西漢時代 高帝(二十) 樊噲の危機 前195年(4)

今回で西漢高帝の時代が終わります(高帝は既に死んでいますが、翌年に改元されて恵帝元年になるので、本年はまだ高帝十二年です)
 
[十七] 『漢書帝紀』からです。
恵帝が民に爵一級を下賜しました。恵帝即位による恩恵です。
中郎(省中郎)と郎中で六年以上勤めている者には爵三級を、四年の者には二級を与えました。
外郎(散郎)で六年以上の者には爵二級を与えました。
中郎で一年に満たない者には爵一級を与えました。
外郎で二年に満たない者には銭一万を与えました。
宦官の尚(「尚」は天子の物品を管理する者で、宦官とは限りません。例えば文書を管理する者は「尚書」、符節印璽を管理する者を「尚符璽」といいます。他にも「尚冠」「尚帳」「尚衣」「尚席」等がいました)の食(俸禄)を郎中と同等にしました。
謁者(皇帝の近侍)、執楯執戟(近衛)、武士(力士)、騶(御者)外郎と同等にしました。
太子の御者と驂乗(馬車に同乗する者)爵位を与えて五大夫とし、太子の舍人で五年以上仕えている者には爵二級を与えました。
高帝の葬儀に参加した者には、二千石の官員には銭二万を、六百石以上なら銭一万を、五百石以下で佐史に至るまでの者(原文「五百石二百石以下至佐史」。二百石は五百石に含まれます)には銭五千を与えました。
高祖の陵墓建造を監督した者は、将軍には四十金(金四十斤)を、二千石の官員には二十金を、六百石以上の官員には六金を、五百石以下から佐史に至る者には二金を与えました。
田租を減らして「十五税一」に戻しました。農民の収入の十五分の一を納めさせるという税制で、漢初に設けられたものの一時廃されていたようです。
爵位が五大夫(第九爵)以上の者、六百石以上の官吏および皇帝に近侍したことがあり皇帝も名を知っている者は、罪を犯して盗械(枷等の刑具をつけること)が必要になっても、全て頌繫(刑具をつけないこと)としました。
上造(第二爵)以上の者および内外の公孫耳孫(遠孫)で、罪を犯して刑を処す必要がある者や城旦(城旦は男の刑で、早朝に起きて築城に従事します。舂は女の刑で米を挽く労働です。どちらも刑期は四年です)に相当する者は、全て刑期を減らして鬼薪白粲(鬼薪は男の刑で、薪を取って宗廟に捧げます。白粲は女の刑で、米の中から祭祀に使う精米を選別します。どちらも刑期は三年です)にしました。
民で七十歳以上の者と十歳に満たない者は罪を犯して刑を処すことになっても、肉刑や髠𩮜(髪を剃る刑)を加えないことにしました。
 
恵帝が言いました「官吏とは民を治めるためにおり、尽力して治めれば民に信頼される。彼等の俸禄を増やしたのは民のためである。六百石以上の官吏で父母妻子と同居している者(あるいは「六百石以上の官吏の父母妻子と官吏と同居している者」。この場合、「同居している者」は官吏の兄弟や兄弟の妻子等を指します。原文「吏六百石以上父母妻子与同居」)、および故吏(かつての官吏)で将軍都尉の印を佩して兵を指揮していた者、二千石の官印を佩していた者は、家(家族・家属)だけに軍賦を支給し、その他の者(直近の家族以外の者)には与えないこととする。」
 
[十八] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』からです。
恵帝が各郡や各国の諸侯に命じて高祖廟を建てさせ、歳時(四季)の祭祀をさせることにしました。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
以前、高祖の病がひどくなった時、ある人が樊噲を讒言してこう言いました「樊噲は呂氏と与しており、陛下が晏駕崩御したら兵を発して趙王如意の属(党)を殺そうとしています。」
激怒した高祖は陳平の計を用い、絳侯周勃を召して病床の下で詔を受け取らせました。
高帝が言いました「陳平は急いで周勃を伝(駅車)に乗せて走り、樊噲と将を代わらせよ。陳平が軍中に至ったらすぐに樊噲の首を斬れ!」
二人は詔を受けてからすぐに伝馬を走らせましたが、樊噲の軍に至る前に道中で相談して言いました「樊噲は帝の故人(旧知)で功も多い。それに呂后の妹𡡓の夫でもあるので、皇族と親しくて尊貴な地位にいる。帝は忿怒によって斬ろうとしたが、恐らく後悔するだろう。彼を捕えて上(陛下)に献上し、御自身で誅してもらおう。」
二人は樊噲の軍に入る前に壇を築き、符節で樊噲を招きました。
樊噲は詔を受けると両手を後ろで縛って出頭します。
陳平が樊噲を檻車に乗せて長安に帰り、周勃が代わりに将となって燕の背いた県を平定しました。
 
陳平一行は帰る途中で高帝崩御を聞きました。
陳平は呂𡡓が呂太后の前で讒言することを恐れ、伝馬を駆けさせて先に進みました。途中で朝廷の使者に遇います。使者は詔によって陳平と灌嬰に滎陽の守備を命じました。
しかし詔を受けた陳平はすぐ宮中に駆け戻り、激しく泣いて禁中の宿衛の任務を求めました、
太后は陳平を郎中令(宮殿掖門を管理します。後に光禄勳に改名されます)に任命し、恵帝の補佐教育も命じました。
𡡓は讒言する機会を失います。
 
樊噲が長安に入ると、釈放されて爵邑が元に戻されました。
 
[二] 『史記太后本紀』と『資治通鑑』からです。
太后は戚夫人とその子趙王を最も恨んでいました。そこで戚夫人を永巷に入れます。永巷とは後宮で罪を犯した女官を幽禁する場所です。
髠鉗(髪を剃って首枷をすること)に処し、赭衣(赤い服。囚人服)を着せ、舂(米をつく労働)をさせました。
また、使者を送って趙王劉如意を招きました。
 
漢書外戚伝上(巻九十七上)』によると、捕えられた戚夫人は米をつきながらこう歌いました「子が王となり、母は虜となり、朝から夜まで米をついて、いつも死と共にいる。三千里も離れているのに、誰が汝に伝えるのか(子為王,母為虜,終日舂薄暮,常与死為伍。相離三千里,当誰使告女)。」
それを聞いた呂太后は激怒して「汝は汝の子に頼るつもりか!」と言い、趙王殺害を決意しました。
 
史記太后本紀』と『資治通鑑』に戻ります。
太后の使者が三回往復しましたが、趙相建平侯周昌は使者に「高帝は臣に趙王を委ねました。王は年少です。私は太后が戚夫人を怨んでおり、趙王を召して一緒に誅殺すつもりだと聞いています。臣には王を送り出すことができません。それに王は病を患っているので、詔を奉じることができません」と言って拒否しました。
怒った呂太后はまず人を送って周昌を招きました。
周昌が長安に来てからまた使者を送って趙王を招きます。
趙王が長安に向かうと、慈仁な性格の恵帝は呂太后の怒りを知り、趙王を助けるために自ら霸上まで迎えに行きました。恵帝は趙王と一緒に入宮し、一緒に起居飲食するようになります。
そのため呂太后は趙王に手を下す機会がありませんでした。
 
 
 
次回から西漢恵帝の時代です。

西漢時代 恵帝(一) 呂后の復讐 前194年