篤になりました。
趙奢が趙括に言いました「戦とは危険な凶事であり、古人が戒めてきたことだ。汝の父は将として数年を過ごし、今日やっと敗衂(敗戦)の辱しめから免れることになった(敗戦の心配をする必要がなくなった)。死んでも瞑目できる。汝は将の才ではない。いたずらにその地位に居座って家門を滅ぼすようなことになってはならない。」
趙括の母にもこう言いました「後日、もしも趙王が括を召して将に任命したら、汝は必ず我が遺命を伝えて辞退せよ。師を喪って国を辱めるのは、決して細事(小事)ではない。」
言い終わると息が絶えました。
趙王は趙奢の功を念じて趙括に馬服君の職を継がせました。
 
後の事がどうなるのか、続きは次回です。

第九十七回 死范雎が秦国に逃げ、假張禄が魏使を辱める(一)