第百一回 秦王が周を滅ぼし、廉頗が燕を敗る(四)

*今回は『東周列国志』第百一回その四です。
 
話はまた秦に戻ります。
秦昭襄王が即位して五十六年が経ちました。年も七十に近づきます。
その年の秋、昭襄王が病を患って死にました。
太子の安国君柱が即位しました。これを孝文王といいます。趙女(趙姫)が王后に、子楚が太子に立てられました(『東周列国志』は触れていませんが、子楚が太子に立てられた時に趙姫と子の趙政が趙から秦に迎え入れられました)
韓王が秦王の喪を聞いて真っ先に衰絰(喪服)で弔問に駆けつけました。喪事に臨む様子は臣子の礼を尽くしているようです。
諸侯も皆、将相大臣を葬儀に参加させました。
孝文王は喪を除いて三日後に群臣と大宴を開きました。ところが、宴が解散して王宮に帰るとすぐに死んでしまいました。
国人は客卿呂不韋が子楚を早く王に立てるため、孝文王の左右の者に重賄を贈って酒に毒を入れさせ、秦王を毒殺したのではないかと疑いました。しかし皆心中で呂不韋を恐れていたため、敢えて口出しする者はいませんでした。
 
呂不韋は群臣と共に子楚を奉じて王位を継がせました。これを荘襄王といいます。華陽夫人は太后になり、趙姫が王后に、子の趙政(「趙政」が名です。第九十九回参照)が太子になりました。趙政は趙の字を取って単名の政とよぶことになりました。
蔡澤は荘襄王呂不韋に深く感謝しており、相に任命したいと思っていると知り、病と称して相印を譲りました。呂不韋が丞相になり、文信侯に封じられて河南雒陽十万戸が食邑として与えられます。
呂不韋孟嘗君、信陵君、平原君、春申君の名声を慕っており、自分が四人に及ばないことを恥じとしました。そこで館を設けて賓客を集めます。その数は三千余人を数えました。
 
 
東周君が秦の状況を知りました。立て続けに二王が死んで国内が多難だと聞き、秦を討伐するために、賓客を諸国に派遣して合従を提唱しました。
それを知った丞相呂不韋荘襄王に言いました「西周は既に滅び、東周の一線だけがまだ残っています。彼等は文武西周文王武王)の子孫を自任して天下を鼓動しようとしているので、全て滅ぼして人々の望み(周王室復興の希望)を絶つべきです。」
秦王は呂不韋を大将に任命し、兵十万で東周を討伐させました。
呂不韋は東周君を捕らえて帰国し、鞏城等七邑をことごとく占領します。
周は武王が己酉の年に命を受け、東周君の壬子の年(前249年)に終わりました。三十七王を経て八百七十三年で秦によって祭祀が絶たれます。
周の歴史をまとめた歌訣(要点をまとめた覚えやすい歌)があります。
「周は武幽まで十二主が強盛で、二百五十二年にわたる(周武成康昭穆共,懿孝夷厲宣幽終,以上盛周十二主,二百五十二年逢)
東遷してからは平霊が継ぎ、景貞定威烈烈と続く(東遷平桓荘釐恵,襄頃匡定簡霊継,景悼敬元貞定哀,思考威烈安烈序)
顕の子慎靚と赧王で亡び、東周で廿六(二十六)となって対を成す(東遷してからの王は二十五人で、赧王の後も周の祭祀を継承した東周君を加えたら二十六代になります)。帝嚳の子后稷棄に始まり、太王、王季、文王で興隆する(顕子慎靚赧王亡,東周廿六湊成双,系出嚳子后稷棄,太王王季文王昌)
前後三十八主、八百七十四年(上の文では八百七十三年)は、年数も世数も卜の結果を越えている。宗社(宗廟と社稷が長いこと他にない(首尾三十有八主,八百七十年零四,卜年卜世数過之,宗社霊長古無二)。」
 
秦王は周を滅ぼした勢いに乗って蒙驁に韓を襲わせました。成皋と栄陽を取って三川郡を置き、国境が大梁に迫ります。
秦王が言いました「寡人は昔、質として趙におり、趙王に殺されそうになった。この仇に報いなければならない。」
再び蒙驁を派遣して趙を攻め、楡次等三十七城を取って太原郡を置きました。
更に南の上党を平定して魏の高都を攻めます。しかし攻略できなかったため、秦王は王齕に兵五万を与えて援けさせました。
 
魏兵が連敗したため、如姫が魏王に言いました「秦が魏を激しく攻めているのは、魏を侮っているからです。魏を侮っているのは信陵君がいないからです。信陵君の賢名は天下に聞こえているので諸侯の力を得ることができます。大王が使者を送り、辞を低く幣礼を厚くして趙から招き、彼を使って列国を合従させ、力を合わせて秦に対抗すれば、たとえ蒙驁のような者が百人いても魏を正視できなくなります。」
魏王は形勢が危急だったため、やむなく如姫の計に従い、顔恩を使者にしました。
顔恩が相印と大量な黄金彩幣を持って趙に行き、信陵君に魏王の書を送ります。その内容はこうです「公子はかつて趙国の危難を忍ぶことができなかったのに、今は魏国の危難を忍べるのか。魏が危急の時だ。寡人は国を挙げて公子の帰国を首を長くして待っている。公子が寡人の過ちを忘れてくれれば幸いだ。」
信陵君は趙国に住んでいましたが、魏の状況を探る賓客の往来が絶えなかったため、動きを全て把握していました。魏が自分を迎えるために使者を送ったと聞き、恨んで言いました「魏王が私を趙に棄てて十年も経つ。今、危急の時になって私を招こうとしているが、心中から私を想っているのではない。」
信陵君は門下に書を掲げました。「魏王のために使者を通した者には死を与える」と書かれています。
賓客は互いに戒め合い、帰国を勧める者はいませんでした。
 
顔恩は魏(趙の誤り)に来て半月が経ちましたが、公子に会う機会がありません。魏王が絶えず別の使者を送って催促するため、顔恩は門下の客に伝言を頼みましたが、誰も信陵君に伝えようとしません。そこで、信陵君が外出するのを待って路上で待ち伏せすることにしました。ところが信陵君は魏の使者を避けるため、外出もしなくなりました。顔恩は完全に成す術がなくなります。
信陵君は魏に帰るのか、続きは次回です。

第百二回 信陵が蒙驁を敗り、龐煖が劇辛を斬る(前篇)