第百一回 秦王が周を滅ぼし、廉頗が燕を敗る(二)

*今回は『東周列国志』第百一回その二です。
 
この頃、燕人で蔡澤という者がいました。博学で弁舌の才があり、とても自信を持っていましたが、敝車(粗末な車)で諸侯を巡って遊説を続けても相応しい君主との出会いがありません。
大梁に至った時、人相を観るのが得意な唐挙に会いました。蔡澤が問いました「先生はかつて趙国の李兌を観て『百日以内に国政を握るようになる』と言ったそうですが、本当ですか?」
唐挙が言いました「本当です(然)。」
蔡澤が問いました「僕(私)のような者は、先生はどう思いますか?」
唐挙は蔡沢を熟視してから笑って言いました「先生の鼻は蝎蟲(さそり)のような形をしており、肩は項(首)より高く、魋顔(魋は鬼の意味。額が突き出ていること。または醜い顔)蹙眉(眉をひそめること)で、両膝は湾曲しています。『聖人不相(聖人は人相を観ない。人相では聖人かどうかわからない)』と言いますが、先生のことではありませんか?」
蔡澤は唐挙が自分の容貌を元に戯れていると知り、こう言いました「富貴は私自身で得ることができます。私が分からないのは寿(寿命)です。」
唐挙が言いました「先生の寿は、今から四十三年あります。」
蔡澤が笑って言いました「私が精錬された穀物や肥えた肉を食べ(飯粱噛肥)、車に乗って馬を躍らせ、黄金の印を懐にしまい、紫綬を腰に結び、人主の前で揖讓する(国君の前で賓主の礼を用いること。尊敬されるという意味)には、四十三年もあれば充分です。それ以上求めるものはありません。」
その後、韓と趙を周遊しましたが志を得られず、再び魏に戻りました。ところが郊外で盗賊に遭い、釜甑(食器)を全て奪われてしまいます。食事もできずに樹の下で休んでいるとまた唐挙に遇いました。
唐挙が戯れて問いました「先生はまだ富貴を得ていませんか?」
蔡澤が言いました「今探しているところです。」
唐挙が言いました「先生には金水の骨があるので、西において道が開けるはずです。秦の丞相応侯が鄭安平と王稽を用いましたが、最近どちらも重罪を得ました。応侯は極めて慚愧し、懼れているので、すぐにでも負担を卸したいはずです。先生はなぜ秦に向かわずここに留まって困窮しているのですか?」
蔡澤が言いました「道が遠くて秦に行くのは困難です。どうすればいいでしょう?」
唐挙が囊(袋)を解いて数金を取り出しました。蔡澤が旅をする資金として提供します。
蔡澤は西に向かって咸陽に入りました。
 
蔡澤が旅邸(旅館)の主人に言いました「飯は必ず白粱(白米。精米)を使い、肉は必ず甘肥(肥えて美しい肉)を使え。私が丞相になった時、汝に厚く酬いよう。」
主人が問いました「客(あなた)は誰ですか?丞相になろうというのですか?」
蔡澤が言いました「私は姓を蔡、名を澤という。天下における雄辯有智の士だ。特別に秦王に謁見を求めに来た。秦王が私を一目見たら、必ず私の説(教え)を聞いて喜び、応侯を逐って私と交代させるだろう。相印はすぐ私の腰の下に懸かることになる。」
主人は狂言だと思って笑い、知人にこのことを話ました。
 
やがて応侯の門客が噂を聞いて范雎に伝えました。范雎が言いました「五帝三代の事も百家の説も、私が知らない事はない。衆口の辯も私に遇ったら必ず屈する。蔡澤という者は、どうして秦王を説得して私から相印を奪えるというのだ。」
范雎は人を旅邸に送って蔡澤を招きました。
主人が蔡澤に言いました「客(あなた)に禍が来ました。客が応侯に代わって相になると宣言したので、応府が招きに来ました。もし先生が行ったら必ず大辱を受けることになります。」
蔡澤が笑って言いました「私が応侯に会えば、彼は必ず相印を私に譲る。秦王に会う必要がなくなった。」
主人が言いました「客はあまりにも狂っています。私に累を及ぼさないでください。」
蔡澤は布衣躡屩(平民の服と草履)という姿で范雎に会いに行きました。
范雎は踞坐(あぐら)して待っています。蔡澤は長揖するだけで跪拝せず、范雎も座るように命じませんでした。
范雎が厳しい口調で問いました「私に代わって丞相になると外で宣言してるのは汝か?」
蔡澤は姿勢を正して傍に立ち、「その通りです(正是)」と答えました。
范雎が問いました「汝はどのような辞説(言葉。理由)があって私の爵位を奪うのだ?」
蔡澤が言いました「ああ(吁)、あなたは事象を見極めるのが晩すぎます。四時(四季)の秩序では、功を成した者は退き、これから来る者が進むようになっています。今日あなたは退くべきです。」
范雎が問いました「私が自ら退かないのに、誰が私を退かせるのだ?」
蔡澤が言いました「人生において、百体(全身)が堅強で、手足が便利であり(自由に動き)、聡明聖智で、天下に道を行って徳を施せる、これは世の人々から敬慕される賢豪の者ではありませんか?」
范雎が答えました「そうだ(然)。」
蔡澤が問いました「天下において志を得ており、安楽寿考(「寿考」は「長寿」の意味)して天年(天寿)を終わらせ、簪纓(貴人の冠飾。転じて官爵の意味)世禄が子孫に伝えられ、世世(代々)それが変わることなく、天地と終始を共にする(天地が存続する限り子孫も繁栄する)、これは世の人々が言う吉祥を得て事を善くした者ではありませんか?」
范雎が答えました「そうだ(然)。」
蔡澤が言いました「秦の商君、楚の呉起、越の大夫種は功を成したのに、その身は終わりを全うできませんでした。あなたもそうなることを望みますか?」
范雎は心中でこう考えました「この者は利害を語って徐々に核心に迫ろうとしている。もし願わないと答えたら、弁舌の術中に堕ちてしまう。」
そこで偽ってこう答えました「願わない理由はない。公孫鞅は孝公に仕え、公を尽くして私心がなく、法を定めて国内を治め、秦のために千里の地を開いた。呉起は楚悼王に仕え、貴戚を廃して戦士を養い、南は呉越を平定し、北は三晋を退けた。大夫種は越王に仕え、弱を強に転換し、勁呉(強国呉)を併呑して国君のために会稽の怨に報いた。確かに良い終わりを迎えることはできなかったが、大丈夫は身を殺して仁を成し、死を帰ることとみなすものだ。生前に功を建てて後世に名を残せるのなら、そうなることを願って当然であろう。」
この時、范雎は口では強がっていましたが、心中は既に不安で、座っていられなくなりました。立ち上がって蔡澤の言葉を待ちます。
蔡澤が言いました「主が聖人で臣に賢才があれば国の福となります。父に慈愛があって子に孝心があれが家の福となります。孝子は誰でも慈父を得たいと思い、賢臣は誰でも明君を得たいと思うものです。比干は忠臣でしたが殷は亡びました。申生は孝子でしたが国()は乱れました。身が悪死(よくない死に方)したのに君父を助けられなかったのはなぜでしょう。その君父が明君でも慈父でもなかったからです。商君、呉起、大夫種も不幸な死に方をしました。彼等は後世の名を得るために敢えて死を求めたのでしょうか。比干は剖され(殺され。腹を割かれ)、微子は去りました。召忽は戮され(殺され)管仲は生き続けました。(生き続けた)微子と管仲の名が(命を落とした)比干と召忽の下になるのでしょうか。よって、大丈夫が処世するには、身も名も全うできるのが上です。名が後世に伝えられて身が死ぬのが次です。名を辱しめて身を全うするのが下です。」
この話は范雎の胸中を爽快にしました。范雎は思わず席を離れて堂の下まで歩き、「素晴らしい(善)」と言いました。
蔡澤が続けて言いました「あなたは商君、呉起、大夫種が身を殺して仁を成したから、そうなることを望むと言いました。しかし閎夭が文王に仕え、周公が成王を補佐したことと較べたら如何でしょう?」
范雎が言いました「商君等は及ばない。」
蔡澤が問いました「それでは、今王が忠良を信任して故旧(旧臣)を厚く遇する態度は、秦孝公や楚悼王と較べてどうですか?」
范雎は暫く唸って考えてから「どちらがいいか分からない」と答えました。
蔡澤が問いました「あなたが国家における自分の功績を量った時、計を練って失策することがないという点において、商君、呉起、大夫種と較べてどうですか?」
范雎が答えました「私は彼等に及ばない。」
蔡澤が言いました「今王が功臣と親しんで信任するという点においては、秦孝公、楚悼王、越王句践を越えることがありません。そしてあなたの功績も商君、呉起、大夫種には及びません。ところがあなたの禄位は盛んになりすぎており、私家の富は三子の倍もあります。それなのに、急流の中にいて勇退を考えず(官職から去るという意味。原文「不思急流勇退」)、自分の安全を計らなかったら、彼等三子でも禍から逃れられなかったのですから、あなたならなおさらでしょう。翠(どちらも鳥)象が住んでいる環境は死から遠く離れていますが、それでも死ぬものが出るのは餌に惑わされるからです。蘇秦や智伯の智があっても、自分を守ることができずに殺されてしまったのは、際限のない貪利に惑わされたからです。あなたは匹夫徒歩(どちらも平民の意味)でありながら秦王の知遇を得て位が上相に上り、富貴を既に極め、怨に復讐して徳()にも報いました。それでも勢利(権勢と利益)に貪恋し、進むだけで退かないので、秘かに蘇秦や智伯の禍から逃れられなくなるのではないかと心配しています。こういう言葉があります『日が昇ったら必ず傾き、月が満ちたら必ず欠ける(日中必移,月満必虧)。』あなたはなぜ今のうちに相印を返上し、賢者を選んで推薦しないのですか?推薦した者が賢人なら、賢人を推薦した者がますます尊重されます。そしてあなたは栄誉を辞すという名分によって、実は重荷を卸すことができます。こうすれば川岩の楽を探し(隠居生活を楽しみ)、喬松(王子喬と赤松子。仙人)の寿を享受し、子孫世世、長く応侯を継承できるでしょう。軽重の勢(権勢)に拠って予期できない禍を踏むのとどちらがましですか?」
范雎が言いました「先生は自ら雄辯有智と言っていましたが、まさにその通りです。雎(私)は謹んで命を受け入れます。」
范雎は蔡澤を上坐に招いて客礼で遇し、自分の賓館に留めて酒食でもてなしました。
 
翌日、范雎が入朝して秦王に言いました「新たに山東から来た客がおり、蔡澤といいます。その者には王伯(王道と覇道)の才があり、時勢の変化に精通しているので、秦国の政を任せるに足ります。臣が見てきた者は大勢いますが、彼に匹敵する者はなく、臣も万に一つも及びません。臣は賢才を隠しておくわけにはいかないので、謹んで大王に推挙します。」
秦王は蔡澤を便殿に招いて六国兼併の計を問いました。蔡澤は冷静に一つ一つ詳しく応え、秦王の意を満足させたため、即日、客卿に任命されました。
そこで范雎は病を理由に相印を返しました。秦王は同意しませんでしたが、范雎が病が重くて立ち上がれないと称したため、蔡澤が范雎に代わって丞相に任命され、剛成君に封じられました。
范雎は引退して封地の応で老後を過ごしました。
 
 
 
*『東周列国志』第百一回その三に続きます。

第百一回 秦王が周を滅ぼし、廉頗が燕を敗る(三)