第百二回 信陵が蒙驁を敗り、龐煖が劇辛を斬る(中篇)

*今回は『東周列国志』第百二回中編です。
 
秦王は信陵君が来ないと知って計画の失敗を悟り、心中で激怒しました。
蒙驁が秦王に密奏しました「魏の使者朱亥は鎚で晋鄙を撃った人物です。魏の勇士なので秦に留めて用いるべきです。」
秦王は朱亥に官職を与えようとしました。しかし朱亥は堅辞して受け入れません。
ますます怒った秦王は左右の者に命じて朱亥を虎圈(虎の檻)に入れさせました。虎圈には斑斕(まだら模様)の大虎がいます。檻に人が入ってきたため、すぐに襲いかかろうとしました。
すると朱亥が大喝しました「畜生が無礼をはたらくのか!」
朱亥は両目を見開いています。まるで血盞(血が入った皿)のように大きく、目尻が裂けて血が虎にかかるほどでした。虎はその場に伏せて脚を震わせ、長い間動けなくなりました。
秦王の近臣があきらめて朱亥を檻から引き出します。
秦王が嘆息して言いました「烏獲や任鄙でも彼には及ばないだろう。もし彼を放して魏に帰らせたら、信陵君に翼を与えることになる。」
秦王はますます投降させたいと思いましたが、朱亥は従いません。秦王は朱亥を駅舍に拘留して飲食を絶たせました。
朱亥は「私は信陵君の知遇を受けた。死によって報いなければならない」と言って頭を部屋の柱にぶつけました。しかし柱は折れたのに頭は割れません。そこで自分の手を口の奥に入れ、咽喉を絶って死にました(原文「以手自探其喉,絶咽而死」。具体的にどう死んだのかはよくわかりません)。真に義士というものです。
 
朱亥を殺した秦王が再び群臣を集めて言いました「朱亥は既に死んだが、今も信陵君が政治を行っている。寡人は君臣を離間させたいと思うが、諸卿に良策がないか?」
剛成君蔡澤が言いました「以前、信陵君は符を盗んで趙を救ったため、魏王の罪を得ました。魏王は彼を趙に棄てて再会を許さなかったほどです。後に秦兵が城を囲んで危急を告げたため、やむなく呼び戻しました。信陵君は四国を糾合して大功を成しましたが、その功績は主の地位を脅かしているので、魏王はきっと疑忌の意を抱いています。また、信陵君は鎚で晋鄙を殺しました。鄙が死んでから、宗族や賓客が深い恨みを持っているのも間違いありません。大王は金万斤を細作(諜者)に持たせて秘かに魏に送り、晋鄙の党を求め訪ねて多額の金を与え、このような流言を散布させてください『諸侯は信陵君の威を畏れており、皆、彼を奉じて魏王に立てたいと思っている。信陵君は間もなく簒奪の事を行うだろう。』こうすれば魏王は必ず無忌を疎遠にしてその権力を奪います。信陵君が政治を行わなくなったら、天下の諸侯はまた瓦解するでしょう。そこで我々が兵を使えば、我が国の難となる者はいません。」
秦王が言いました「卿の計は素晴らしい。ところで、魏が我が軍を破ったが、魏の太子増がまだ質として我が国にいる。寡人は彼を捕らえて殺し、恨みを晴らしたいと思うが如何だ?」
蔡澤が言いました「一人の太子を殺しても、彼等はもう一人の太子を立てるだけです。魏の損失にはなりません。逆に太子を利用して魏で反間させるべきです。」
秦王は悟って太子増を厚く遇しました。同時に万金を持った細作を魏国に送って策を実行します。また全ての賓客(恐らく蔡澤の賓客)に太子増と関係を結ばせ、賓客から太子にこう密告させました「信陵君は国外に十年もおり、諸侯と交わりを結んできたので、諸侯の将相で敬い恐れない者はいません。今は魏の大将となり、諸侯の兵も全て彼に属しています。天下は信陵君がいることを知っているだけで、魏王がいることは知りません。我が秦国ですら、信陵君の威を畏れているので、彼を王に立てて連和したいと思っています。信陵君がもし即位したら、必ず秦に太子を殺させて民の望みを絶とうとするでしょう。そうしなかったとしても、太子は秦で終老を迎えることになります。どうするつもりですか。」
太子増が泣いて計を求めました。
賓客が言いました「秦は魏との通和を求めています。太子はなぜ一書を魏王に送って太子の帰国を請わないのですか(魏と秦が和を結んだら人質も帰ることができます)?」
太子増が言いました「帰国を請うても秦が私を放とうとはしないだろう。」
賓客が言いました「秦王が信陵を奉じようとしているのは本意ではありません。畏れているからです。もし太子が国を挙げて秦に仕えるのなら、それは秦の願いでもあります。(あなたが秦のためになるのなら)秦が(あなたの帰国に)同意しないはずがありません。」
太子増は密書を準備し、諸侯が信陵に帰心していること、秦も信陵を擁立して王に立てようとしていること等を書きました。最後に帰国を求める気持ちも述べます。
太子は書を賓客に渡し、秘かに魏王に送るように託しました。
それを見届けた秦王も二通の書を準備しました。一通は魏王に朱亥の喪(死体)を送り返す書で、病死と称しました。一通は信陵君を祝賀する内容で、金幣等の礼物も一緒に送りました。
 
魏王は晋鄙の賓客による流言を聞いていたため、心中で疑いを抱いていました。そこに秦使が到着し、国書を献じて魏との息兵(停戦)修好を求めます。魏王が秦の意図を詳しく問うと、秦の使者が述べたのは全て信陵君を敬慕する言葉でした。
更に太子増の家信も受け取ったため、心中でますます猜疑します。
 
その頃、秦の使者がもう一通の書と幣礼を信陵君の府中に送り、故意に情報を流して魏王の耳に入るようにしました。
 
信陵君は秦の使者が講和を求めに来たと聞き、賓客にこう言いました「秦は兵戎の事(戦)があるわけでもないのに、魏に何を求める必要があるのだ。これは計に違いない。」
言い終わる前に閽人(門衛)が報告に来ました。秦の使者が門前に来ており、秦王からの祝賀の書があると言います。
信陵君が言いました「人臣は義において私的な交わりを結ばないものだ。秦王の書幣を受け取るわけにはいかない。」
秦の使者が再三にわたって秦王の意を伝えましたが、信陵君も再三にわたって拒否しました。
ちょうどそこに魏王の使者が来ました。秦王が信陵君に送った書信を見せるように要求します。信陵君が言いました「魏王は既に書が届いたことを知っている。もし私が受け取らなかったと言っても信じないだろう。」
信陵君は車を準備させてから秦王の書幣を受け取り、封をしたまま魏王に届けて言いました「臣は再三にわたって辞退し、封も開けませんでした。今回、王が確認されるとのことでしたので、やむなく受け取って献上しました。王の裁きに委ねます。」
魏王は「書の中に必ず情節(状況。事情)が書かれている。見てみなければ判断できない」と言って書を開きました。そこにはこう書かれています「公子の威名は天下に広く聞こえており、天下の侯王で公子に傾心していない者はいません。日を置かずに位を正して南面し、諸侯の領袖となることでしょう。魏王が讓位するのはいつでしょうか。首を長くしてその日を待っています。不腆の賦(粗末な礼物)は事前に祝賀の誠意を示すために準備しました。公子はこれを嫌わず、どうかお受け取り下さい。」
読み終った魏王は信陵君に見せました。
信陵君が言いました「秦人は詐術が多いので、この書は我々君臣を離間させるためのものに違いありません。臣が受け取らなかったのは、正に書中に何が書かれているのか分からず、その術中に陥ることを恐れたからです。」
魏王は「公子にそのような心がないのなら、寡人の面前で返書を書け」と言って左右の者に紙(当時は紙がありませんが原文のままにしておきます)と筆を持って来させました。信陵君が返書を書きます「無忌は寡君の不世の恩(普通の人生では受けられないような恩。特別な恩)を受けており、糜首(頭を失うこと)しても酬いることができません。よって南面(即位すること)の語に人臣(私)を動かす力はありません。貴君の辱貺(恩恵)を蒙りましたが、死を冒してでも辞退します。」
書は秦の使者に渡され、金幣と一緒に送り返されました。
魏王も使者を送って秦の修好の意に謝辞を述べ、併せてこう伝えました「寡君は年老いたので、太子増の帰国を請います。」
秦王は同意しました。
 
魏に帰った太子増は再び信陵君に政治を任せるべきではないと進言しました。
信陵君には後ろめたいことなどありませんでしたが、王の心中から芥蔕(わだかまり。猜疑心)が消えていないと判断し、病と称して入朝しなくなりました。相印と兵符も魏王に返還します。
この後、信陵君は賓客と長夜の宴を開き、婦女を近づけて日夜の楽しみとしました。その様子はまるで欲求を満足できないことを恐れているようでした。
 
 
荘襄王は在位三年で病にかかりました。丞相呂不韋が入宮して病状を問い、その機会に内侍を通して秘かに緘書(書信)を王后(趙姫)に渡しました。往日の誓いが伝えられます。王后も旧情を断っていなかったため、呂不韋を召して私通しました。
呂不韋が医薬を王に進めました。王は病を患って一カ月で死んでしまいます。
呂不韋が太子政を即位させました。この時わずが十三歳です。荘襄后(趙姫)太后になり、秦王政の同母弟成嶠を長安君に封じました。国事は全て呂不韋によって決定され、秦王の太公(父)と同等であるという意味から「尚父」と号しました。
呂不韋の父が死ぬと四方の諸侯や賓客が弔問し、市のように人が集まりました。車馬が道を塞ぎ、秦王の喪よりも盛大になります。正に「権勢が中外を傾け、威信が諸侯を振わす(権傾中外,威振諸侯)」という状態でした。
 
秦王政元年、呂不韋は信陵君が退けられたと聞き、再び用兵を議しました。
大将蒙驁に命じて張唐と共に趙を攻撃させ、晋陽を攻略します。
三年、再び蒙驁を送って王齕と共に韓を攻撃させました。韓は公孫嬰に抵抗させます。
王齕が言いました「私は趙で一敗し、魏で再敗したが、秦王に赦されたおかげで誅されなかった。今回は死によって報いなければならない。」
王齕は私属千人を率いて直接、韓営を侵し、力戦して死にました。しかし韓軍も混乱に陥ります。蒙驁が乗じて韓師に大勝し、公孫嬰を殺しました。
秦軍は韓の十二城を奪って帰国します。
 
信陵君が廃されてから趙と魏の友好も絶たれていたため、趙孝成王が廉頗に魏を攻撃させました。
廉頗は繁陽を包囲しましたがなかなか攻略できません。その間に孝成王が死んで太子偃が跡を継ぎました。これを悼襄王といいます。
すぐに廉頗が繁陽を落とし、勝ちに乗じて進攻を開始しました。
 
趙の大夫郭開は諂佞によって国君に仕えており、廉頗に嫌われていました。かつて宴席で面罵されたこともあります。郭開は心中に恨みを抱いていたため、悼襄王に讒言して言いました「廉頗は既に老いたので事を任せるべきではありません。魏を攻めて久しいのにまだ功がありません。」
悼襄王は武襄君楽乗を派遣して廉頗と交代させました。
廉頗が怒って言いました「わしは恵文王に仕えて将になってから四十余年になるが、挫失(挫折、失敗)したことがない。楽乗とは何者だ!わしと代わることができるか!」
廉頗は兵を率いて楽乗を攻撃しました。楽乗は恐れて帰国します。
廉頗は魏に奔りました。
魏王は廉頗を尊重して客将にしましたが、疑って用いませんでした。廉頗は大梁に住むことになります。
 
 
 
*『東周列国志』第百二回後編に続きます。