第百四回 甘羅が高位を取り、嫪毐が秦宮を乱す(中篇)

*今回は『東周列国志』第百四回中篇です。
 
呂不韋は府中に帰って一人で堂上に座り、悶々としていました。
門下の客に甘羅という者がいました。甘茂の孫ですが、この時はまだ十二歳です。呂不韋が喜ばない様子を見て、進み出て問いました「あなたの心中にはどのような悩み事があるのですか?」
呂不韋が言いました「孺子は何を知ってそれを問いに来たのだ(それを聞いて何ができるのだ)?」
甘羅が言いました「あなたの門下で士となったからには、あなたのために憂を分けて患を受け持つことができなければなりません。あなたに何か事があるのに臣に聞かせなかったら、臣が忠を尽くしたいと思っても機会がありません。」
呂不韋が言いました「わしは剛成君を使者にして燕に派遣した。そのおかげで燕の太子丹が既に質として秦に入った。今、張卿を送って燕の相にしようと思い、占ったら吉と出た。しかし彼は頑なに拒否して行こうとしない。わしが不快になっているのはそのためだ。」
甘羅が言いました「これは小事です。なぜ早く言わないのですか。臣に行かせてください。」
呂不韋は怒って「去れ、去れ(去,去)」と連呼し、こう言いました「わしが自ら請いに行ったのに無理だった。小子に動かせるはずがない。」
甘羅が言いました「昔、項橐(神童)は七歳で孔子の師になりました。今、臣は既に十二歳になり、橐より五年も長く生きています。臣を試して失敗してから臣を叱責しても遅くはありません。どうして天下の士を軽量して(軽率に見極めて。判断して)、すぐに怖い顔をするのですか(遽以顔色相加哉)。」
呂不韋は甘羅の言が凡人のものではないと思い、顔色を改めて謝りました「孺子に張卿を動かすことができたら、事が成功してから卿位を与えよう。」
甘羅は喜んで張唐に会いに行きました。
 
張唐は甘羅が文信侯の門客だと知っていましたが、子供だったため軽んじました。
張唐が問いました「孺子はわざわざ何をしに来たのだ?」
甘羅が言いました「あなたを弔問するために来ました。」
張唐が問いました「某(私)にどんな事があって弔問が必要なのだ?」
甘羅が逆に問いました「あなたの功は、あなた御自身が考えるに、武安君と較べて如何ですか?」
張唐が言いました「武安君は、南においては強楚を挫き、北においては燕趙を威嚇し、戦えば勝ち、攻めれば取り、破った城邑は数えられない。某の功は十分の一にも及ばない。」
甘羅が問いました「それでは、応侯が秦に用いられている様子と文信侯の様子を較べたら、どちらが政治を専らにしていますか?」
張唐が言いました「応侯は文信侯の専に及ばない。」
甘羅が問いました「あなたは文信侯の権勢が応侯よりも重いことをしっかり理解していますか?」
張唐が言いました「それを知らないはずがない。」
甘羅が言いました「かつて応侯が武安君に趙を攻めさせようとしましたが、武安君は拒否して行きませんでした。その結果、応侯が一度怒っただけで武安君は咸陽から追い出され、杜郵で死ぬことになりました。今回、文信侯自らあなたが燕の相になることを請いました。しかしあなたは行こうとしません。武安君は同じ理由で応侯に許容されなくなったのです。文信侯があなたを許すと思いますか?あなたの死期は遠くありません。」
張唐は慄然として恐れを顔に出し、謝って言いました「孺子が私に教えてくれた。」
張唐は甘羅を通して呂不韋に謝罪し、即日、出発の準備を始めました。
しかし張唐が出発しようとすると甘羅が呂不韋にこう言いました「張唐は臣の説得を聞いてやむなく燕に行くことになりました。しかし中情(内心)では趙を畏れています。臣に車五乗をお貸しください。張唐のために、先に趙に報せます。」
呂不韋は既にその才を認めていたため、入朝して秦王に言いました「甘茂の孫甘羅はまだ年少ですが、名家の子孫として豊かな智辯があります。最近、張唐が病と称して燕の相になろうとしませんでしたが、甘羅が一度説得したら燕に行くことになりました。彼は先に趙王に報せることを請うています。彼が趙に行くことをお許しください。」
秦王は甘羅を入朝させました。身長は五尺しかありませんが、眉目秀美(秀麗)で絵に描いたようです。
秦王はすぐに気に入ってこう問いました「孺子は趙王に会って何を話すつもりだ?」
甘羅が言いました「相手の喜懼(好きなことや懼れること)を察し、機に臨んで進言します。言とは波が起きる時に風に従って姿を変えるのと同じなので、あらかじめ定めることはできません。」
秦王は良車十乗と僕従百人を与えて趙に派遣しました。
 
趙悼襄王は既に燕と秦が通好したと聞いており、二国が共謀して趙を攻めることを恐れていました。そこに突然、秦の使者が到着したと聞き、言葉にならないほど喜びます。趙王自ら二十里離れた郊外まで出て甘羅を迎え入れました。
趙王は年少の甘羅を見て心中で驚き、こう問いました「かつて秦のために三川の路を開いたのも甘氏でした。先生とはどういう関係ですか?」
甘羅が言いました「臣の祖(祖父)です。」
趙王が問いました「先生の年は幾つですか?」
甘羅が答えました「十二歳です。」
趙王が問いました「秦廷(秦の朝廷)の年長者は使者として不足しているのですか(使者になれる年長者がいないのですか)?なぜこの任務が先生に及んだのですか?」
甘羅が言いました「秦王が人を用いる時は、任務によって人を選びます。年長者には大事が任され、年幼の者には小事が任されます。臣の年が最も幼いので、趙への使者になりました。」
趙王は甘羅の言辞が磊落(壮大、雄壮。はっきりしていること)としているため、また驚きました。
趙王が問いました「先生がわざわざ敝邑に来たのは、何の教えがあってのことですか?」
甘羅が逆に問いました「大王は燕の太子丹が質として秦に入ったことを聞いていますか?」
趙王が答えました「聞いています。」
甘羅がまた問いました「大王は張唐が燕の相になることを聞いてますか?」
趙王が答えました「それも聞いています。」
甘羅が言いました「燕の太子丹が質として秦に入ったのは、燕が秦を欺かないことを証明するためです。張唐が燕の相になるのは、秦が燕を欺かないことを証明するためです。燕と秦が互いに欺かなくなったら(親しくなったら)、趙の危機となります。」
趙王が問いました「秦が燕と親しくする意図は何ですか?」
甘羅が言いました「秦が燕と親しくするのは、燕と一緒に趙を攻めて河間の地を拡げたいからです。大王は五城を割いて秦に献上することで、秦の河間の地を拡げさせるべきです。もしそうするのなら、臣が寡君に進言して張唐が燕に行くのを中止するように請い、燕との友好を絶って趙と友好を結ばせましょう。強趙が弱燕を攻めても秦が燕を救うことはないので、その結果、趙が得るのは五城どころではありません。」
喜んだ趙王は甘羅に黄金百鎰と二対の白璧を下賜し、五城の地図を渡して秦王に報告させました。
秦王が喜んで言いました「河間の地が孺子のおかげで拡げられた。孺子の智はその身よりはるかに大きい。」
張唐の派遣も中止されたため、張唐も深く感謝しました。
 
趙は張唐が燕に行かないことになったと聞き、秦は燕を援けないと判断しました。さっそく龐煖と李牧に兵を合わせて燕を攻めさせ、上谷三十城を取ります。趙はその内の十九城を自国の領地とし、十一城を秦に譲りました。
秦王は甘羅を上卿に封じ、かつて甘茂に与えた田宅を改めて下賜しました。今(明清時代)、俗に甘羅は十二歳で丞相になったと伝えられていますが、この出来事を指します。
 
人質として秦に来た燕の太子丹は、秦が燕を裏切って趙と修好したと聞き、針の筵に座っているような立場(如坐針氈)に置かれました。逃走を図りましたが関を出られないかもしれません。そこで甘羅の友になり、その謀を借りて燕に還る計を考えようとしました。
ところがある夜、甘羅の夢に紫衣を着た官吏が現れ、天符を持ってこう言いました「上帝の命を奉じて天上に呼び戻すことになった。」
甘羅は病もないのに死んでしまいました。高才があるのに長生きできないとは、惜しいことです。
太子丹はやむなく秦に留まりました。
 
 
話は秦の後宮に移ります。
呂不韋は陽偉善戦(陽具が立派で性技に長けていること)だったため荘襄后(趙姫)の寵愛を得ました。宮闈(宮門)を出入りするにも憚ることがありません。
しかし秦王が既に成長し、人並み以上の英明を持っていたため、惧れを抱き始めました。
逆に太后の淫心はますます盛んになり、いつでも呂不韋を甘泉宮に招きました。
呂不韋は事が発覚したら禍が自分に及ぶと恐れ、自分の代わりになる者を進めることにしましたが、太后の意を満足できる者はなかなかいません。
ある時、市の人で嫪大という者が、その陽具によって名を知られており、里中の淫婦人が争って嫪大と関係を結ぼうとしていると聞きました。秦の言葉では、士の行いが無い者(品行が劣る者)を「」と言ったため、嫪大は嫪とよばれていました。
ちょうど嫪が淫罪を犯しました。呂不韋は法を曲げて嫪を赦し、府中に留めて舍人にしました。
秦の風俗では、農事が終わったら国中で三日間自由に倡楽(歌舞。演芸)して労苦から解放することになっていました。百戲(様々な芸)が自由に披露され、他人に真似できない一長一芸をもつ者が全てこの日に技を発揮しました。
呂不韋は桐木で車輪を作り、嫪の陽具を桐輪の中央に突き挿すように命じました。そのまま車輪を転がしても陽具は傷つきません。市の人々は皆口を覆って大笑いしました。
これを聞いた太后が秘かに呂不韋に話を聞きました。既に会いたがっているようです。そこで呂不韋が問いました「太后がその者に会いたいのなら、臣がお進めしましょう。」
太后は笑うだけで答えませんでしたが、久しくしてやっと言いました「あなたは戲言を述べているのですか。彼は外人です。宮内に入れるはずがありません。」
呂不韋が言いました「臣に一計があります。人を使って彼の旧罪を告発させ、腐刑宮刑。去勢する刑)に下します。太后は刑を行う者に重賂を渡し、閹割(去勢)したと偽らせてください。その後、宦者として宮中で仕えさせれば、長く近くに置くことができます。」
太后が喜んで言いました「これは素晴らしい計です(此計甚妙)。」
太后は百金を呂不韋に渡しました。呂不韋は秘かに嫪を招いて事情を話します。嫪は元々淫乱な性なので、またとない出会いだと思って喜びました。
こうして計画が実行に移されます。
呂不韋がまず人を使って嫪の淫罪を告発させ、腐刑の判決を下しました。
その後、百金を主刑の官吏に分け与え、驢馬の陽具と血を使って閹割を行ったと偽らせました。嫪は鬚も眉も抜かれます(宦官は鬚が生えず、眉も薄くなります)
刑を行った者は故意に驢馬の大きな陽具を左右の者に見せました。皆、嫪の陽具だと信じ、噂を聞いた者は誰もが驚きました。
 
 
 
*『東周列国志』第百四回後篇に続きます。