西漢時代 高帝(七) 匈奴南下 前201年(3)

今回で高帝六年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
(恐らく三月)高帝が櫟陽に還りました。
 
[] 『史記高祖本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
高帝は五日に一回太公()を朝見しており、家人(平民)の父子と同じ礼をとっていました。
ある日、太公の家令が太公に言いました「天には二日(二つの太陽)がなく、土(地)には二王がいないものです。今、皇帝(『漢書帝紀』は「皇帝」。『史記高祖本紀』は「高祖」)は子ですが人主です。太公は父ですが人臣です。どうして人主に人臣を拝させるのですか。このようでは威重が行き届かなくなります。」
後日、高帝が太公を朝見すると、太公は篲()を抱えて門前で出迎え、後ろにさがりました。
驚いた高帝は車から下りて太公を抱きかかえます。
しかし太公は「帝は人主です。どうして私のために天下の法を乱すのですか」と言いました。
 
夏五月丙午(二十三日)、高帝が詔を発しました「人にとって至親なものは、父子の親しみを越えることはない。よって父が天下を有したら子に継承させ、子が天下を有したら父に尊貴を帰すのが人道の極みである。かつて天下が大乱し、兵革(武器)が并起して万民が殃(災難)に苦しんだので、朕自ら甲冑を身につけて武器を持ち(被堅執鋭)、士卒を率いて危難を犯し、暴乱を平定し、諸侯を立て、武器を収めて民を休ませ(偃兵息民)、天下を大いに安んじさせた。これは皆、太公の教訓のおかげである。諸王通侯(徹侯)将軍群卿大夫は既に朕を尊んで皇帝としたが、太公にはまだ号がない。今、太公を上尊して太上皇とする。」
 
史記』の注(集解と索隠)によると、「太上」は「無上」を意味します。「皇」は「帝」よりも徳が大きいため、父を尊ぶために「太上皇」と号しました。「帝」を号さなかったのは天子ではないからです。
漢書』の顔師古注によると、「太上」は「極尊の称」で、「皇」は「国君」を意味します。太公は天子の父なので「皇」を号しました。しかし政治には関わらなかったため、「帝」はつけませんでした。
 
高帝は家令の言を称賛して黄金五百斤を下賜しました。


[
] 『資治通鑑』からです。

かつて匈奴は秦を畏れて北に遷り、十余年が過ぎました。
秦が滅ぶと匈奴は再び南に移動して河(『資治通鑑』胡三省注によると、朔方北の「北河」)を渡り始めました。漢高帝が即位する前のことです。
 
単于匈奴の首領)頭曼には冒頓という太子がいました。
後に単于が寵愛した閼氏単于の妻。中国の皇后に相当します)が少子を生むと、頭曼は冒頓を廃して少子を太子に立てようとしました。
当時、東胡(東方)月氏(西方)が強盛だったため、頭曼は冒頓を人質として月氏に送りました。ところがすぐに頭曼は月氏を急襲しました。月氏は冒頓を殺そうとしましたが、冒頓は良馬を盗んで逃走し、匈奴に帰りました。
頭曼は冒頓の勇壮さを認めて万騎を指揮させることにしました。
 
冒頓は鳴鏑を作って部下に騎射を練習させました。鳴鏑は髐箭ともいい、放つと音を立てて飛ぶ矢です。
冒頓は部下にこう命じました「鳴鏑が射られた場所に一斉に矢を射よ。射なかった者は斬る!」
冒頓は鳴鏑を自分の良馬に放ち、更に愛妻を射ました。左右の者で矢を射なかった者は全て斬首されます。
最後に鳴鏑で単于の良馬を射ると、左右の者は全て矢を放ちました。冒頓は部下が完全に命を聴くようになったと判断します。
 
ある日、頭曼に従って狩りに行きました。冒頓が鳴鏑を頭曼に向かって放つと左右の者も鳴鏑にあわせて矢を射ます。
頭曼は殺され、後母(閼氏)と弟および大臣で冒頓に従わない者も全て誅殺されました。
冒頓が自ら単于に立ちます。
史記匈奴列伝(巻百十)』の注釈(集解)によると、秦二世皇帝元年(前209年)のことです。
 
冒頓の即位を知った東胡が使者を送って冒頓にこう言いました「頭曼の時の千里の馬を得たい。」
冒頓が群臣に意見を求めると、群臣は皆、「それは匈奴の宝馬です。与えてはなりません」と言いました。
しかし冒頓は「他者との間で国の友好を築こうというのに(與人鄰国)、一頭の馬を惜しむことができるか」と言って千里の馬を与えました。
暫くして東胡がまた使者を送ってきました。使者が冒頓に言いました「単于の一閼氏を欲しい。」
冒頓が左右の者に意見を求めると、左右の者は皆怒ってこう言いました「東胡は無道にも閼氏を求めています。攻撃するべきです!」
しかし冒頓は「他者との間で国の友好を築こうというのに、どうして一女子を惜しむことができるか」と言って寵愛する閼氏を東胡に与えました。
その結果、東胡王はますます驕慢になりました。
 
東胡と匈奴の間には誰も住まない千余里にわたる空地があり、人々は両側に居を構えて甌脱(見張り用の土室)を造っていました。
東胡の使者が冒頓に言いました「あの棄地(空地)を占有したい。」
冒頓が群臣に問うと、一部の群臣が言いました「あそこは棄地です。与えてもかまいません。与えなくてもかまいません。」
すると冒頓は激怒して「土地とは国の本(根本)である。どうして与えることができるか!」と言い、与えることに賛成した者を全て斬りました。
更に冒頓は馬に乗って「国中で遅れて出た者は斬る!」と宣言し、東胡を襲撃します。
東胡は冒頓を軽視していたため備えがありません。冒頓は東胡を滅ぼしました。
 
帰還した冒頓は西を撃って月氏を駆逐し、南下して楼煩と白羊の二王が治める河南の地を兼併しました。
その後、燕代に進攻して秦の蒙恬匈奴から奪った故地を取り戻し、漢の国境がある旧河南塞から朝那、膚施に至る地を奪います。
当時、漢兵は項羽と対峙しており、中国は兵革(戦争)のため疲弊していました。その隙に冒頓が強盛になり、控弦の士(弓兵)三十余万を擁して諸国を威服させました。
 
尚、東胡は冒頓単于に敗れてから一部が烏丸山を守りました。これを烏丸烏桓といいます。また一部は鮮卑山に移りました。これを鮮卑といいます。烏丸と鮮卑は言語も習俗も共通していました。『三国志・烏丸鮮卑東夷伝(巻三十)』の注釈に詳しく書かれています。
月氏冒頓単于とその子・老上単于に敗れてから西に遷って領土を拡大しました。これを大月氏といいます。一部は南山に入り、小月氏とよばれるようになります。『漢書・西域伝上(巻九十六上)』に記述があります。
 
本年西漢高帝六年・前201年)秋、匈奴が馬邑で韓王信を包囲しました。
韓王信はしばしば匈奴に使者を送って和解を求めます。
漢の朝廷は援軍を発しましたが、韓王信が頻繁に使者を派遣していたため、二心を疑いました。そこで人を送って韓王信を譴責します。
九月、韓王信は誅殺を恐れたため、馬邑を挙げて匈奴に降ってしまいました。
冒頓は兵を率いて南の句注山を越え、太原を攻めて晋陽に至りました。
 
史記高祖本紀』は高帝七年(翌年)に「匈奴が韓王信を馬邑で攻めたため、韓王信が匈奴と)共に太原で反した」としていますが、漢書帝紀』は高帝六年九月の事としており、『資治通鑑』もそれに倣っています。
史記韓信盧綰列伝(巻九十三)』『漢書豹田儋韓信(巻三十三)』も高帝六年秋となっています。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
高帝は秦の苛儀(煩雑な儀礼をことごとく除いて規則を簡易にしました。
その結果、群臣が酒を飲んで功を争うと、酔って妄りに叫んだり剣を抜いて柱を撃つ者まで現れるようになりました。高帝はこのような状態に不満を抱きます。
そこで叔孫通(『資治通鑑』胡三省注によると、叔孫は姫姓の出で、魯の叔孫氏の子孫です)が進言しました「儒者とは共に進取するのは困難ですが、共に守成することはできます。臣が魯の諸生を集め、臣の弟子と共に朝儀(朝見時の儀礼を制定することを願います。」
高帝が問いました「難しくはないか?」
叔孫通が答えました「五帝は楽(音楽)を異ならせ、三王は礼を同じくしませんでした。礼とは時世や人情に基いて制定される節文(制度、規則)です。臣は古礼を一部採用し、秦儀と融合して完成させるつもりです。」
高帝が言いました「試しに為してみよ。但し容易に理解できる内容にすることを命じる。わしが実行できると判断したらそれを制度としよう。」
叔孫通は皇帝の使者となり、魯の諸生三十余人を集めました。
しかし魯の儒生二人が協力を拒んで言いました「公(あなた)が仕えた者は十主に及ぼうとしているが、皆、面諛によって親貴を得てきた(『資治通鑑』胡三省注によると、十主というのはおおよその数で、実際は秦始皇帝、二世皇帝、陳渉、項梁、楚懐王、項羽および高帝の七主になります)。今、天下が安定したばかりで死者もまだ埋葬されておらず、傷者もまだ回復していない。それなのにまた礼楽を復興させようとしている。礼楽というものは、徳を積んで百年経ってから興隆するものだ。我々は公のために働くのが忍びない(働くつもりはない)。公は行けばいい。我々を汚すな。」
叔孫通が笑って言いました「汝等は本当の鄙儒(「鄙」は「浅はか」「低劣」の意味)だ。時変を知ることができない。」
叔孫通は集めた三十人を連れて西に帰りました。皇帝の左右に仕える者の中で学がある者を選び、弟子百余人と共に野外で儀礼の練習を始めます(原文「綿蕞野外習之」。「綿」は縄を引くことで、演習の場所を区画しました。「蕞」は竹や茅を立てることで、それを目印に席次の序列を定めました)
 
一月余してから叔孫通が高帝に進言しました「試しに観ることができます。」
高帝は儒生達に儀礼を実行させてから、「わしもこれなら為せる」と言って群臣に学ばせました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代 高帝(八) 白登山の戦い 前200年(1)