秦楚漢附

東漢時代 曹操

東漢献帝建安二十五年(220年)に曹操が死にました。 東漢時代463 献帝(百四十五) 曹操の死 220年(1) 『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注が『魏書』『傅子』等から曹操に関する記述を引用しているので、以下、紹介します。 まずは『魏書』です(『資治通鑑…

東漢時代 魏王曹操

献帝建安二十一年(216年)、魏公・曹操が魏王になりました。 東漢時代446 献帝(百二十八) 魏王曹操と崔琰 216年(1) 『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注が献帝の詔を載せているので、ここで紹介します。 「古から帝王は号称(称号)が変わり、爵等(爵位)…

東漢時代 漢中王劉備(2)

献帝建安二十四年(219年)、劉備が漢中王の位に即きました。 東漢時代455 献帝(百三十七) 漢中王劉備 219年(3) 東漢時代 漢中王劉備(1) 劉備が上書して漢帝に言いました「臣は具臣の才(臣下の列に加わるだけの凡庸な才)によって上将の任を負い、三軍を董…

東漢時代 漢中王劉備(1)

献帝建安二十四年(219年)、劉備が漢中王の位に即きました。 東漢時代455 献帝(百三十七) 漢中王劉備 219年(3) 以下、『三国志・蜀書二・先主伝』からです。 秋、群下(群臣)が劉備を漢中王に推し、漢帝(献帝)に上表しました「平西将軍・都亭侯・臣・馬…

東漢時代 魏公曹操(4)

曹操が魏公に封じられました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 東漢時代 魏公曹操(1) 東漢時代 魏公曹操(2) 東漢時代 魏公曹操(3) 裴松之注は曹操による感謝の上書も紹介しています(元は『魏略』の記述です)。 臣(曹操)は先帝(霊帝)の厚恩…

東漢時代 魏公曹操(3)

献帝が策命によって曹操を魏公に封じました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 東漢時代 魏公曹操(1) 東漢時代 魏公曹操(2) 献帝の策命に答えて曹操が令を発しました。以下、裴松之注(元は『魏書』の記述)からです。 曹操はこう言いました「九…

東漢時代 魏公曹操(1)

献帝建安十八年(213年)、献帝が曹操を魏公に封じました。 東漢時代429 献帝(百十一) 魏公曹操 213年(1) 以下、『三国志・魏書一・武帝紀』から策命の内容を紹介します。二回に分けます。 「朕(献帝)は不徳によって幼少から愍凶(父母の死。または不幸)…

東漢時代 譲県自明本志令(述志令)

献帝建安十五年(210年)、曹操が『譲県自明本志令』を発表しました。 東漢時代421 献帝(百三) 唯才是挙 210年(1) ここでは『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注から全文を紹介します。 十二月己亥、曹操が令を発しました。 「孤(私)が始めて孝廉に挙げられ…

東漢時代 諸葛亮登場

献帝建安十二年(207年)に諸葛亮が登場しました。 東漢時代408 献帝(九十) 三顧の礼 207年(3) ここでは『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』を元に出仕するまでの諸葛亮について書きます。 諸葛亮は字を孔明といい、琅邪陽都の人です。 西漢の司隸校尉・諸葛豊の後…

東漢時代 昌言

東漢献帝建安十一年(206年)に仲長統が登場しました。 東漢時代404 献帝(八十六) 并州平定 206年(1) 仲長統には『昌言』という著論があり、治乱について述べています。『資治通鑑』胡三省注によると、「昌」は「当」の意味で、「昌言」は「当理の言(理にか…

東漢時代 『申鑒』

東漢献帝建安十年(205年)に祕書監(秘書監)・侍中・荀悦が『申鑒』五篇を作って上奏しました。 東漢時代403 献帝(八十五) 杜畿 205年(2) 『資治通鑑』胡三省注によると、祕書監は桓帝時代に置かれました。秩六百石です。 荀悦は荀爽の兄の子です。 当時、…

東漢時代 高岱

東漢献帝建安四年(199年)に高岱が盛憲を連れて許昭の家に避難しました 東漢時代377 献帝(五十九) 孫策の進撃(下) 199年(5) 以下、『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』裴松之注から高岱について書きます。 高岱という者が餘姚で隠棲していました。 ある時、孫…

東漢時代 于吉

東漢献帝建安五年(200年)に孫策が殺されました。 東漢時代381 献帝(六十三) 孫策の死(上) 200年(3) 東漢時代382 献帝(六十四) 孫策の死(下) 200年(4) 孫策の死には于吉という道士が関わっていたともいわれています。『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』裴松…

東漢時代 孫策の書

袁術が僭号したため、献帝建安元年(196年)に孫策が書を送って譴責し、関係を絶ちました。 東漢時代357 献帝(三十九) 献帝東還 196年(2) 以下、『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』裴松之注から孫策の書を紹介します(『資治通鑑』の内容とはだいぶ異なります…

東漢時代 劉備登場

東漢献帝初平二年(191年)に劉備が登場しました。 東漢時代328 献帝(十) 劉備登場 191年(5) ここでは『三国志・蜀書二・先主伝』を元に劉備について書きます。 先主(三国・蜀の初代皇帝。『先主伝』は以下全て「先主」と書いていますが、ここでは「劉備」…

東漢時代 孫堅の出征

黄巾討伐と涼州遠征に孫堅が参加しました。 東漢時代302 霊帝(三十七) 王允 184年(6) 東漢時代304 霊帝(三十九) 董卓 185年(2) 以下、『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』から紹介します。 霊帝中平元年(184年)、黄巾賊の帥・張角が魏郡で挙兵しました。神霊…

東漢時代 曹操登場(下)

『三国志・魏書・武帝紀』の本文と裴松之の注から、黄巾事件以前の曹操について紹介しています。 東漢時代 曹操登場(上) 『武帝紀』本文からです。 曹操は若い頃から機警(機智鋭敏)で、権数(権謀術数)がありましたが、任侠放蕩で行業(徳行学業。または…

東漢時代 曹操登場(上)

霊帝中平元年(184年)に曹操が登場しました。 東漢時代299 霊帝(三十四) 長社の戦い 184年(3) ここでは二回に分けて、『三国志・魏書・武帝紀』の本文と裴松之の注から、黄巾事件以前の曹操について紹介します。 魏太祖武皇帝は沛国譙の人で、姓は曹、諱(…

東漢時代 曹操登場(上)

霊帝中平元年(184年)に曹操が登場しました。 東漢時代299 霊帝(三十四) 長社の戦い 184年(3) ここでは二回に分けて、『三国志・魏書・武帝紀』の本文と裴松之の注から、黄巾事件以前の曹操について紹介します。 魏太祖武皇帝は沛国譙の人で、姓は曹、諱(…

東漢時代 蔡邕の上書

東漢霊帝熹平六年(177年)、蔡邕が上書して霊帝を諫めました。 東漢時代285 霊帝(二十) 陽球 177年(1) 以下、『資治通鑑』から上書の内容を紹介します。 蔡邕が言いました「五郊で気を迎え(明帝永平二年・59年参照)、清廟で祭祀を行い、辟雍で養老するの…

東漢時代 孫堅登場

霊帝熹平三年(174年)、孫堅が会稽討伐に参加して功績を上げました。 東漢時代281 霊帝(十六) 孫堅登場 174年 ここでは『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』の本文と裴松之の注を元に孫堅について紹介します。 孫堅は字を文台といいます。呉郡富春の人で、恐ら…

東漢時代 郭泰 仇香(後)

前回の続きです。 東漢時代 郭泰 仇香(前) 陳留の人・左原は郡の学生になりましたが、法を犯したため排斥されました。 郭泰が路上で左原に遇い、酒肴(酒食)を設けて慰めました。 郭泰が言いました「昔、顔涿聚は梁甫の巨盗で、段干木は晋国の大駔(売買を…

東漢時代 郭泰 仇香(前)

東漢桓帝延熹七年(164年)に黄瓊が死に、多くの名士が集まりました。 東漢時代251 桓帝(二十九) 南巡 164年(1) 『資治通鑑』が郭泰、仇香等の故事を書いているので、ここで二回に分けて紹介します。 以前、黄瓊が家で学問を教授していた時、徐穉が黄瓊に従…

東漢時代 陳亀の上書

桓帝延熹元年(158年)十二月、南匈奴の諸部がそろって叛し、烏桓、鮮卑と共に縁辺の九郡を侵したため、朝廷は京兆尹・陳亀を度遼将軍に任命しました。 東漢時代238 桓帝(十六) 南匈奴の乱 158年 陳亀は着任する前に上書しました。以下、『資治通鑑』から上…

東漢時代 『政論』

崔寔が『政論』を著しました(東漢桓帝元嘉元年・151年)。 東漢時代231 桓帝(九) 崔寔 151年(2) 崔寔は、儒者の古い考えに拘泥していては天下は治まらない、乱れた世には厳しい法も取り入れなければならないと説いています。 以下、『資治通鑑』から紹介し…

東漢時代 李固の対策

東漢順帝陽嘉二年(133年)六月丁丑(初八日)、雒陽宣徳亭の地が裂けたため、順帝が敦樸の士を招いて対策(皇帝の問いに答えること)させました。 東漢時代201 順帝(十四) 龐参 133年(3) 李固が答えました「以前、孝安皇帝が旧典を変乱し、阿母に封爵したため…

東漢時代 馬援

東漢光武帝建武元年(25年)に東漢前期の名将・馬援が登場しました。 東漢時代4 光武帝(四) 隗囂 竇融 25年(3) 今回は『後漢書・馬援列伝(巻第二十四)』を元に馬援の生い立ちについて少し詳しく書きます。 馬援は字を文淵といい、扶風茂陵の人です。 その…

東漢時代 馬援の書

馬援が隗囂の将・楊広に書を送って隗囂に曉勧(諭して勧めること)させようとしました。 東漢時代33 光武帝(三十三) 匈奴 30年(5) 以下、『資治通鑑』から馬援の書の内容です。 「援(私)が窺い見るに(竊見)、四海は既に定まり、兆民(万民)が情を同じく…

西漢時代 五行終始説

王莽が西漢から帝位を簒奪した時、自分の王朝を土徳と位置付けました。 西漢時代323 平帝(十七) 西漢滅亡 8年(2) これは「五行説」「五行終始説」の考えが元になっています。 「五行説」とは、万物は「木」「火」「土」「金」「水」という五つの物質から成り…

西漢時代 鮑宣の上書

西漢哀帝建平四年(前3年)、哀帝が董賢や外戚を優遇しているため、諫大夫・鮑宣が上書しました。 西漢時代296 哀帝(十一) 董賢の封侯 前3年(2) 以下、『資治通鑑』からです。 「臣が見るに(竊見)、孝成皇帝の時代は外親が権を持ち、人々が親しい者を牽引…