西漢時代 高帝(八) 白登山の戦い 前200年(1)

今回から高帝七年です。二回に分けます。
 
高帝七年は紀元前二世紀最初の年です。紀元前二世紀は高祖の晩年から呂后専横の時代、文帝景帝による休養の時代、そして西漢の最盛期を築く武帝の時代になります。
 
西漢高帝七年
200年 辛丑
 
[] 資治通鑑』からです。
冬十月、長楽宮が完成しました。
諸侯群臣が集まって朝賀します。
資治通鑑』胡三省注によると、恵帝(高帝の子)以後の皇帝は未央宮で朝賀を受けました。長楽宮は太后が住む場所となり、東朝とよばれます。高帝七年当時はまだ未中宮が建てられていません。
 
空が明るくなる前から謁者が礼を主宰し、序列に従って諸侯群臣を殿門に入れます。諸侯群臣は東西に列になって並びました。
史記劉敬叔孫通列伝(巻九十九)』によると、功臣列侯諸将軍軍吏が東を向いて西方に並び、丞相以下文官が西を向いて東方に並びました。
 
衛官(侍衛の官)は、一部は陛(殿に昇る階段)を挟んで立ち、一部は宮廷の中に並んで立ち、それぞれ武器を持って旗幟を立てています。
皇帝の近臣が伝警(皇帝の移動を報せること。道を開くように警告すること)し、高帝の輦(輦車。人が挽く車)が房(部屋)を出ました。
諸侯王から六百石の官吏(『資治通鑑』胡三省注によると、漢吏の六百石は銅印墨綬を持ち、月に七十斛の俸禄を得ました)に至るまで順に引見され、高帝を拝して祝賀の辞を述べました。皆、皇帝を畏怖敬粛しています。
朝賀の礼を終えてから法酒(礼に則った酒宴)を開きました。諸侍が殿上に坐っていますが、皆、体を前に倒して頭を下げており、高帝を直視する者はいません。尊卑の順に身を起こして皇帝に上寿(祝福して酒を勧めること)します。
酒が九回まわると(觴九行)謁者が「酒宴を終了する(罷酒)」と宣言しました。
儀礼に合わない者がいると御史が法を執行して外に連れ出したため、朝礼から酒宴が終わるまで騒いだり礼を失う者は誰もいません。
高帝が言いました「わしは今日になってやっと皇帝としての尊貴を知ることができた。」
叔孫通は太常に任命され、金五百斤を下賜されました。
資治通鑑』胡三省注によると、当時は「太常」ではなく「奉常」といいました。秦代から踏襲された官で、宗廟や礼儀を主管します。西漢景帝の時代に太常に改められます。
 
史記劉敬叔孫通列伝』によると、褒賞を得た叔孫通が高帝にこう進言しました「諸弟子の儒生は臣に従って久しく、臣と共に儀礼を完成させました。陛下が彼等に官を与えることを願います。」
高帝は叔孫通の弟子を全て郎に任命しました。
叔孫通は退出してから下賜された金五百斤を全て諸生に分け与えました。諸生は喜んでこう言いました「叔孫生はまさに聖人だ。当世の要務(必要とすること)を理解している。」
 
以下、『資治通鑑』からです。
かつて秦が天下を有した時は、六国の礼儀を集めて、国君の地位を尊ぶ内容と臣下の地位を抑える内容だけ選んで残しました。叔孫通はそれらに増減を加えましたが、多くは秦の旧制を踏襲しました。天子の称号から佐僚および宮室、官名等においてわずかな改変しかありません。これらの内容は律令と共に記録され、理官(法官)が保管しましたが、法家がそれを広く伝えなかったため、民も臣も礼儀について語ることがなくなりました。
 
[] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
高帝が自ら韓王信を撃ちました。銅鞮で韓軍を破り、その将王喜を斬ります。
韓王信は匈奴に逃亡しました。
 
白土(地名)の人曼丘臣や王黄等が趙利を王に立てました。
曼丘臣は曼丘が姓氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、斉に曼丘不擇という者がいました。
趙利について、『漢書帝紀』は「元趙王の子孫故趙後)」、『資治通鑑』は「趙の苗裔」としていますが、『史記高祖本紀』では「故趙将」となっています。
 
曼丘臣等は韓王信の敗散兵を集め、韓王信や匈奴と共に漢攻撃を謀りました。
匈奴は左右賢王に一万余騎を率いさせ、王黄等と共に広武以南に駐軍させます。
資治通鑑』胡三省注によると、匈奴は左右賢王と左右谷蠡王を置いていました。
 
匈奴軍が晋陽に至りましたが、漢兵が攻撃するとすぐに敗走しました。匈奴軍は再び集まって駐屯します。
漢兵は勝ちに乗じて追撃しました。
ちょうど大寒に襲われて大雪が降ったため、士卒の中で十分の二三の者が凍傷のため指を失いました。
 
高帝は晋陽にいました。冒頓が代谷にいると聞いて攻撃しようとし、まず人を送って匈奴の軍中を偵察させました。
匈奴の陣営では、冒頓が壮士と肥えた牛馬を隠していたため、老弱の兵と羸畜(痩せた家畜)しかいませんでした。
漢の使者は十往復しましたが、全て「匈奴を撃てます」と報告します。
高帝は劉敬(娄敬)を使者として匈奴に送りましたが、戻る前に三十二万の大軍を総動員して北に向かい、句注山を越えました。
そこに劉敬が戻ってこう報告しました「両国が互いに打ち合う時は、矜(自大。優勢)を誇示して長所を見せるものです。しかし臣が赴いたところ、ただ羸瘠老弱がいるだけでした。これは短所を見せようとしているのであって、奇兵を隠して利を争うつもりです。臣の愚見では、匈奴は撃つべきではありません。」
ところが既に漢兵が行動を開始していたため、高帝は激怒して劉敬にこう言いました「斉虜(斉人娄敬)は口舌によって官を得たが、今、妄言によって我が軍を止めようというのか!」
高帝は劉敬を捕えて広武に繋ぎました。
 
漢書帝紀』には「高帝が晋陽から連戦し、勝ちに乗じて追撃して楼煩に至った。ちょうど大寒に当たったため、士卒で指を落とす者が十分の二三もいた。その後、平城に至った」としています。
楼煩は晋陽と平城の間にあります。
史記高祖本紀』『資治通鑑』は楼煩に至ったことに触れていませんが、『史記韓信盧綰列伝(巻九十三)』に記述があります(『漢書魏豹田儋韓信(巻三十三)』もほぼ同じ内容です)。以下、引用します。
匈奴の左右賢王が一万余騎を率いて王黄等と広武以南に駐軍し、晋陽に至って漢兵と戦いました(上述)。しかし漢兵が大勝して離石まで追撃し、また匈奴軍を破ります。
匈奴は再び楼煩西北で兵を集めました。
漢は車騎に命じて匈奴を撃破させます。
匈奴がしばしば敗走し、漢軍は勝ちに乗じて追撃を続けました。
晋陽にいた高皇帝は冒頓が上谷にいると聞き、人を送って偵察しました。使者が戻って「匈奴を)撃てます」と報告したため、高帝は平城に至りました。
史記韓信盧綰列伝(巻九十三)』の記述を見ると、高帝は晋陽に滞在しており、車騎による別動隊が楼煩に至ったようです。
 
史記高祖本紀』『漢書帝紀資治通鑑』に戻ります。
高帝が先行して平城に入りましたが、兵は一部しか到着していません。
冒頓は精兵四十万騎を放って高帝を白登山で囲みました。白登山は平城の北東にあります。
包囲は七日間に渡り、外の漢兵は食糧の援助もできなくなりました。
高帝は陳平の秘計を用いて秘かに匈奴の閼氏に使者を送りました。閼氏に厚い賄賂が届けられます。
閼氏が冒頓に言いました「両主は互いに困窮させ合うべきではありません。たとえ今、漢地を得ても、単于が住める場所ではありません。それに漢主にも神霊があります(神霊に守られています)単于は察するべきです。」
 
陳平の秘計について『漢書・高帝紀』の注釈と『資治通鑑』胡三省注、『史記・陳丞相世家(巻五十六)』の注釈(集解)が解説しています。
陳平は画工に美女の絵を描かせて秘かに閼氏に届け、こう伝えました「漢にはこのような美女がいます。今、皇帝が困急(困窮)しているので、単于に献上するつもりです。単于がこのような者を見たら必ず大いに愛し、閼氏を疎遠にするでしょう。美女が至る前に漢を危難から逃れさせるべきです。危難が去れば美女も来ません。」
閼氏は寵愛を奪われることを恐れたため、冒頓に包囲を解くように説得しました。
この計は中国の礼から外れていたため、秘計として公言されなかったようです。
 
冒頓は王黄、趙利と集合する日を決めていましたが、王黄と趙利の兵は現れませんでした。そのため漢と通じているのではないかと疑い、ついに包囲の一角を解きました。
ちょうど大霧が出ました。漢の使者が白登山と平城の間を往来しましたが、匈奴はそれに気づいていません。
 
陳平が一つの強弩で外に向かって二本の矢を射るように請いました。これは『資治通鑑』の内容で、原文は「令強弩伝両矢外郷」です。
史記匈奴列伝(巻百十)』は「高帝は全ての士卒に命じ、引き絞った弓の上に外を向けて矢を置かせ、包囲が解かれた一角から脱出して大軍と合流した(原文「高帝令士皆持満傅矢外郷,従解角直出,竟與大軍合」)としています(『漢書匈奴伝上(巻九十四上)』も同じ内容です)
 
包囲を突破した高帝は速く駆けて逃げたいと思いましたが、太僕の滕公夏侯嬰が敢えてゆっくり進みました。
平城に至った時、漢の大軍も到着したため、胡騎匈奴騎兵)は白登山の包囲を解いて去りました。
漢も兵を解散して帰国させ、樊噲を代地に留めて安定させました。
 
史記・高祖本紀』はこの時に劉仲(高帝の兄・劉喜)が代王になったとしています。しかし『漢書帝紀』と資治通鑑』では前年に代王に封じられています(既述)
 
高帝は広武に入って劉敬を釈放し、こう言いました「わしは公の言を用いなかったために平城で困窮した。前に行った十輩(十回。十隊)の使者を全て処刑した。」
劉敬は二千戸を封じられて関内侯(実際には封地がない侯)になり、建信侯と号しました。
 
高帝が南下して曲逆を通った時、こう言いました「壮美な県だ(壮哉県)。わしは天下を行き来したが、(壮美な所は)洛陽とここだけしか見たことがない。」
そこで陳平を曲逆侯に封じて全ての賦税を収入にさせました。
 
資治通鑑』は「陳平は高帝の征伐に従って六回の奇計を献じ、毎回封邑を増やされた」と評しています。
史記陳丞相世家』では「(曲逆侯になってから)常に護軍中尉として陳豨や黥布の討伐に従った。六回の奇計を出してそれぞれ邑を増やされ、六回加封された」となっています。
 


次回に続きます。

西漢時代 高帝(九) 長安遷都 前200年(2)