第百四回 甘羅が高位を取り、嫪毐が秦宮を乱す(後篇)

*今回は『東周列国志』第百四回後篇です。
 
腐刑を偽って宦者の姿になった嫪は内侍に混ざって太后に進められました。太后は嫪宮中に留めて身辺に侍らせます。
夜、太后が嫪侍寝を命じて試してみると、大いに欲求を満足させ、呂不韋の十倍も勝ると思われました。
翌日、太后呂不韋に厚い賞賜を与えて功に報いました。こうして呂不韋は危険から脱することができました。
 
太后は嫪と夫婦のように一緒に生活し、やがて懐妊してしまいました。子を生む時になったら隠し通せなくなる恐れがあります。そこで太后後宮を出ることにしました。まず病と偽って卜を行います。卜者が来ると、嫪を使って賄賂を贈りました。卜者は宮中に祟りがあるから西方二百里の外に避けるべきだと言います。
秦王政は呂不韋太后の関係に猜疑を抱いていたため、太后が少しでも遠くに去って往来が断たれるのなら幸いと考えました。そこでこう言いました「雍州は咸陽から西に二百余里離れており、しかも往時の宮殿がそろっています。太后はそこに住めばいいでしょう。」
太后は雍城に遷ることになり、嫪を御者(あるいは侍人。原文「御」)にして一緒に移動しました。
 
咸陽を去った太后は雍の故宮に住みました。故宮を大鄭宮といいます。嫪太后はますます親密になり、憚る必要もなくなりました。二年の間に続けて二人の子を生み、密室を造って隠し育てました。
太后は秘かに嫪と約束し、後日、王が死んだら嫪の子を立てることにしました。多くの外人もこの事を知りましたが、敢えて口にはしませんでした。
 
太后は嫪が王に代わって太后を侍養(付き従って世話をすること)している功績があると上奏しました。嫪に土地を封じるように請います。秦王は太后の命を奉じて嫪を長信侯に封じ、山陽の地を与えました。
突然富貴を得た嫪はますますほしいままに行動します。
太后から每日与えられる賞賜も数え切れないほどで、宮室も輿馬(車馬)も、田猟も遊戯も、全て嫪が欲する通りになり、事の大小に関係なく全ての決定が嫪によって下されるようになりました。
が集めた家僮(奴僕)は千人を数え、官途のために舎人になろうとする賓客もまた千余人に上りました。更に賄賂で朝廷の貴人と結んで党を成しました。権勢におもねろうとする者は争って嫪に附き、その声勢(名声と威勢)は文信侯呂不韋を越えるほどでした。
 
 
秦王政九年の春、彗星が現れました。その長さは天の端まで達します。太史が占って言いました「国内で兵変が起きるはずです。」
かつて秦襄公が鄜畤を建てて白帝を祀り、後に徳公が都を雍に遷したため、雍に郊天(天の祭祀)の壇が築かれました。秦穆公も宝夫人祠を建てて毎年祭祀を行い、これらが慣習となっていました。
更に後に咸陽に遷都されましたが、雍で行う祭祀の慣習は廃されていません。
今は太后が雍城に住んでいるため、秦王政は毎年郊祀を行う機会を利用して、雍で太后に朝見していました。祀典を挙げる際は祈年宮に住むことになります。
この年の春、また祭祀の時が来ました。ちょうど彗星の変異があったため、秦王は出発する前に大将王翦に命じて咸陽で三日間武威を示させ、尚父呂不韋と共に国を守るように命じました。また、桓齮に兵三万を率いて岐山に駐軍させてから、やっと車を出しました。
この時、秦王は既に二十六歳(二十二歳の誤りです)になっていましたが、まだ冠礼を行っていません。太后は徳公の廟で冠礼の儀式を行って秦王に剣を佩させ、百官に五日間の大酺(大宴)を開かせました。
太后も秦王と大鄭故宮で宴を開きます。
この慶祝の宴がきっかけで、あまりにも多くの福を享受した嫪の身に禍が訪れることになります。
 
大酺の間、嫪は秦王の左右に仕える貴臣と酒を飲んで博打をしていました。四日目、嫪と中大夫洩が賭けをしましたが、続けて負けてしまします。酒に酔った嫪は局を覆そうとしました(負けた勝負をなかったことにしようとしました)。しかし顔洩も酔っており、従おうとしません。
は前に進み出て顔洩をつかむと頬を打ちました。顔洩も譲らず、嫪の冠纓(冠の紐)をつかみ取ります。
怒った嫪は目を見開いて「わしは今王の假父(仮の父。継父)だ!汝のような窶人子(貧しい家の者)がわしに逆らおうというのか!」と怒鳴りました。
顔洩は恐れて飛び出しました。逃げる途中で秦王政に遇います。秦王は太后と酒を飲んで宮殿から出てきたところでした。顔洩が地に伏して叩頭し、号泣して死を請いました。秦王政は心機(心計。計謀)がある人物だったため、一言も発することなく、左右の者に抱えさせて祈年宮に帰りました。
 
宮内に帰ってから、秦王が詳しく事情を問いました。顔洩は嫪が頰を打った事、假父を自称した事等を一通り説明してからこう言いました「嫪は実は宦者ではありません。腐刑を偽って秘かに太后に仕え、今では二子が生まれて宮中にいます。間もなく秦国簒奪をする謀るでしょう。」
秦王政は激怒して密かに兵符を発し、桓齮を雍に招きました。
内史肆と佐弋(官名)竭の二人は以前から太后と嫪の金銭を受け取って死党になっていたため、この事を知ってすぐ嫪の府中に奔りました。
既に酒から醒めていた嫪は驚愕しました。夜の間に大鄭宮を訪ねて太后に会います。
太后に詳しく説明して言いました「今日の計は、桓齮の兵がまだ来ないうちに、宮騎衛卒(宮内の騎馬、衛兵)と賓客舍人を総動員し、祈年宮を攻めて今王を殺すしかありません。そうすれば我々夫妻はまだ安泰を保てます。」
太后が問いました「宮騎がどうして私の令を聞くのですか?」
が言いました「太后の璽をお貸しください。偽って御宝として使い、『祈年宮に賊がおり、王の令が発せられた。宮騎は全て駕(王)を救いに行け』と命令すれば、従わない者はいません。」
太后は考えが混乱していたため、「汝の思うようにせよ」と言って璽を嫪に渡しました。
は秦王の御書を偽造して太后の璽を押し、宮騎衛卒や本府の賓客舍人を全て集めました。
大鄭宮内の混乱は翌日の午牌(正午)まで続き、やっと兵が集まりました。嫪と内史肆、佐弋竭がそれぞれ兵を指揮して祈年宮を包囲します。
 
秦王政が台に登って各軍に王を攻めた理由を問いました。
将兵はこう答えます「長信侯が行宮に賊がいると伝えたので、こうして駕を救いに来たのです。」
秦王が言いました「長信侯こそ賊である!宮中に何の賊がいるというのだ!」
これを聞いた宮騎衛卒等は半数が逃げ去り、肝が大きい半数の者は武器の向きを換えて賓客舍人と戦いました。
秦王が令を下しました「嫪を生け捕りにした者には銭百万を下賜する。殺してその首を献上した者には銭五十万を下賜する。逆党の一首を得た者には爵位一級を下賜する。輿隸下賎(奴隷等の賎しい者)でも賞格(褒賞の条件)は同等とする。」
宮中の宦者や牧圉といった諸人も全て命をかけて戦いました。百姓も嫪の造反を聞いて駆けつけ、秦王のために力を尽くします。賓客舍人の死者は数百人に上り、嫪の敗北が明らかになりました。
 
は路を奪って東門を切り開きましたが、外に出たところで桓齮の大軍に遭遇し、手を束ねて縛られました。内史肆や佐弋竭等も全て捕虜になり、獄吏の拷問を受けて真相を語ります。
秦王政が自ら大鄭宮に入って搜索しました。嫪の姦淫によって生まれた二人の子を密室の中で見つけると、左右の者に命じて布囊(袋)の中に入れ、撲殺しました。
太后は秘かに心を痛め、外に出て救いを求めることもできず、ただ門を閉じて泣くだけです。
秦王は母に朝謁することなく祈年宮に帰りました。
 
星を占って的中した太史が銭十万を下賜されました。
獄吏が嫪の証言を報告しました「が腐刑を偽って入宮したのは全て文信侯呂不韋の計によるものです。共に謀った死党は内史肆、佐弋竭等で、二十余人になります。」
秦王は嫪を東門の外で車裂の刑に処し、三族を皆殺しにさせました。内史肆や佐弋竭等も全て首を斬られて見せしめのために晒されます。
賓客舍人の中で謀反に従って戦った者は死刑になりました。謀反に関わらなかった者も遠く蜀地に流され、その数は四千余家に上りました。
太后は璽を使って逆賊を援けたため、国母に相応しくないとみなし、禄奉を減らして棫陽宮に遷しました。棫陽宮は離宮の中で最も小さな宮殿です。兵三百人が宮を守り、出入りする者は必ず厳しい取り調べを受けました。この時の太后は囚婦と同じです。姦淫の報いとは全く醜いものです。
 
の乱を平定した秦王政は咸陽に帰りました。
尚父呂不韋は罪を懼れたため、疾と称して謁見に行きませんでした。
秦王は呂不韋も誅殺したいと思って群臣に意見を問いました。しかし群臣の多くが呂不韋と関係を結んでいたため、こう言いました「不韋は先王を擁立し、社稷において大功があります。そもそも、嫪が本人の前で証言したわけではないので、虚実に根拠がありません。連座させるのは相応しくないでしょう。」
秦王は呂不韋の命を助けることにしましたが、相を免じて印綬を没収しました。
桓齮は反賊を捕らえた功によって加封され、爵位も進められました。
 
この年の夏四月、天が大寒を発して霜雪を降らせました。多くの百姓が凍死します。
民間では皆こう議論しました「秦王が太后を遷謫(廃して遠くに遷すこと)した。子が母を認めないからこのような異変が起きるのだ。」
大夫陳忠が秦王を諫めて言いました「天下に母がない子はいません。太后を迎えて咸陽に帰らせ、孝道を尽くすべきです。そうすれば天変も元に戻るかもしれません。」
秦王は諫言に激怒しました。陳忠の衣服を剥ぎ取り、蒺藜(刺がある植物)の上に寝かせて捶殺(棒などで殴って殺すこと)します。しかも死体を闕の下に晒して「太后の事で諫言に来た者はこれを見よ」と書いた標札を立てました。
しかし秦の臣で諫言に来る者は後を絶ちません。
秦王を感悟させることができるのか、続きは次回です。

第百五回 茅焦が秦王を諫め、李牧が桓齮を退ける(前篇)