秦楚時代 挙兵前の劉邦(1)
秦楚時代13 秦二世皇帝(四) 劉邦登場 前209年(4)
高祖は沛県豊邑中陽里の人で、姓は劉氏、字は季といいます。
『史記』『漢書』とも高祖の名を明記していません。荀悦の『漢紀(前漢紀)』に「諱(名)は邦」と書かれており、通常は劉邦が氏名で字は季とされています。「季」は「伯」「仲」等と並んで兄弟の序列を表します。「伯」は長子、「季」は末子です。通常、「伯」「仲」「季」は字とすることが多く、本名は別にあります。
「漢高祖の長兄は名を伯といい、次兄の名は仲といい、他の名はみられない(長兄と次兄は伯・仲といい、それ以外の名が史書に残されていないから、伯と仲は字ではなく本名である)。よって(高祖の)季も名である。項岱(『漢書叙伝』に注釈をしました)はこう言った『高祖の小字(若い頃の名)を季といい、即位してから名を邦(国の意味)に変えた。後に邦を諱として季を諱としなかった(季は避諱としなかった)。だから季布は季を姓にできた。』」
高祖の父は太公とよばれています。
高祖の母は劉媼といいます。
媼は年長の女性に対する尊称、または母の意味です。上述の執嘉の母も劉媼でしたが、本人の姓氏が劉というわけではありません。当時、子は父親の姓氏を名乗るのが普通で、しかも同姓の結婚は原則禁止されていました。劉邦は父親が劉氏で、母親の姓氏は異なるはずです。「劉媼」とは「劉某の母(ここでは劉邦の母)」という意味になります。
またはこのような説も伝わっています(同じく『正義』からです)。含始は劉邦が挙兵した時には黄郷に埋葬されました。劉邦が天下を平定してから使者を送って梓宮(皇帝、皇后や重臣の棺)に幽魂を招いたところ、丹蛇(赤蛇)が川から現れて梓宮に跳んで入りました。そこには遺髪が残っていたため、諡号を昭霊夫人としました。
但し、『史記』と『漢書』の注釈はこれらの説に対してこう書いています「高祖の父母の名や字はどれも正史が述べていることではないので採るに足らない。もし劉媼の本姓が実際に残されていたのなら、史遷(司馬遷)がなぜそれを詳しく記載しなかったのだ。」
『高祖本紀』に戻ります。
かつて劉媼が大沢の陂で休んでいる時、夢で神に遭遇しました。にわかに雷電が轟いて空が暗くなります。太公が劉媼を見に行くと、蛟龍が体の上にいました。その後、劉媼は妊娠して高祖を生みました。
高祖の為人は隆準(鼻が高いこと)、龍顔、美須髯(鬚が美しいこと)で、左股に七十二の黒子がありました。
『索隠』によると高祖は龍に感応して生まれたため、顔が龍に似ており、首が長くて鼻が髙かったといわれています。
『正義』には「帝・劉季は口角(口が四角い)、戴勝(不明)、斗胸(胸が隆起している様子)、亀背(猫背か?)、龍股(不明)で身長七尺八寸」ともあります。
また、赤帝は体が朱鳥で龍顔をしており、多数の黒子があったようです。
七十二の黒子があったという左股の左は陰陽の陽を表し、七十二の黒子は赤帝が掌る七十二日を意味します。一年三百六十日は木火金水が四分し、それぞれ九十日(三カ月。四季の中の一つの季節)を掌りました。しかし各季節の十八日は中央の土に繋がっているとされているため、木火金水が直接掌るのは七十二日になります。劉邦に七十二の黒子があったというのは、火徳が掌る七十二日を象徴しています。
『高祖本紀』本文に戻ります。
高祖は仁があって人を愛し、施しを好みました。心が広くて寛大な人物です。
常に大度(大志)を抱いており、家人の生産作業(農業)には従事せず、壮年になってから官吏として試用され、泗水の亭長を勤めました。
亭というのは道に設けられた休憩用の施設で、十里に一亭が置かれました。亭長は一亭が管轄する地域の長です。十亭で一郷になります。
高祖は酒を愛し、女色も好みました。
また、高祖が酒を買いに来て店内で飲み始めると、いつもより数倍も多く酒が売れました。
高祖は咸陽で徭役に従事したことがありました。
秦始皇帝が外出した際、その姿を自由に見る機会があったため、高祖も見に行きました。
単父(地名)の人・呂公は沛令(県令)と仲が良かったため、仇から逃げるために沛令の客になり、家族も沛に移していました。
『索隠』によると「呂公は汝南新蔡人」とする説と、「魏人の呂公は名を文、字を叔平という」とする説があります。
沛中の豪桀官吏が県令に重客(重要な客)が来たと聞いて祝賀に行きました。蕭何が主吏として客が納めた礼物を管理します。
蕭何が諸大夫(貴人の総称)に言いました「進物が千銭に満たない者は堂下にお座りください。」
高祖は亭長でしたが、かねてから諸吏を軽視していました。そこで「祝賀の金一万銭(賀銭万)」と偽って名刺(姓名や用件を書いた札)を提出しました。実際は一銭も持っていません。
高祖の名刺を見た呂公は驚いて立ち上がり、門まで迎えに行きました。
呂公は人相を看るのが得意でした。高祖の容貌を見ると重敬して中に入れ、席を与えます。
蕭何が言いました「劉季は以前から大言が多く、事を成した実績はほとんどありません。」
しかし高祖は諸客(他の客。県の官吏)と慣れ親しんでおり、(呂公も高祖を重んじたため)上坐に座って全く遠慮しませんでした。
酒宴が終わりに近づいて客達が帰り始めましたが、呂公は高祖に目で合図して留まるように伝えました。
高祖は酒を飲み終えても最後まで残りました。
呂公が言いました「臣(相手を尊重した時の自称。臣下という意味ではありません)は若い頃から人相を看るのが好きで、多くの人を見て来ました。しかし季(あなた)の相に及ぶ者はいません。季(あなた)は自分を大切にしてください。臣には息女(娘)がいます。季(あなた)の箕帚の妾(妻)にさせてください。」
酒宴が終わってから、呂媼(呂公の妻)が怒って呂公に言いました「公(あなた)は以前からいつも娘を常人とは異なるようにさせたいと思い、貴人に嫁がせることを願っていました。沛令は公と仲がいいのに、彼に求められても(婚姻に)同意しませんでした。なぜ妄りに劉季に嫁がせる約束をしたのですか?」
しかし呂公は「これは児女子(婦女)が分かることではない」と言って娘を劉季に嫁がせました。
高祖が亭長を勤めていた頃、休暇を取って家に帰ったことがありました。
老父が呂后の人相を看て言いました「夫人は天下の貴人です。」
老父は魯元公主も貴人になると言いました。
高祖が老父の居場所を問うと、呂后は「まだ遠くには行っていません」と答えます。
高祖は急いで後を追って老父に話しかけました。
老父が言いました「先ほどの夫人と嬰児は皆、あなたに似ています。あなたの相は言葉にできないほど高貴なものです。」
高祖は感謝して「もし本当に父(老父。あなた)の言う通りなら、この徳(恩)を忘れることはありません」と言いました。
後に高祖は尊貴な位に昇りましたが、老父の居場所はわかりませんでした。
次回に続きます。