西漢時代29 後少帝(一) 張敖 前183~182年
今回から西漢後少帝の時代です。
西漢後少帝
西漢恵帝の子とされており、名は劉弘といいます。
戊午 前183年
それを知った南越王・趙佗(尉佗)はこう言いました「高帝はわしを王に立てて使者と物資を通じさせた。しかし今、高后は讒臣の意見を聞いて我々を蛮夷と同等とみなし、器物を隔絶させた。これは長沙王の計に違いない。(長沙王は)中国(中原の勢力)に頼って南越を撃滅し、(長沙と南越を)併せて統治して自分の功とするつもりだ。」
春、趙佗が南越武帝を自称しました。
南越武帝は長沙を攻撃して数県を破ってから兵を還しました。
弟の壺関侯・劉武が淮陽王に立てられました。劉彊はまだ幼くて跡継ぎがいなかったようです。
九月、河東と上党の騎兵を動員して北地に駐屯させました。
初めて戍卒(辺境の守備兵)に歳更(一年ごとの交代)を命じました。
己未 前182年
呂王・呂嘉の生活が驕恣(驕慢で好き勝手に振る舞うこと)でした。
冬十月、呂太后が呂嘉を廃しました。
十一月、粛王・呂台の弟・呂産(洨侯)を呂王にしました。
春、昼に星が現れました。
夏四月丁酉(初三日)、天下に大赦しました。
朱虚侯・劉章の弟・劉興居を東牟侯に封じ、劉章と共に宿衛を命じました。。
長陵令(長陵の県令。長陵は高帝陵です。『漢書・地理志上』によると、長陵県は高帝が置きました。陵墓建設によって県になったようです)の秩を二千石に増やしました。秩禄を増やしたのは高祖に対する敬意を表します。
六月、長陵(高帝陵。もしくは長陵県全域)に城を築きました。
帝都を模した墓陵が造られたようです。
匈奴が狄道を侵して阿陽を攻めました。
『資治通鑑』胡三省注によると、狄道県は隴西郡、阿陽県は天水郡に属します。
五分銭は「楡莢銭」「莢銭」ともよばれます。「楡莢」は楡の実のさやという意味です。
宣平侯・張敖が死にました。
張敖と妻・魯元公主、および子の張偃に関して、はっきりしないことがあります。
この記述が正しいとしたら、本年、張敖が宣平侯として死んだ時、子の張偃は既に魯王に立てられていたことになります。
しかし『史記・張耳陳余列伝(巻八十九)』を見ると、「張敖が高后六年(本年)に死んだ。子の張偃が魯元王となった。母が呂后の娘だったため、呂后が(張偃を)魯元王に封じたのである」としており、『索隠』が「張偃は母の号(魯元)を元に封じられた」と解説しています。
『資治通鑑』と異なるのは以下三点です。
・張偃が王になったのは張敖の死後。
・魯元王は張敖の諡号ではなく張偃の号。
『漢書・張耳陳余伝(巻三十二)』も「高后元年(前187年)に魯元太后が死に、その六年後、宣平侯・張敖も死んだ。呂太后が張敖の子・張偃を魯王に立てた」としているので、張偃が王になるのは張敖死後の事になります。
また、子の張偃に関しては「高后二年(前186年)に魯王に封じられ、孝文皇帝元年(前179年)に侯に戻された。十五年で死に、諡号は共という」と書かれているので、やはり父・張敖が存命中に魯王になったようです(但し、『資治通鑑』『史記・呂太后本紀』『漢書・異姓諸侯王表』では高后元年に魯王に封じられていますが、『漢書・高恵高后文功臣表』では高后二年になっています)。
『漢書・高恵高后文功臣表』にも「魯元王」という号は見られません(張敖の諡号は武侯、張偃の諡号は共侯です)。『漢書』は「魯元王」という記述を敢えて避けているようにも思えます。『史記』の「張敖に魯元王という諡号を贈った」「張偃が魯元王になった」という部分を誤りと判断したのかもしれません。
『史記』の本紀と『漢書』の表から、張敖が死ぬ前に張偃が封王されたというのは恐らく間違いありません。しかし魯元王が張敖を指すのか張偃を指すのか(あるいはどちらも誤りなのか)、魯元公主の号が先にあって張偃が魯元王に封じられたのか、張敖の諡号が魯元王だったため呂后の娘が魯元公主と称されるようになったのか、いずれもはっきりしません。
次回に続きます。