第百一回 秦王が周を滅ぼし、廉頗が燕を敗る(三)

*今回は『東周列国志』第百一回その三です。
 
話は燕に移ります。
燕昭王が復国してから在位三十三年で恵王に位が伝えられました。その後、恵王は在位七年に死んで武成王に位を伝え、武成王は在位十四年で死んで孝王に位を伝え、孝王は在位三年で死んで燕王喜に位を伝えました。
喜は即位してから子の丹を太子に立てました。燕王喜四年は秦昭襄王五十六年にあたります。
この年、趙の平原君趙勝が死んで廉頗が相国になりました。信平君に封じられます。
燕王喜は趙国が隣接しているため、様子を探るために相国栗腹を送って平原君を弔問させました。この機会に五百金を酒資(酒宴の費用)として趙王に贈り、兄弟の交わりを結ぼうとします。
使者として趙を訪れた栗腹は、趙王から厚賄を与えられることを期待していました。しかし趙王は通常の礼で対応します。
栗腹は心中不快になり、帰国してから燕王にこう報告しました「趙は長平の敗戦で壮者が全て死に、孤児もまだ幼い者ばかりです。しかも相国が死んだばかりで廉頗も年老いています。もし相手の不意を突き、兵を分けて討伐したら、趙を滅ぼすことができます。」
燕王はこの言に惑わされて昌国君楽閒に意見を求めました。
楽閒が言いました「趙国は、東は燕に隣接し、西は秦境に接し、南の国境は韓魏と入り組んでおり、北は胡貊が連なっているので、四野の地に住む民が兵(戦)を習熟しています。軽率に攻めてはなりません。」
燕王が問いました「我が軍が三倍の衆で一の敵を攻めたらどうだ?」
楽閒が答えました「それでも無理です(未可)。」
燕王が問いました「五倍の衆で一と戦ったらどうだ?」
楽閒は答えません。
燕王が怒って言いました「汝は父楽毅の墳墓が趙にあるから攻めたくないのであろう!」
楽閒が言いました「王が信じないのなら、臣に試させてください。」
群臣が燕王の意におもねって言いました「天下に五倍の衆で一の敵にも勝てない者がいますか。」
大夫将渠だけは諫めてこう言いました「王は衆寡を語るべきではありません。まず曲直を語るべきです。王は趙と交歓して五百金で趙王の寿を祝いました。それなのに使者が帰って報告したらすぐに攻撃しようとしています。不信不義であったら、師が功を立てることはできません。」
燕王は納得せず、栗腹を大将に、楽乗を佐に任命し、兵十万で鄗を攻撃させました。また、慶秦を副将に、楽閒を佐に任命して兵十万で代を攻撃させました。燕王も自ら兵十万を率いて中軍となり、後ろで待機します。
燕王が車に乗ろうとした時、将渠が王の綬(印璽の紐)を引いて泣きながら言いました「趙を攻めるとしても、大王が自ら行ってはなりません。左右を動揺させることになります。」
燕王は怒って将渠を蹴りました。しかし将渠は王の足に抱き付いて離れようとせず、こう言いました「臣が大王を留めるのは忠心によるものです。王が聴かなければ燕に禍が至ります!」
燕王はますます怒って将渠を獄に繋げさせました。凱旋の日を待って殺すつもりです。
三軍が道を分けて進軍を開始しました。旌旗が野を埋めて殺気が空に昇り、趙土を蹂躙して燕領を拡げようという希望がみなぎります。
 
趙王は燕兵が迫っていると聞いて群臣を集めました。相国廉頗が進み出て言いました「燕は我が国が喪敗の余りにあり(敗戦と相国の喪があったばかりであり)、士伍(兵卒)が充分ではないと思っています。もし国中に大賚(大賞)を与え、十五歳以上の民にことごとく兵(武器)を渡して戦を援けさせれば、軍声が一振しただけで燕の気は自然に奪われるでしょう。栗腹は功を欲していますが元々将略がありません。慶秦は無名の小子です。楽閒と楽乗は昌国君楽毅の関係によって燕と趙を往来しているので、尽力しないでしょう。燕軍は必ずすぐに敗れます。」
廉頗は雁門の李牧に将才があると言って推挙しました。
趙王は廉頗を大将に任命し、兵五万を率いて鄗で栗腹を迎え撃たせました。また李牧を副将に任命し、同じく兵五万を率いて代で慶秦を迎え撃たせました。
 
廉頗の兵が房子城に至りました。栗腹が鄗にいると知り、丁壮を全て鉄山に隠して老弱の兵だけを営塁に並べました。
栗腹は探りを入れて趙営の様子を知り、喜んで言いました「わしは趙卒に戦う力がないと知っていた。」
栗腹は兵を率いて鄗城を急攻します。
鄗城の人々は援軍がすぐに到着すると知っていたため、城を堅守しました。燕軍は十五日に渡って攻め続けましたが、一向に攻略できません。その間に廉頗の大軍が到着しました。
廉頗はまず疲卒数千人を出して戦いを挑みました。栗腹は楽乗を留めて城を攻めさせ、自ら出陣して廉頗と戦います。趙軍は一合交えただけで力尽き、大敗して逃げ出しました。
栗腹が将士を指揮して趙軍を追います。
ところが、六七里ほど進んだ所で一斉に伏兵が現れました。先頭にいる大将が車を駆けて前に進み、大声で叫びました「ここにいるのは廉頗だ!来将は速やかに縄を受けよ!」
栗腹は怒って刀を振るい、趙兵を迎え撃ちました。しかし廉頗の武芸は高強で、率いているのも選び抜かれた精卒です。一兵が百人の働きを見せました。
数合もせずに燕軍が大敗し、廉頗が栗腹を捕らえました。
楽乗は主将が捕えられたと聞き、包囲を解いて撤退しようとしました。そこに廉頗の使者が訪れて楽乗を招きました。楽乗は趙軍に奔りました。
 
ちょうどその頃、李牧も代を援けて戦勝し、慶秦を斬りました。人を送って勝利の報告をします。
楽閒は残った兵を率いて清涼山を守っていましたが、廉頗が楽乗に書信を書かせて楽閒を招いたため、楽閒も趙に降りました。
 
燕王喜は両路の兵が共に敗没したと聞き、夜を通して中都に逃げ帰りました。
廉頗が長駆して燕領に深入りし、厚い包囲網を築いて中都を苦しめます。
燕王が使者を送って和を乞うと、楽閒が廉頗に言いました「元々趙を攻めるように主張したのは栗腹です。大夫将渠は先幾の明(先見の明)があって苦諫しましたが、聴き入れられず、獄に繋がれています。もし講和に同意するのなら、燕王に要求して将渠を相国に任命させ、彼を講和の使者にさせるべきです。」
廉頗はこの意見に従いました。
燕王はやむなく獄中から将渠を招き、相印を渡しました。将渠が辞退して言いました「不幸にして臣が言った通りになってしまいました。国の失敗を幸として自分の利を成すことはできません。」
燕王が言いました「寡人は卿の言を聞かなかったために自ら辱敗を招いてしまった。今、趙に講和を求めるには、卿でなければ務まらない。」
将渠は相印を受け取って燕王に言いました「楽乗と楽閒はその身を趙に投じましたが、先世は燕において大功があります。大王は彼等の妻子を送るべきです。そうすれば彼等が燕の徳を忘れることなく、和議も速やかに成立するはずです。」
燕王はこれに従いました。
将渠が趙軍に入って燕王の代わりに謝罪しました。併せて楽閒と楽乗の家属を送ります。
廉頗は講和に同意し、栗腹の首を斬って慶秦の死体と一緒に燕に送り返しました。即日、撤兵して趙に帰ります。
趙王は楽乗を武襄君に封じました。楽閒は今まで通り昌国君を称します。
李牧が代郡守になりました。
 
当時、劇辛が燕のために薊州を守っていました。
劇辛はかつて楽毅と共に昭王に仕えていたため、燕王は楽乗と楽閒を招くため、劇辛に書信を書かせました。しかし楽乗と楽閒は燕王が忠言を聞かなかったために禍を招いたことを考えて、趙に留まりました。
将渠は燕相になりましたが、燕王の本意ではなかったため、半年も経たずに病と称して相印を返しました。燕王は代わりに劇辛を相にしました。
 
 
 
*『東周列国志』第百一回その四に続きます。