第百八回 六国を兼併して輿図を統一し、始皇を号して郡県を建立する(後篇)

*今回は『東周列国志』第百八回後篇です。
 
秦王政二十六年、六国が秦によって併合され、天下が統一されました。
秦王は六国がそろって王号を称していたため、王の名が尊くないと思って帝号に改めようとしました。しかしかつて東西二帝について議論されたことがあるので、帝号も後世に伝えるにはふさわしい称号ではなく、四夷に威信を及ぼすこともできないと考えました。そこで上古の君号を参考にすることにしました。上古では三皇五帝の功徳が三王(夏、商、周の王)の上とされています。秦は徳が三皇を兼ね、功が五帝を越えるとして、二つの号を兼ねて「皇帝」と称すことにしました。
父の荘襄王は追尊して太上皇と称します。
秦王は、周公が作った諡法は子が父を評価し、臣が君を評価する非礼な制度だと考え、今後、諡法を用いないことにしました。そこでこう宣言しました「朕は始皇帝となる。後世は数によって計れ(数字を使って代を表せ)。二世、三世と数えて百千万世に及ぼし、無窮に伝えよ。」
また、天子は「朕」と自称し、臣下が皇帝に上奏する時は「陛下」と称すことにしました。
良工を召して和氏の璧を磨かせ、伝国璽を造らせます。そこには「天から命を受け、寿を尽くして永昌(永遠に興隆すること)となる(受命於天,既寿永昌)」と彫られました。
五徳終始の伝(木水の五徳が順に興廃するという説)から周を火徳とし、水が火を滅ぼすので秦は水徳の運に応じると判断しました。衣服も旌旗も水徳を表す黒を尊びます。水徳の数は六とされているので、器物の尺寸も六の数を使うようになりました。
十月朔を正月とし、朝賀はこの月にすることにしました。「正」と「政始皇帝の名)」が同音だったため、皇帝の御諱(実名)は犯してはならないという決まりから「正」の音を「征」に変えました。「征(征伐。戦争)」は吉祥の事ではありませんが、始皇帝の意志による決定なので口をはさむ者はいませんでした。
 
尉繚は始皇帝の意気がみなぎっており、休みなく変革を行う姿を見て、秘かに嘆息して言いました「秦は天下を得たが、元気は衰えている。永く続くはずがない。」
尉繚は弟子の王敖を連れて一夜の間に遁走しました。その後の行方はわかりません。
始皇帝が群臣に問いました「尉繚が朕を棄てて去ったのはなぜだ?」
群臣が皆言いました「尉繚は陛下が四海を定めるのを補佐しました。その功は最大です。そのため土地を割いて分封し、周の太公や周公のようになることを望んでいました。ところが今、陛下は尊号を定めたのに論功の典を行っていません。彼は失意のために去ったのです。」
始皇帝が問いました「周室の分茅の制(分封。周王が諸侯を分封する時は、茅で泥土を包んで諸侯に下賜しました)をまだ行うべきか?」
群臣が皆言いました「燕、斉、楚、代の地は遠いので確保が困難です。王(諸侯)を置かなければ鎮められません。」
李斯が反対して言いました「周が封じた国は数百におよび、同姓の国が多数ありましたが、後に子孫が互いに争い殺し合って際限がなくなりました。今、陛下はやっと海内を混一(統一)できたので、全て郡県とするべきです。功臣がいたとしても、その禄俸を厚くするだけで、尺土一民(一尺の土地と一人の民)の擅(占有)も許してはなりません。こうすることで兵革(戦)の原(元。源)を絶つことができます。これこそ久安長治の術ではありませんか。」
始皇帝はこの意見に従って天下を三十六郡に分けました。三十六郡というのは
内史郡 漢中郡 北地郡 隴西郡 上郡 太原郡
河東郡 上党郡 雲中郡 雁門郡 代郡 三川郡
邯鄲郡 南陽郡 潁川郡 斉郡(瑯琊郡) 薛郡(泗水郡)
東郡 遼西郡 遼東郡 上谷郡 漁陽郡 鉅鹿郡
右北平郡 九江郡 会稽郡 鄣郡 閩中郡 南海郡
象郡 桂林郡 巴郡 蜀郡 黔中郡 南郡 長沙郡
です。
当時、北辺には胡患が存在していたため、漁陽や上谷等の郡は管轄する地が最も小さく、戍(守備)を置いて鎮守しました。逆に南方の水郷(水が豊かな地)は安靖(安寧平安)だったため、九江や会稽等の郡は管轄する地が最も広くなりました(管轄する土地が狭い方が細かく目を配ることができます)。全て李斯が手配したことです。各郡に守尉一人、監御史一人を置きました。
 
天下の甲兵(武器甲冑)を咸陽に集めて焼きました。「臨洮長人始皇帝時代、臨洮という地に十二人の巨人が現れたといわれています)」の瑞祥に応じるため、溶けた金属で重さ千石もある金人(金属の像)を十二体鋳造し、秦の宮庭に置きました。
 
天下の豪富を咸陽に遷しました。その数は二十万戸に上ります。
また、咸陽北坂に六国の宮室を真似て六カ所の離宮を建造し、これらとは別に阿房の宮殿も築きました。
 
李斯を丞相に抜擢し、趙高を郎中令に任命しました。諸将帥で功がある者、たとえば王賁や蒙武等はそれぞれ万戸が封じられ、その他の者も数千戸が与えられました。封地から得られた賦税が官(政府)から功臣に与えられることになります(全国は郡県に分けられているので、功臣は民を封じられてもその土地を治めることができません。その土地から得る賦税が俸禄として功臣に与えられました)
 
更に始皇帝焚書坑儒を行いました。
各地の巡遊は休むことがなく、胡匈奴を防ぐために万里の長城も築きました。百姓が(宮殿や長城建造の)苦役に動員されて悲鳴を上げ、平穏な生活ができなくなります。
二世皇帝の時代に入ると暴虐がますますひどくなり、最後は陳勝呉広等が各地で蜂起して秦を滅ぼしました。
 
史臣に『列国歌』があります。
「東遷してからの強国は斉・鄭が最大で、荊楚(楚)が次第に横行して桓文(斉桓公と晋文公)の道が開ける。
楚荘宋襄(楚荘王、宋襄公)と秦穆(秦穆公)が順に王霸となって専征する(天子に代わって征伐の権利を握る)。晋襄景悼(晋の襄公、景公、悼公)が世霸(代々の覇者)を称え、平哀(晋平公、哀公)と斉景(斉景公)が代興(代わって興隆すること。または復興すること)を思う。晋楚両国が衰えて呉越が進む。闔閭と句践はどうして縦横(自由自在に駆けまわること)できたのか。春秋諸国を数え尽すのは難しいが、幾派(いくつかの血統)の源流はおおよそわかる。魯蔡と呉は姫姓で宗盟(会盟)を共にした。斉は呂尚から起き宋は商の末裔、禹の後代は杞越で顓頊は荊(楚)。秦も顓頊の後裔で陳の祖は舜。許の始めは太岳でそれぞれ生(生まれ。由来)がある。戦国の世となって七雄が起き、韓魏氏が晋を三分する。魏と韓はどちらも周と同姓で、趙の先祖造父は嬴秦と同じ。斉呂を改めた田氏は陳氏の後代。黄歇が楚熊(熊氏の楚)に代わって秘かに傾けさせる。宋は斉に亡ぼされて魯は楚に入る。呉越は互いに勝ったが最後は荊(楚)に帰す。周の鼎が遷って合従が離散し、六国が順に秦に属す(東遷強国斉鄭最,荊楚漸横開桓文。楚荘宋襄和秦穆,迭為王霸得専征。晋襄景悼称世霸,平哀斉景思代興。晋楚両衰呉越進,闔閭句践何縦横。春秋諸国難尽数,幾派源流略可尋。魯衛晋燕曹鄭蔡,與呉姫姓同宗盟。斉由呂尚宋商裔,禹後杞越顓頊荊。秦亦頊裔陳祖舜,許始太岳各有生。及交戦国七雄起,韓趙魏氏晋三分。魏與韓皆周同姓,趙先造父同嬴秦。斉呂改田即陳後,黄歇代楚熊暗傾。宋亡於斉魯入楚,呉越交勝総帰荊。周鼎既遷合従散,六国相隨漸属秦)。」
 
髯仙(詩人。誰を指すかは諸説があるようです)が『列国志』を読んで詩を作りました「周の世を卜って八百年と出たが、半分は人事により半分は天(天命)による。延々続いて暦を過ぎたのは(周は卜に出た八百年を越えて存続しました)忠厚のおかげだが、波風を浴びて秩序を失い転倒する。六国は秦に媚びて甘んじて北面し、二周は祭祀を失って東遷を恨む。千古興亡の形勢を総観すると、全て朝中における佞賢の用い方にかかっている(卜世雖然八百年,半由人事半由天。綿延過暦縁忠厚,陵替隨波為倒顛。六国媚秦甘北面,二周失祀恨東遷。総観千古興亡局,尽在朝中用佞賢)。」
 
 
終り。