西漢時代29 後少帝(一) 張敖 前183~182年

今回から西漢後少帝の時代です。
 
西漢後少帝
西漢恵帝の子とされており、名は劉弘といいます。
元の名は劉山で、西漢少帝元年(前187年)に襄城侯に封じられました。少帝二年(前186年)、恒山王に立てられて劉義に改名し、前年、皇帝に擁立されて劉弘に改名しました。
正式な諡号がないため、便宜上、後少帝とよばれています。政治の実権は呂太后が握っており、後少帝が即位しても改元はされませんでした。
 

西漢少帝五年(後少帝元年高皇后五年)
戊午 前183
 
[] 『漢書・高后紀』と『資治通鑑』からです。
この頃、漢の有司(官員)が南越との関市(『資治通鑑』胡三省注によると、漢は辺境の関で異民族と交易をしました。そのため「関市」といいます)における交易で、鉄器の売買を禁止するように請いました。
 
それを知った南越王趙佗(尉佗)はこう言いました「高帝はわしを王に立てて使者と物資を通じさせた。しかし今、高后は讒臣の意見を聞いて我々を蛮夷と同等とみなし、器物を隔絶させた。これは長沙王の計に違いない。(長沙王は)中国(中原の勢力)に頼って南越を撃滅し、(長沙と南越を)併せて統治して自分の功とするつもりだ。」
 
春、趙佗が南越武帝を自称しました。
この「武帝」は諡号ではなく生号です。
 
南越武帝は長沙を攻撃して数県を破ってから兵を還しました。
 
南越武帝は呂太后が死んで文帝の時代になってから再び漢に帰順します。
 
[] 『史記太后本紀』『漢書高后紀』『資治通鑑』からです。
秋八月、淮陽王劉彊が死にました。諡号は懐王です。
弟の壺関侯劉武が淮陽王に立てられました。劉彊はまだ幼くて跡継ぎがいなかったようです。
 
[] 『漢書・高后紀』と『資治通鑑』からです。
九月、河東と上党の騎兵を動員して北地に駐屯させました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
初めて戍卒(辺境の守備兵)に歳更(一年ごとの交代)を命じました。
資治通鑑』胡三省注によると、秦は民に対して暴虐で、南は五嶺を守らせ、北は長城を築かせ、戍卒の多くが何年経っても家に帰れず命を落としました。そのため、漢は一年ごとに戍卒を交代させることにしました。
 
 
 
西漢少帝六年(後少帝二年高皇后六年)
己未 前182
 
[] 『史記太后本紀』と資治通鑑』からです。
呂王呂嘉の生活が驕恣(驕慢で好き勝手に振る舞うこと)でした。
呂嘉は呂粛王呂台の子で、西漢少帝二年(前186年)に呂王を継ぎました。呂台の父は悼武王呂澤で、呂太后の兄に当たります。
 
冬十月、呂太后が呂嘉を廃しました。
十一月、粛王呂台の弟呂産(洨侯)を呂王にしました。
 
[] 『漢書高后紀』と資治通鑑』からです。
春、昼に星が現れました。
 
[] 『史記太后本紀』『漢書高后紀』資治通鑑』からです。
夏四月丁酉(初三日)、天下に大赦しました。
 
[] 『史記太后本紀』と資治通鑑』からです。
朱虚侯劉章の弟劉興居を東牟侯に封じ、劉章と共に宿衛を命じました。。
史記恵景間侯者表』によると、四月丁酉の事です。
 
劉章は斉悼恵王劉肥(高帝の子)の子、斉王・劉襄(哀王)の弟で、西漢少帝二年(前186年)に朱虚侯に封じられて宿衛を命じられました。
 
[] 『漢書高后紀』からです。
長陵令(長陵の県令。長陵は高帝陵です。『漢書・地理志上』によると、長陵県は高帝が置きました。陵墓建設によって県になったようです)の秩を二千石に増やしました。秩禄を増やしたのは高祖に対する敬意を表します。
 
[] 『漢書高后紀』からです。
六月、長陵(高帝陵。もしくは長陵県全域)に城を築きました。
顔師古注によると、長陵城は周囲七里百八十歩の殿垣(宮殿の壁。城壁)が造られ、四方に門があり、便殿(別殿。皇帝が休む場所)、掖庭後宮、諸官寺(役所)も城壁内に設けられました。
帝都を模した墓陵が造られたようです。
 
[] 『漢書・高后紀』と『資治通鑑』からです。
匈奴が狄道を侵して阿陽を攻めました。
資治通鑑』胡三省注によると、狄道県は隴西郡、阿陽県は天水郡に属します。
 
[] 『漢書・高后紀』と『資治通鑑』からです。
五分銭を発行しました西漢少帝二年186年参照)
五分銭は「楡莢銭」「莢銭」ともよばれます。「楡莢」は楡の実のさやという意味です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
宣平侯張敖が死にました。
張敖は元々父の張耳を継いで趙王になりましたが、貫高が高帝暗殺を謀ったため宣平侯に落とされました西漢高帝九年198年)
しかし呂太后の娘魯元公主を娶ったため、死後に魯元王という諡号が贈られました。
 
張敖と妻魯元公主、および子の張偃に関して、はっきりしないことがあります。
資治通鑑』では西漢少帝元年(前187年)に魯元公主が死に、張敖の子張偃が魯王に立てられています。これは『史記太后本紀』も同じです。
この記述が正しいとしたら、本年、張敖が宣平侯として死んだ時、子の張偃は既に魯王に立てられていたことになります。
また、張敖が魯元王という諡号を贈られたというのも、『史記太后本紀』と共通しています(但し『史記太后本紀』は張敖の死を翌年の事としています)
ここから呂后の娘を魯元公主というのは、夫張敖の諡号に従ったためと考えられます。
 
しかし『史記張耳陳余列伝(巻八十九)』を見ると、「張敖が高后六年(本年)に死んだ。子の張偃が魯元王となった。母呂后の娘だったため、呂后(張偃を)魯元王に封じたのである」としており、『索隠』が「張偃は母の号(魯元)を元に封じられた」と解説しています。
資治通鑑』と異なるのは以下三点です。
張偃が王になったのは張敖の死後。
魯元王は張敖の諡号ではなく張偃の号。
魯元公主の魯元は『資治通鑑』では夫張敖の諡号。『史記張耳陳余列伝』では先に魯元公主の号があり、後から張偃が魯元王を称した(この場合、張偃の魯元王は諡号ではなく生号のようにも思えます)
 
漢書張耳陳余伝(巻三十二)』も「高后元年(前187年)に魯元太后が死に、その六年後、宣平侯張敖も死んだ。呂太后が張敖の子張偃を魯王に立てた」としているので、張偃が王になるのは張敖死後の事になります。
 
ところが同じ『漢書』でも『異姓諸侯王表』では高后元年が魯王張偃の元年になっています。張偃の号が「魯元王」かどうかは、『漢書』の『張耳陳余伝』と『異姓諸侯王表』からは分かりません。
 
漢書高恵高后文功臣表』を見ると、張敖は「宣平武侯」と書かれており、高帝九年(前198年)に宣平侯に封じられて十七年で死んでいます。死んだ年は本年に当たります。
また、子の張偃に関しては「高后二年(前186年)に魯王に封じられ、孝文皇帝元年(前179年)に侯に戻された。十五年で死に、諡号は共という」と書かれているので、やはり父張敖が存命中に魯王になったようです(但し、『資治通鑑』『史記太后本紀』『漢書異姓諸侯王表』では高后元年に魯王に封じられていますが、『漢書高恵高后文功臣表』では高后二年になっています)
漢書高恵高后文功臣表』にも「魯元王」という号は見られません(張敖の諡号は武侯、張偃の諡号は共侯です)。『漢書』は「魯元王」という記述を敢えて避けているようにも思えます。『史記』の「張敖に魯元王という諡号を贈った」「張偃が魯元王になった」という部分を誤りと判断したのかもしれません。
 
史記』の本紀と『漢書』の表から、張敖が死ぬ前に張偃が封王されたというのは恐らく間違いありません。しかし魯元王が張敖を指すのか張偃を指すのか(あるいはどちらも誤りなのか)、魯元公主の号が先にあって張偃が魯元王に封じられたのか、張敖の諡号が魯元王だったため呂后の娘が魯元公主と称されるようになったのか、いずれもはっきりしません。
 
 
 
次回に続きます。