西漢時代30 後少帝(二) 趙王劉友 前181年(1)

今回は西漢少帝七年です。三回に分けます。
 
西漢少帝七年(後少帝三年高皇后七年)
庚申 前181
 
[] 『漢書・高后紀』と『資治通鑑』からです。
冬十二月、匈奴が狄道を侵して二千余人を奪いました。
 
[] 『史記・呂太后本紀』『漢書・高后紀』『資治通鑑』からです。
春正月、呂太后が趙王劉友(幽王。高帝の子)を招きました。
劉友は呂氏の女を王后にしていましたが、寵愛することなく、他の姫妾を愛しました。
呂氏の女は怒って趙国を去り、呂太后に讒言しました「王(劉友)は『呂氏がなぜ王になれるのだ。太后の百歳の後(死後)、私が必ず撃ってみせる』と言っています。」
太后が趙王劉友を招いたのはそのためです。
 
趙王が長安に入ると、呂太后は劉友を趙王邸において誰にも会えなくしました。
資治通鑑』胡三省注によると、京師(京都)における朝宿の舍(朝見のために泊まる家)を「邸」といいました。「邸」は「至(到る)」の意味です。
 
太后は衛士に命じて趙王邸を包囲させ、食事も与えませんでした。趙国の群臣で秘かに食糧を届けようとした者もいましたが、全て捕えられて処罰されます。
餓えた趙王が歌を作りました。
「諸呂用事兮劉氏危。迫脅王侯兮彊授我妃。我妃既妬兮誣我以悪。讒女乱国兮上曾不寤。我無忠臣兮何故弃国。自決中野兮蒼天挙直。于嗟不可悔兮寧蚤自財。為王而餓死兮誰者憐之。呂氏絶理兮託天報仇。
 
最初の四句「諸呂用事兮劉氏危。迫脅王侯兮彊授我妃。我妃既妬兮誣我以悪。讒女乱国兮上曾不寤」は容易に理解できます。
「諸呂が専権して劉氏が危うくなる。王侯を脅迫して無理矢理私に妃を授ける。我が妃は嫉妬して私を悪だと讒言し、讒女が国を乱しているのに上(陛下)は気づくことがない」です。
次の「我無忠臣兮何故弃国」は「私は忠臣ではなかった。なぜ国を棄てたのだ」ですが、意味が通じません。『漢書高五王伝(巻三十八)』で顔師古注が「(この句は幽閉されたことを)理解できないと言っている(謂不能明白之也)」と解説しているので、「国を失ったのは私が忠臣ではなかったということか」という困惑を表しているのかもしれません。また、「我無忠臣」を「私には忠臣がいなかった」と解釈した場合は、「私には忠臣がいなかった。なぜ国を棄ててしまったのだ(忠臣がいれば呂太后の招きに応じることはなかった)」という読み方もできます。
「自決中野兮蒼天挙直」は直訳すると「中野(原野)で自ら決し、蒼天(青空。天)が直を挙げる」ですが、理解が困難です。『漢書高五王伝』では「自快中野兮蒼天与直」となっており、「中野で自ら楽しみ、蒼天と直(正しい道理)を共にする」と読めます。顔師古は「自分の理に直があるので(自分の道理が正しいので)、天が臨んで監視観察することを願っている」と注釈しています。次の句の顔師古注を見ると「自快(『史記』では「自決」)」は「自ら快く死ぬこと」という意味になっています。
「于嗟不可悔兮寧蚤自財」は『漢書高五王伝』では「于嗟不可悔兮寧早自賊」となっています。「自賊」は「自害」の意味です。この一句は「ああ、後悔もできない。どうせなら早く自害するべきだ」と読めます。顔師古は「早く趙国を棄てて快く田野の中で自殺しなかったことを後悔している。今はこうして幽閉され、餓えることになってしまった」と解説しています。
最後の二句「為王而餓死兮誰者憐之。呂氏絶理兮託天報仇」は「王になりながら餓死して誰が憐れむだろう。呂氏は道理を絶った。天に仇討ちを託そう」という意味です。
 
丁丑(十八日)、ついに趙王が幽閉されたまま餓死しました。
太后は庶民の礼で劉友の葬儀を行わせ、長安の民冢(庶民の墓)の傍に埋葬させました。
 
[] 『史記・呂太后本紀』『漢書・高后紀』『資治通鑑』からです。
己丑(三十日)皆既日食があり、昼なのに夜のように暗くなりました。
太后はこれを嫌って心中不快になり、左右の者に「これは私が原因です」と言いました。
 
[] 『史記・呂太后本紀』と『資治通鑑』からです。
二月、梁王劉恢(高帝の子)を趙王に遷し、呂王呂産を梁王に遷しました。
しかし梁王は封国に行かず、少帝の太傅として長安に留まりました。
 
[] 『漢書高后紀』はここで「梁王呂産を相国に、趙王呂禄を上将軍にした。営陵侯劉澤を琅邪王に立てた」と書いています。
史記太后本紀』と『資治通鑑』は呂産の相国と呂禄の上将軍を翌年に書いています。劉澤は後述します。
 
[] 『漢書高后紀』からです。
夏五月辛未、詔を発しました「昭霊夫人(高帝劉邦の母)太上皇妃で、武哀侯(高帝の兄劉伯。西漢高帝五年202年参照)、宣夫人(詳細はわかりません)は高皇帝の兄と姉であるのに、号諡諡号が相応しくありません。尊号を議しなさい。」
丞相陳平等の上奏によって、昭霊夫人は昭霊后に、武哀侯は武哀王に、宣夫人は昭哀后になりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋七月丁巳(中華書局の『白話資治通鑑』によると「丁巳」は恐らく誤りです)、平昌侯劉太(恵帝の子)を済川王に封じました。
 
「平昌侯」に関して、『資治通鑑』胡三省注は「西漢少帝四年(前184年)に劉太が『昌平侯』に封じられており、『漢書外戚恩沢侯表』でも『昌平侯』になっているので、『資治通鑑』の誤り」としています。
但し、『史記太后本紀』では「平昌侯」になっています。
史記太后本紀』はこう書いています「皇子平昌侯劉太を呂王に立てた。梁を呂に改名し、呂を済川に改名した(更名梁曰呂,呂曰済川)。」
史記・漢興以来諸侯王年表』と『漢書外戚恩沢侯表』を見ると、劉太は呂王に立てられています。
資治通鑑』が「済川王に封じた」としているのは、「呂王」に封じられてから「済川王」に改名されたからのようです。
『呂太后本紀』の「梁を呂に改名した」という部分は、『正義』が「初めに呂台が呂王になり、後に呂産が梁の王となってから、梁を呂に改めた」と解説しています。
呂産は二月に呂王から梁王になったばかりですが、また呂王に戻されました。しかし、『史記』『漢書』『資治通鑑』のこの後の記述では、呂産を梁王と書いている場所もあります。
 
資治通鑑』胡三省注によると、「済川」は済南済北の地を指します。このうち済南は西漢少帝元年(前187年)に呂国になりました。劉太の封国である済川は旧呂国(済南)に済北の地が加えられたようです。但し、胡三省注は「劉太は年少だったため、封国に行かなかった」と注釈しています。
 
 
 
次回に続きます。