第百三回 李国舅が黄歇を除き、樊於期が秦王を討つ(中篇)

*今回は『東周列国志』第百三回中編です。
 
翌日、春申君が李園を招いて計画を伝え、秘かに李嫣を府中から出して別の舍(家)に住ませました。
その後、黄歇が入朝して楚王に言いました「臣は李園に嫣という妹がおり、美色があると聞きました。相者(人相を看る者)も皆、宜子(子を生める女)で富貴を得る相だと言っています。最近、斉王も人を送って求めました。王は先に動くべきです。」
楚王はさっそく内侍を派遣し、李嫣を入宮させました。李嫣は媚が上手かったため、楚王にとても寵愛されます。産期になると男の双子が生まれました。長子を捍、次子を猶といいます。
楚王は言葉にできないほど喜び、李嫣を王后に、長子捍を太子に立てました。李園が国舅(王后の兄弟)として寵用され、春申君と並んで政治を行うようになります。
 
李園は元々詐術が多い人物でした。外見は春申君に対してますます恭しく接しましたが、心中では邪魔だと思っています。
楚考烈王二十五年、考烈王が病いにかかり、長い間治りませんでした。李園は妹の妊娠の秘密を春申君だけが知っているため、太子が王になってから衝突が生まれることを心配し、殺して口を塞ぐことにしました。各地に人を送って勇力の士を求め、門下に集めて衣食を厚くし、心を一つにさせます。
李園の動きを聞いた朱英が疑惑を抱き、「李園が多数の死士を集めているのは春申君が原因だ」と考えました。すぐ春申君に会いに行ってこう問います「天下には無妄(不測。意外)の福と無妄の禍があり、無妄の人がいます。あなたは知っていますか?」
黄歇が逆に問いました「『無妄の福』とは何だ?」
朱英が言いました「あなたは楚で相になって二十余年が経ち、名は相国ですが、実際は楚王と変わりません。今、楚王は病になって久しく快癒せず、一旦宮車が晏駕したら(王の車が動かなくなったら。王が崩御したら)、少主が位を継いであなたが補佐することになります。これは伊尹や周公と同じで、政権を返すのは王が成長してからのことです。しかも、もし天命と人心があなたに帰すようなら、南面して真の王にもなれます。これが『無妄の福』です。」
黄歇が問いました「『無妄の禍』とは何だ?」
朱英が言いました「李園は王(新王)の舅(母の兄弟)ですが、あなたの位が上にあるので、外見は柔順にしていても内心は甘んじていません。同じ物を狙った盗賊は互いに嫉妬し憎しみ合うものです。これは必然な流れです。聞くところによると、彼は秘かに死士を集めて久しくなります。何に使うつもりでしょうか。楚王が一旦薨じたら、李園が必ず先に入って権力を掌握し、あなたを殺して口を塞ぐはずです。これが『無妄の禍』です。」
黄歇が問いました「『無妄の人』とは何だ?」
朱英が言いました「李園は妹のおかげで朝夕とも宮中の消息に通じています。しかしあなたの邸宅は城外(宮城外)にあるので、いつも動きが後になります。そこで、私を郎中令(宮門の守衛)に任命して宮中に置けば、某(私)が諸郎(宮中の諸官)を統率できるので、李園が先に入宮しても、臣があなたのために李園を殺せます。これが『無妄の人』です。」
黄歇は口髭を震わせて(掀髯)大笑し、こう言いました「李園は弱人であり、しかも以前から私に恭しく仕えている。そのような事があるはずがない。足下は考え過ぎではないか。」
朱英が言いました「今日、私の言を用いなかったら、後悔しても手遅れになります。」
黄歇が言いました「足下はとりあえずさがってわしに考えさせよ。もし足下を用いる必要があったら、すぐ請いに行こう。」
朱英が去って三日経ちましたが、春申君には動きがありません。朱英は春申君が進言を聞くつもりがないと知り、嘆息して言いました「私が去らなかったら禍が私に及んでしまう。鴟夷子皮の風を追うべきだ范蠡に倣うべきだ)。」
こうして朱英は別れも告げずに去り、東の呉に奔って五湖の間で隠居しました。
 
朱英が去って十七日後に考烈王が死にました。
李園はあらかじめ宮殿の侍衛に「ひとたび変を聞いたらまずわしに伝えよ」と指示していました。
李園は楚王崩御の報せを聞くと、真っ先に宮中に入って喪を隠すように命じ、死士を棘門内に埋伏させました。
日が暮れるのを待ってやっと人を送り、黄歇に報告します。驚いた黄歇は賓客とも謀らず、すぐ車を準備して宮殿に向かいました。
棘門に入ったとたん、両側から死士が飛び出して叫びました「王后の密旨を奉じた!謀反を企んだ春申君を誅殺する!」
黄歇は異変を知って車を返そうとしました。しかし手下は既に殺されるか四散しています。黄歇も斬られて頭が城外(宮城外)に投げ捨てられました。李園が城門を堅く閉じてから喪を発します。
太子捍が擁立されました。これを楚幽王といいます。わずか六歳だったため、李園が自ら相国に立って楚の政権を独占しました。李嫣が王太后に立てられます。
李園は令を発して春申君の一族を皆殺しにし、食邑を没収しました。
李園が国政を行うようになってから、春申君の賓客は全て四散し、群公子も疏遠になって政治を任されなくなりました。少主と寡后によって国政が日に日に乱れ、この後、楚は完全に振るわなくなりました。
 
 
話は秦に移ります。
呂不韋は五国が秦を攻めたことに憤り、報復を謀って言いました「最初に(秦攻撃を)謀ったのは趙将龐煖だ。」
呂不韋は蒙驁と張唐に兵五万を率いて趙を討伐させました。
三日後には長安成嶠と樊於期にも兵五万を与えて後続とさせます。
賓客が呂不韋に問いました「長安君は年少なので大将にはふさわしくありません。」
呂不韋が微笑して言いました「汝等にわかることではない。」
 
蒙驁の前軍が函谷関を出て上党を経由し、慶都を攻撃しました。都山に営寨を構えます。長安君の大軍は屯留に営を築いて後援となりました。
趙は相国龐煖を大将に、扈輒を副将に任命し、十万を率いて対抗させました。龐煖が自分の判断で臨機応変な行動をとることを許可します。
龐煖は「慶都の北では堯山が最も高く、堯山に登れば都山を一望できる。堯山を占拠するべきだ」と言い、扈輒に兵二万を率いて先行させました。
扈輒が堯山に到着した時、既に秦兵一万人が駐軍していました。扈輒は急襲して秦兵を追い散らし、山頂に営寨を置きます。
蒙驁は張唐に二万の兵で山を争わせました。しかし龐煖の大軍も到着し、双方が山下で陣を構えて大戦します。
扈輒が山頂で紅旗を振って合図を送りました。張唐が率いる秦兵が東に向かえば紅旗が東を指し、西に向かえば紅旗が西を指します。趙軍は紅旗が指し示す方向に従って動き、張唐を包囲しました。
龐煖が軍令を下しました「張唐を捕らえた者には百里の地を封じよう。」
趙軍の兵達は皆、命を棄てて戦いました。張唐も平生の勇を奮って対抗しましたが、厚い包囲を破ることができません。
しかしそこに蒙驁の大軍が現れて張唐を助け出しました。二人は兵を合わせて都山の大寨に還ります。
 
慶都は趙の援軍が来たと知り、ますます守りを堅めて奮戦しました。蒙驁等は慶都を攻略できず、張唐を屯留に送って後隊(成嶠)を進めるように催促しました。
 
 
 
*『東周列国志』第百三回後編に続きます。