第百二回 信陵が蒙驁を敗り、龐煖が劇辛を斬る(後篇)

*今回は『東周列国志』第百二回後編です。
 
秦王政四年十月、蝗蟲が東方から飛んできて天を覆いました。禾稼(農作物)が収穫できず、疫病も流行します。
呂不韋が賓客と議して政令を発しました。百姓に粟を納めさせ、千石を納めたら爵一級を与えると約束します。後世の納粟の慣習穀物を納めて官爵を得る制度)はここから始まりました。
 
この年、酒色に溺れていた魏の信陵君が病を患って死にました。馮驩も哭泣し、哀愁が過ぎて死んでしまいました。賓客で自刎して信陵君に従った者は百余人に上ります。信陵君が士の心を得ていたことがわかります。
 
翌年、魏安釐王も死にました。太子増が跡を継ぎます。これを景湣王といいます。
秦は魏が国君の喪を行ったばかりで、信陵君も既に死んだと知り、敗戦の恨みに報いることにしました。
大将蒙驁に魏を攻撃させて酸棗等二十城を攻略し、東郡を置きます。
すぐに朝歌も占領し、濮陽も降しました。魏王の婿にあたる衛元君は東の野王に奔り、山に隠れて住みました。
魏景湣王が嘆いて言いました「信陵君がまだいれば、秦兵をこれほどまで縦横させることはなかったのだが。」
魏王は使者を送って趙と通好することにしました。
趙悼襄王も秦の侵伐が際限ないことを心配しており、列国を糾合するために使者を送って信陵平原二君の合従の盟約を温め直したいと思っていました。
そこに突然、辺吏が報告しました「燕国が劇辛を大将に任命し、兵十万で北界を侵しました。」
 
劇辛は元々趙人で、趙にいた頃、龐煖と交流がありました。後に龐煖が趙に仕えてから、劇辛は燕昭王に投じました。昭王は劇辛を用いて薊郡守にします(第百一回では薊郡ではなく薊州です)
燕王喜が趙将廉頗のために都城で包囲された時、将渠のおかげで講和して危難から免れましたが、深く恥としました。その後、将渠が燕の相になりました。但しこれは趙人の命によるもので、燕王の意思ではありません。将渠は信陵君を助けて秦と戦い、功績を立てたとはいえ、君臣の間に充分な信頼関係があったわけではないので、相になって一年余で病と称して印綬を返しました。
そこで燕王は劇辛を薊に招いて(劇辛は薊郡守なので、元々薊にいたはずです。薊は燕の国都です)相国とし、共に趙に報いる計策を練り始めました。しかし廉頗を恐れていたため動きがとれません。
最近、その廉頗が魏に奔り、龐煖が将になりました。劇辛は龐煖をすこぶる軽視していたため、燕王の意に迎合してこう言いました「龐煖は庸才で廉頗の比ではありません。それに秦兵が既に晋陽を攻略し、趙人は疲敝しています。この隙に乗じて攻め入るべきです。栗腹の恥を雪ぐ時です。」
燕王が喜んで言いました「寡人にも正にその意があった。相国は寡人のために行ってくれるか?」
劇辛が言いました「臣は趙の地の利を熟知しています。もし重任を委ねていただけるのなら、必ず龐煖を生け捕りにして大王の前に献上してみせます。」
燕王はますます喜び、劇辛に兵十万を与えて趙を攻撃させました。
 
報告を聞いた趙王はすぐに龐煖を招いて計議しました。龐煖が言いました「劇辛は宿将を自負しているので必ず軽敵の心(敵を軽視する心)を持っています。今、李牧が代郡を守っているので、彼に軍を率いて南行させましょう。慶都から一路進んで敵の後ろを断たせます。臣が一軍を率いて迎え撃てば、敵は腹背から攻撃されることになるので、必ず擒にできます。」
趙王は龐煖の計に同意しました。
 
劇辛は易水を渡って中山を経由し、直接、常山の境を侵しました。兵の勢いはとても鋭くて盛んです。
龐煖は大軍を東垣に駐軍させました。深い溝と高い塁壁を築いて燕軍を待ちます。
劇辛は「我が軍が深入りしたのに敵は壁を堅めて戦おうとしない。功を成す日は近い」と言うと、帳下に問いました「誰か戦いを挑む者はいないか?」
驍将栗元は栗腹の子で父の仇讎に報いたいと思っていたため、喜んで名乗り出ました。
劇辛が言いました「もう一人を得て助けさせる必要がある。」
末将の武陽靖も名乗りを上げました。
劇辛は二人に鋭卒一万を与えて趙師を攻撃させます。
龐煖は楽乗と楽閒を両翼にして待機させ、自ら軍を率いて迎撃しました。両軍がぶつかって二十余合を経た時、砲声が一度鳴り響いて両翼が並進します。それぞれ強弓勁弩で燕軍を乱射しました。
武陽靖は矢に中って戦死し、栗元は抵抗できないと判断して退却しました。
龐煖が二将と共に追撃し、一万の鋭卒のうち三千余人を倒します。
激怒した劇辛は急いで大軍を投入し、自ら栗元を援けに行きました。しかし龐煖は既に営内に帰っていました。
劇辛は趙の営塁を攻めても進入できないため、使者を送って書を届け、翌日陣前で単車の会見に応じるように要求しました。龐煖はこれに同意します。
双方がそれぞれ準備を整えました。
 
翌日、両軍が陣形を整えてから、将兵に「冷箭(矢)を放ってはならない」と命じました。
龐煖がまず単車に乗って陣前に現れました。劇将軍に会見を要求します。
劇辛も単車に乗って陣を出ました。
龐煖が車中で欠身(お辞儀)して言いました「将軍の歯髪に変わりがないのは(将軍が健康そうなのは)喜ばしいことだ。」
劇辛が言いました「昔、君と別れて趙を去ったが、いつの間にか四十余年も経ち、某(私)は既に衰老した。君もまた蒼顔(老齢の顔)となった。人生とは白い駿馬が溝を跳び越えるようにあっという間だというが(白駒過隙)、全くその通りだ。」
龐煖が言いました「将軍は(燕)昭王が士を礼遇したため、趙を棄てて燕に奔った。一時の豪傑が景附(影のように従うこと)する様子は、雲が龍を追い、風が虎を追うようだった。しかし今、金台は草に埋もれ、無終(地名。昭王の墓が無終山にあります)の墳墓には木が生い茂り(墓木已拱)、蘇代も鄒衍も相次いで世を去り、昌国君も我が国に帰順した。燕の気運はこれらのことからも分かるであろう。老将軍は年が六十を越えたのに、一人で衰王の庭に立ち、いまだに兵権に貪恋して、凶器を持って危事を行っている。いったい何を欲しているのだ?」
劇辛が言いました「某(私)は燕王三世から厚恩を受けてきた。粉骨しても報いるのは難しい。だから残った年を使って、国家のために栗腹の恥を雪ぎたいのだ。」
龐煖が言いました「栗腹は理由もなく我が鄗邑を攻めた。自ら喪敗を招いたのだ。燕が趙を侵したのであって、趙が燕を侵したのではない。」
双方が軍前で応酬を繰り返しましたが、突然、龐煖が大声で言いました「劇辛の首を得た者には賞として三百金を与えよう!」
劇辛が言いました「足下はわしを侮るな(足下何軽吾太甚)!わしに君の首が取れないと思っているのか!」
龐煖が言いました「君命がこの身にある。それぞれが力を尽くせばいい。」
劇辛が怒って令旗(伝令用の小旗)を一振りしました。栗元が軍を率いて殺到します。
趙軍からも楽乗と楽閒が車を並べて撃って出ました。燕軍は徐々に利を失います。
劇辛が大軍に前進させると、龐煖も大軍で迎え撃ちました。両軍が混戦して殺し合い、燕軍が趙軍より多くの損失を出しました。
空が暗くなってからそれぞれ金(鉦)を鳴らして兵を退きます。
 
営に戻った劇辛は悶悶として不機嫌になりました。撤兵を考えましたが、燕王の前で大口を叩いてしまったため気が引けます。しかし撤兵しないとしても勝利を得るのは困難です。躊躇しているところに営を守る軍士が報告しました「趙国が人を送って書を届けました。轅門の外で待っています。まだ指示がないので取りには行っていません。」
劇辛は書を取りに行かせました。書は三重に封をされています。開いて見るとこう書かれていました「代州守李牧が軍を率いて督亢を襲い、君の後を絶とうとしている。君は速やかに帰れ。そうしなければ間に合わなくなる。某(私)には昔日の交情があるから、教えないわけにはいかなかった。」
劇辛が言いました「龐煖は我が軍心を動揺させようとしているのだ。たとえ李牧の兵が来ても、わしが懼れることはない。」
劇辛は返書を書いて趙の使者に渡し、翌日再度決戦するように伝えました。
趙の使者が去ってから栗元が言いました「龐煖の言は信じざるを得ません。万一、李牧が軍を率いて我々の後ろを襲ったら、腹背に敵を受けることになります。どう対処するつもりですか?」
劇辛が笑って言いました「わしもそれは考えてある。先ほどの言葉は軍心を安定させるためのものだ。汝は秘かに軍令を伝え、営寨を空にして連夜撤兵せよ。わしが自ら後ろを断って追兵を防ぐ。」
栗元は計を受けて去りました。
ところが龐煖が燕の動きを探って知り、楽乗、楽閒と共に三路から兵を進めました。人がいない燕の営塁は無視して燕軍を追撃します。
劇辛は戦いながら退却し、龍泉河まで来ました。そこで探子が報告しました「前面に旌旗が並んで路を塞いでいます。聞くところによると、代郡の軍馬のようです。」
劇辛が驚いて言いました「龐煖はわしを欺かなかった!」
劇辛は北進をあきらめて東に向かいました。阜城を経由して遼陽に奔ろうとします。しかし龐煖に追いつかれて胡盧河で大戦し、劇辛がまた敗れました。
劇辛は嘆いて「わしに何の面目があって趙の囚となれるか」と言うと自刎しました。燕王喜十三年、秦王政五年の事です。
 
栗元も楽閒に捕えられて殺されました。二万余が斬られ、残りは壊滅して逃げるか投降します。趙軍が大勝を収めました。
龐煖は李牧と合流して共に進軍し、武遂、方城の地を取りました。
燕王は自ら将渠の門を訪ねて再び使者になるように請います。
将渠が趙軍に入り、罪に伏して和を乞いました。
龐煖は将渠の面情(面子と私情)を立てて兵を退き、凱旋帰国しました。李牧は再び代郡の守りに就きます。
趙悼襄王が郊外で龐煖を出迎え、労って言いました「将軍の武勇がこのようであるのなら、廉(廉頗と藺相如)がまだ趙にいるのと同じだ。」
龐煖が言いました「燕人が既に服しました。この時を利用して列国を合従させ、力を合わせて秦を謀るべきです。合従によって始めて無虞(安全)が保てます。」
合従の事がどうなるのか、続きは次回です。

第百三回 李国舅が黄歇を除き、樊於期が秦王を討つ(前篇)