第百回 魯仲連が秦帝に肯かず、信陵君が符を盗んで趙を救う(後篇)

*今回は『東周列国志』第百回後編です。
 
信陵君が賓客を率いて士卒より先に進み、秦営を攻撃しました。
王齕は魏兵に不意を突かれ、慌てて抵抗します。
魏兵が勇敢に前進しすると、平原君も城門を開けて呼応しました。一場の大戦で王齕は兵の半分を損ない、汾水の大営に奔走します。
秦王は軍令を発して邯鄲の包囲を解き、秦に引き上げました。
鄭安平は二万の兵で東門に営塁を構えていましたが、魏兵に道を塞がれて帰国できなくなったため、嘆息して「私は元々魏人だ」と言い、魏に投降しました。
春申君は秦師が包囲を解いたと聞き、兵を還しました。
韓王は機に乗じて上党を取り返しました。
秦昭襄王五十年、周赧王五十八年の事です。
 
趙王が自ら牛酒を運んで魏軍を労い、信陵君に再拝して言いました「趙国は亡んだのに再び存続できました(亡而復存)。全て公子の力によるものです。古からの賢人で、公子に勝る者はいないでしょう。」
平原君が弩矢を背負って信陵君の前駆になりました。信陵君には功績を誇る様子が見られます。
すると朱亥が進言しました「人が公子に恩徳を及ぼしたら、公子は(その恩徳を)忘れてはなりません。公子が人に恩徳を及ぼしたら、公子は(その恩徳を)忘れなければなりません(人有徳於公子,公子不可忘。公子有徳於人,公子不可不忘也)。公子は王命を偽り、晋鄙の軍を奪って趙を救いました。趙においては功がありますが、魏において罪がないわけではありません(未為無罪)。公子はどうして自分に功があると思っているのですか?」
信陵君は恥じ入って「無忌()は謹んで教えを受けます」と言いました。
 
信陵君が邯鄲城に入ると、趙王が自ら宮室を掃除して信陵君を迎え入れました。恭しく主人の礼をとり、揖礼して信陵君を西階に招きます(西側の階段は賓客が登ります)。しかし信陵君は謙讓して賓客になろうとせず、ゆっくり東階にまわって登りました。
趙王が觴(杯)を献じて寿を祝い、公子が趙を救った功績を称賛しました。信陵君は恐縮した様子で謙遜してこう言いました「無忌は魏において罪があり、趙においては功がありません。」
宴が終わって賓館に帰ってから、趙王が平原君に言いました「寡人は五城を魏公子に封じたいと思っていたが、公子があまりにも謹讓を尽くので、寡人は恥ずかしくなって口にできなかった。鄗を公子の湯沐の邑にしたいから、寡人に代わって伝えてくれ。」
平原君は趙王の命を信陵君に伝えました。信陵君は再三再四辞退してからやっと受け入れました。
 
信陵君は魏王に対して罪があるため帰国できませんでした。兵符を将軍衛慶に渡し、兵を率いて魏に帰らせます。信陵君自身は趙国に留まりました。
魏に残っていた賓客も魏を棄てて趙に奔り、信陵君を頼りました。
 
趙王は魯仲連にも大邑を封じようとしましたが、魯仲連は固辞しました。大邑の代わりに千金を贈ることにしましたが、魯仲連はやはり受け取らず、「富貴になって人に屈するくらいなら、貧賎でも自由の方がいい」と言いました。
信陵君と平原君が共に魯仲連を留めようとしましたが、魯仲連は従わず、飄然と去っていきました。真の高士というものです。
 
当時、趙に毛公という処士がおり、博徒の中に隠れていました。また、薛公という処士がおり、売漿(酒売り)の家に隠れていました。
信陵君は以前から二人の賢名を聞いていたため、朱亥を送って会見を求めました。しかし二人は信陵君に会おうとしません。
ある日、信陵君が二人の行動を探って毛公が薛公の家にいると知りました。信陵君は車馬を使わず、朱亥だけを連れて、微服(庶民の服)で歩いて二人に会いに行くことにしました。売漿に化けて家を訪ねます。
二人が罏(酒屋にある酒甕を置くために造られた土の台)に酒を置いて飲んでいるところに、信陵君が入って来て姓名を告げ、以前から傾慕していたことを伝えました。
二人は逃げる暇もなく、やむなく信陵君を受け入れます。四人が同じ席で酒を飲み、充分楽しんでから解散しました。
この後、信陵君はしばしば毛薛二公と共に遊ぶようになりました。
 
それを聞いた平原君が夫人(信陵君の姉)に言いました「かねてから私は令弟(弟を尊敬した言い方)が天下の豪傑で、他の公子の中に並ぶ者がいないと聞いていた。しかし今は日々博徒や売漿の者と出遊している。異なる類(等級。身分)の者と交わっていたら、恐らく名誉を損なうことになるだろう。」
夫人が信陵君に会って平原君の言葉を伝えると、信陵君はこう言いました「私はかねてから平原君が賢者だと聞いていました。だから魏王を裏切ることになったとしても、兵を奪って助けに来たのです。しかし今、平原君が賓客に対する態度は、豪挙(豪傑が互いに称賛しあうこと。虚名)だけを重んじて賢士を求めようとしません。無忌(私)は国にいた時からしばしば趙に毛公と薛公がいると聞いており、同遊できないことを残念に思っていました。今日、私は二人のために鞭を執っていますが(二人と友人になれましたが)、まだ二人に嫌われることを恐れています。平原君はそれを羞だというのですか。そのような態度でどうして士を愛していると言えるのでしょう。平原君は賢者ではありません。私はここを去ります。」
信陵君はすぐ賓客に荷物をまとめさせ、他国に行こうとしました。
平原君は信陵君が荷造りをしていると聞き、驚いて夫人に問いました「勝(私)は令弟に対して失礼がないようにしてきた。なぜ突然私を棄てて去るのだ?夫人は理由を知っているか?」
夫人は「私の弟はあなたが賢人ではないと判断したので、留まりたくないのです」と言ってから、信陵君の言葉を伝えました。
平原君は顔を覆って嘆息し、こう言いました「趙に二人の賢人がおり、信陵君は知っていたのに私は知らなかった。私は信陵君に遠く及ばない。彼の態度と私の態度を較べたら、勝(私)は対等な人として較べることができない(私は彼に及ばない。原文「以彼形此,勝乃不得比於人類」)。」
平原君は急いで信陵君の館舍を訪ねると、冠を脱いで頓首し、失言の罪を謝りました。信陵君は再び趙に留まります。
平原君の門下の士でこの事を聞いた者は、大半が信陵君に投じました。四方の賓客で趙に周遊しに来た者も全て信陵君に帰し、平原君の名は聞かれなくなりました。
 
 
少し時間がさかのぼります。
衛慶が送った密使が魏国に入り、魏王に状況を報告しました「兵符を盗んだのはやはり公子無忌でした。晋鄙を撃殺して代わりに衆を統率し、趙を救うために進軍しています。しかも臣を軍中に留めて帰国させようとしません。」
激怒した魏王は信陵君の家属を逮捕し、国に残った賓客を皆殺しにしようとしました。
すると如姫が跪いて言いました「これは公子の罪ではありません。賎妾の罪です。妾は万死に値します!」
魏王が怒鳴って問いました「符を盗んだのは汝か!」
如姫が言いました「妾の父は人に殺されました。大王は一国の主でありながら妾の仇に報いられず、代わりに公子が報いてくださいました。妾は公子の深恩に感謝しており、自效(命をかけること)の機会がないことを恨みました。今回、公子が姉を想って日夜哀泣していたので、賎妾は見るに忍びず、公子の志を成すために、勝手に虎符を盗んで晋鄙の軍を進めさせました。妾はこう聞いています『同族の者が誰かと争っていたら、髪が乱れて冠の紐を解けていても、すぐ助けに行かなければならない(同室相鬥者,被髪纓冠而往救之)。』趙と魏は同室と同じです。大王は昔日の義を忘れてしまいましたが、公子は同室の急(危難)に赴きました。もし幸いにも秦を退けて趙を全うできれば、大王の威名は遠近に拡がり、義声は四海(天下)に勝るでしょう。妾は砕屍万段となっても(処刑されて体がばらばらになっても)恨むことはありません。信陵君の家属を逮捕し、賓客を誅殺したとして、信陵の兵が敗れたら甘んじてその罪に服すでしょう。しかしもし勝ったらどう対処するつもりですか?」
魏王は唸り声をあげて暫く考えました。怒気が少しずつ収まっていきます。魏王が言いました「汝は符を盗んだが、送った者がいるはずだ。」
如姫が言いました「符を送ったのは顔恩です。」
魏王は左右の者に命じて顔恩を逮捕させ、こう問いました「汝はなぜ兵符を信陵に送った?」
顔恩が答えました「奴婢(私)は今に至るまで兵符がどのようなものか知りません。」
如姫が顔恩を見て言いました「以前、私があなたに命じて花勝(華勝。首飾り)を信陵夫人に贈らせました。あの盒(箱)に入っていたのが兵符です。」
顔恩は如姫の意図を悟り、大哭して言いました「夫人の指示を奴婢が違えることができますか?あの時は花勝を送れと命じられただけです。盒は何重にも封がされていました。奴婢が中身を知ることはできません。今日、奴婢は屈死(冤死)することになりました!」
如姫も泣いて言いました「妾の罪は自分で責任を取ります。他の者に及ばさないでください。」
魏王は左右の者に怒鳴って顔恩の縄を緩めさせましたが、獄に入れました。如姫も冷宮(寵愛を失った妻妾が入る宮室)に送られます。同時に人を送って信陵君の戦いに関する消息を窺い、その結果を聞いてから処分を決めることにしました。
 
二月余が経ち、衛慶が兵を率いて帰国しました。
魏王に兵符を返して言いました「信陵君が秦軍に大勝しました。しかし、国に還ることができないので、自身は趙都に留まり、何回も大王を拝して『日を改めて罪(刑)を受けます』と告げました。」
魏王が戦いの様子を問い、衛慶が詳しく語りました。群臣が並んで拝礼し、祝賀して万歳を唱えます。
魏王も喜んで左右の近臣に如姫を迎えさせました。如姫は冷宮から出され、顔恩も獄から釈放されて罪が赦されました。
如姫が魏王に謁見し、恩を謝してからこう言いました「趙救援で功を成し、秦国に大王の威を畏れさせ、趙王に大王の徳を抱かせたのは、全て信陵君の功です。信陵君は国の長城であり、家の宗器でもあります。外邦(外国)に棄てておくべきではありません。大王は使者を送って本国に呼び戻すべきです。そうすれば、一つは親親(親族と親しむこと)の情を保ち、一つは賢賢(賢人を認めて尊重すること)の義を示すことができます。」
しかし魏王は「彼は罪から免れられただけで充分だ。なぜ功があると言うのだ」と言い、こう命じました「信陵君の名義で得られるべき邑俸(収入)は以前と同じように本府(信陵君の官府)の家眷(家族)に支給せよ。但し、信陵君を迎え入れてはならない。」
この後、魏と趙は暫く太平となります。
 
 
秦昭襄王が敗戦して帰国しました。太子の安国君が王孫子楚を連れて郊外で出迎え、そろって呂不韋の賢才を上奏します。
秦王は呂不韋を客卿に封じ、食邑千戸を与えました。
秦王は鄭安平が魏に降ったと聞いて激怒し、その家族を滅ぼしました。
鄭安平は丞相である応侯范雎に推挙されました。秦の法では推挙された者が命をかけて国に仕えなければ、推挙した者も同罪とされます。鄭安平が敵に降って族誅されたので、范雎も連坐する立場になりました。そのため范雎は席藁(蓆)を持って罪()を待ちました(蓆に座るのは刑を待つ時の姿です)
范雎の性命がどうなるのか、続きは次回です。

第百一回 秦王が周を滅ぼし、廉頗が燕を敗る(一)