西漢時代22 恵帝(二) 曹参の政治 前193年

今回は西漢恵帝二年です。
 
西漢恵帝二年
戊申 前193
 
[] 『史記太后本紀』漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
冬十月、楚王劉交(元王)斉王劉肥(悼恵王)が来朝しました。
 
恵帝と斉王劉肥が太后の前で酒宴を開きました。
劉肥は高帝の庶長子で恵帝の異母兄に当たるため、恵帝は家人の礼(兄弟の序列)に則って劉肥を上座に坐らせました。
資治通鑑』胡三省注によると、朝廷では君臣の礼を用いても、宮中では兄弟の序列が優先されたようです。
 
上座に坐った斉王を見て呂太后が怒りました。呂太后(近侍に命じて)酖酒(毒酒)を二杯注がせ、自分の前に置いてから(令酌両巵酖置前)、斉王に命じて立って寿を祝わせました(原文「令斉王起為寿」。寿を祝ってから酒を飲み干します)
この部分は『史記太后本紀』を元にしました。『漢書』は『高五王伝(巻三十八)』に書いており、『史記太后本紀』とほぼ同じです(令人酌両卮鴆酒置前,令斉王為寿)
資治通鑑』では「酖酒を注いで前に置き(酌酖酒置前)、斉王に下賜して寿を祝った(賜斉王為寿)」としており、微妙に差があります。
 
以下内容は『史記太后本紀』『資治通鑑』ともほぼ同じです。
斉王が立ち上がると恵帝も立ち上がって卮(杯)を取り、一緒に寿を祝おうとしました。
太后は驚き恐れて立ち上がり、恵帝が持った卮を払い落とします。
斉王は不審に思って酒を飲もうとせず、酔ったふりをして退席しました。
後に人に聞いて酖酒だったと知り、大いに恐れます。長安から脱出できないのではないかと憂鬱になりました。
そこで斉の内史(士は名。姓氏不明。『史記集解』によると、「士」は一説では「出」が斉王に進言しました「太后の子には孝恵(恵帝)と魯元公主(呂太后の娘)しかいません(「孝恵」は諡号で「魯元」も恐らく諡号なので当時の会話で使われることはないはずですが、原文のままにしておきます)。今、王は七十余城を有しているのに、公主の食は数城しかありません(公主が税収を得られる邑は数城しかありません)。王が一郡を太后に献上して公主の湯沐邑にすれば、太后は必ず喜び、王も必ず憂いがなくなります。」
斉王は納得して城陽郡を献上しました。
太后は喜んで受け入れ、斉王の邸宅(帝都にも諸侯の邸宅があります)で酒宴を楽しんでから、斉王の帰国を許可しました。
 
史記太后本紀』と『漢書高五王伝』は斉王が城陽郡を献上した時、「公主を尊重して王太后にした」と書いており、『漢書帝紀』にも「公主を尊重して太后にした」と書かれています。
史記集解』は「王太后」を「張敖(魯元公主の夫)の子偃が魯王になったので、公主は太后とされた」と解釈しています。しかし張偃が魯王に封じられるのは恵帝死後の事(前187年)なので、この時はまだ王になっていません。
漢書帝紀』』顔師古注は『史記』の注釈を否定しており、「公主を尊んで斉太后(斉王劉肥の母)とし、母礼によってつかえることで呂太后を喜ばせた」と書いています。
しかし斉王劉肥は高帝の子、恵帝の異母兄なので、魯元公主は異母姉妹に当たります。呂后に対して実母と同じ礼を用いて歓心を得たというのなら分かりますが、姉妹を母として尊ぶというのは不自然に思えます。
資治通鑑』は「公主を尊重して王太后にした」という記述を削除しています。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月癸酉(初四日)、東海郡蘭陵県の家人(庶人の家)の井戸から二匹の龍が現れました。
乙亥(初六日)の夕(夜)、龍がいなくなりました。
 
漢書五行志(巻二十七下之上)』にはこう書かれています。
恵帝二年正月癸酉(初四日)の朝、蘭陵県の廷東里(地名)にある温陵(人名)の家の井戸に二匹の龍が現れ、乙亥(初六日)の夜に去りました。
劉向は「尊貴の象徴である龍が庶人の井戸の中で困窮したのは、諸侯に幽執の禍が起きる兆である。この後、呂太后が三人の趙王を幽殺し、諸呂(呂氏宗族)もまた誅滅することになる」と解説しており、京房の『易伝』には「徳がある者が害に遭う時、妖龍が井戸の中に現れる」「刑を行って暴悪だったら、黒龍が井戸から出る」と書かれています。
 
三人の趙王とは既に殺された劉如意と、後に殺される劉友、劉恢を指します。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
隴西で地震がありました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
夏、旱害に襲われました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
郃陽侯劉仲(呉王劉濞の父。元代王劉喜。西漢高祖七年200年参照)が死にました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
酇文終侯(酇侯。文終侯は諡号蕭何が病にかかりました。
恵帝が自ら蕭何の様子を視に行き、こう問いました「君が百歳となった後(死んでから)、誰が君に代わることができるか?」
蕭何が答えました「臣下を知るのに主に勝る者はいません(国君が最も臣下を理解しているはずです。原文「知臣莫如主」)。」
恵帝が問いました「曹参はどうだ?」
蕭何が頓首して言いました「帝は相応しい人を得ました。臣は死んでも悔いがありません。」
 
秋七月辛未(初五日)、相国蕭何が死にました。
 
蕭何は必ず辺鄙で貧しい場所に田宅を構え、家を治める時も垣屋(高い壁や立派な建物)を造りませんでした。
蕭何はこう言いました「後世(子孫)が賢であるなら、わしの倹朴を学ぶだろう。賢でないとしても、(このような田宅なら)勢家(権勢をもつ家)に奪われることはない。」
 
癸巳(二十七日)、曹参を相国に任命しました。
曹参は蕭何が死んだと聞いた時、舍人(家人)にこう命じました「速やかに外出の準備をせよ(趣治行)。私は入朝して相になるはずだ。」
間もなくして、使者が曹参を呼びに来ました。
曹参は貧しかった頃には蕭何と深い交わりがありましたが、将相になってからは対立が生まれるようになりました。しかし蕭何が死ぬ時に推挙した賢人は曹参しかいませんでした。
曹参も蕭何に代わって相になってから何も変えようとせず、蕭何が定めた規定を守り続けました。
 
曹参は郡国の官吏の中から質朴で文辞を得意としない者や重厚(敦厚)な長者を選んで招き、丞相史(丞相の属官)に任命しました。言文(法律の文書)が刻深(苛酷。ここでは過度に細かいこと)で名声を求めている者は全て退けます。
その後、日夜とも醇酒(美酒)を飲むようになりました。卿大夫以下の官吏や賓客は曹参が政務を行う姿を見たことがないため、曹参に会いに来る度に忠告しようとしましたが、曹参はいつも醇酒を飲ませて忠告する機会を与えません。酒を飲んでいる間に忠告したくても、曹参が更に酒を勧めて酔わせてから帰らせたため、結局、客は何も言えないのが常でした。
曹参は誰かが些細な過ちを犯しても、いつも庇って罪を隠しました。そのため府中は常に平穏でした。
 
曹参の子曹窋は中大夫として恵帝に仕えていました。
恵帝は相国が政治をしないため、怪しんで曹窋に問いました「朕を若いと思っているからか(侮っているのか)?」
恵帝は曹窋を家に帰して身内の立場で曹参に問わせました。
すると曹参は怒って曹窋を二百回も笞打ち、こう言いました「早く入宮して(陛下に)侍れ。天下の大事は汝のような者が口にすることではない!」
 
後に曹参が入朝した時、恵帝が曹参を譴責して言いました「あの時の事は私が君を諫めさせたのだ。」
すると曹参は冠を脱いで謝罪し、こう言いました「陛下が御自身の聖武を推しはかるに、高帝と較べてどちらが優れていると思いますか?」
恵帝が言いました「朕がどうして先帝と較べることができるか。」
曹参がまた問いました「陛下が臣を観るに、蕭何と較べてどちらが賢だと思いますか?」
恵帝が答えました「君は及ばないようだ。」
曹参が言いました「陛下の言は是です(その通りです)。高帝と蕭何が天下を定めて法令も明らかにしました。今、陛下は垂拱(袖を垂らして手をこまねくこと。何もしないこと)し、参(私)等は職を守り、(高帝と蕭何が定めた事を)遵守して失わなければ、それで充分ではありませんか。」
恵帝は納得して「善」と言いました。
 
曹参が相国になって前後三年が過ぎると(曹参は西漢恵帝五年・前190年に死にます)、百姓がこう歌いました「蕭何が法を作り、分かりやすく統一した。曹参が代わってから、守って失うことがなかった。その清浄に乗り、民は寧一(安寧統一)となる(蕭何為法,較若画一。曹参代之,守而勿失。載其清浄,民以寧壹)
 
当時は長い戦乱から解放されてやっと平和な時代に入ったばかりでした。
曹参の政治は西漢前期の休息の時代のあり方を代表しています。
そして曹参の「何もせずに天下を治める」という考え方は、西漢前期に流行していた老荘思想道家思想)の「無為自然」の考え方にも共通しています。
 
 
 
次回に続きます。