西漢時代49 文帝(十二) 貨幣鋳造 前175年

今回は西漢文帝前五年です。
 
西漢文帝前五年
丙寅 前175
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
春二月、地震がありました。
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
以前、秦は半両銭(半両の重さは十二銖)を使っていましたが、西漢高帝は半両銭が重くて使いにくいことを嫌い、莢銭を鋳造させました。
資治通鑑』胡三省注によると、高帝の莢銭は重さ一銖で、「漢興」と刻まれていました。
太后の時代には八銖銭と五分銭(五分は半両(十二銖)の五分の一という意味)も発行されました西漢少帝二年186年参照)
高帝が造った莢銭(一銖銭)も呂太后の八銖銭と五分銭も貨幣価値は全て半両銭と同じです。
額面を変えないまま軽量化した貨幣が出回ったため、物価が高騰することになりました。一石の米が一万銭にまで値上がります。
 
夏四月、文帝が改めて四銖銭を鋳造させました。今までと同じく「半両」と刻まれています。
四銖銭は莢銭(一銖銭)や五分銭よりは重く、八銖銭や秦の半両銭よりは軽くなります。
 
文帝は「盗鋳銭令(民間での貨幣鋳造を禁止する法令)」を廃止して民間の私鋳を許可しました。
賈誼が諫めて言いました「今の法は天下に対して、公に人を雇用して銅錫を鋳し、貨幣を造ることを許可しており、敢えて鉛鉄を混ぜて他の巧(本物とは異なる巧妙な物。偽物)を造る者は黥刑に処すことになっています。しかし鋳銭の情(実情。本性)は、殽雑(混ぜ合わせること)して巧としなければ贏(利益)が得られません。しかも殽(混ぜること)が極めて少なくても、その利はとても厚くなります(混ぜる量はわずかなので発見できません)。事によっては禍を招く場合があり、法によっては姦を起こす場合があるものです。今、細民(庶民)全てに造幣の勢(権勢。権利)を持たせました。人々はそれぞれ隠屏して(隠れて)鋳造しています。微姦(わずかな悪事姦計。貨幣に鉛鉄を混ぜること)によって得る厚利を禁止したくても、たとえ毎日黥罪の判決を下そうともその勢いは止められません。その結果、民人(人民)で罪に当たる者は、多ければ一県で百人を数えることになるでしょう。吏(官吏)に疑われて笞打たれ、奔走する者は更に多くなります。法を立てて民を犯罪に誘い、陷阱(罠)に陥らせることが、これ(貨幣鋳造の法)よりも多い法はありません。
また、今は民が用いている銭が郡県によって異なります。ある地域では軽銭を用いているため、百銭を出すのに若干の貨幣を加えなければならず(貨幣が軽いと基準よりも重量が足りないため額面よりも多く貨幣を出す必要があります)、ある地方では重銭を用いているため、金額が釣り合っていても(貨幣が実際に必要な重量より重いため)受け入れられません。法銭(法に基づいた貨幣)が当てにならないのに(民が勝手に貨幣を鋳造しているため、基準が曖昧になっているのに)、吏が急いで統一できるでしょうか。(無理に統一しようとしたら)大いに煩苛(煩瑣苛烈)になり、しかも力が足りません。それでは放置して何も言わなければいいのでしょうか。(重さが異なる貨幣を使用し続けていたら)市肆(市場店舗)が異なる貨幣を使い、銭文(貨幣の決まり)が大乱します。術(方法)が正しくないのに、どこに向かえばいいのでしょうか。
今、農事を棄捐(放棄)して銅を採る者が日に日に増えています。(人々は)耒耨(農具)を手離し、銭型を造って炭を炊いているので(冶鎔炊炭)、姦銭(質が悪い銭。偽銭)は日々増えているのに五穀が増えることはありません。善人も誘われて姦悪を行い、慎重な民も陥って刑戮を受けています。刑戮が公平を失っているのに、どうして無視できるでしょう。
国がここに憂患があると知ったら、吏は議して必ず『これを禁じよう』と言います。しかし禁止する術(方法)を得なければ(方法を誤れば)、その傷は必ず大きくなります。令(法令)によって貨幣の鋳造を禁止すれば銭は必ず重くなります(貨幣が減るので貴重になります)。重くなれば利が深くなるので(貨幣が貴重になれば鋳造して得る利益が大きくなるので)、盗鋳(違法の鋳造)する者が雲のように起き上がります。そうなったら棄市の罪(刑)を用いても禁じられません。多くの犯罪に勝つことができず、逆に法律禁令がいくつも崩壊することになります(姦数不勝而法禁数潰)。この原因は銅にあります。銅は天下に分布しているので、それがもたらす禍は広範にわたります。よって、銅を収める(回収する。国で管理する)べきです。」
 
以上は『資治通鑑』を元にしました。最後の部分を『漢書食貨志下(巻二十四下)』から追記します。
賈誼は今後の対策としてこう言いました「今なら博禍(広範な禍)を除いて七福をもたらすことができます。何を七福というのでしょうか。
(陛下)が銅を収めて(回収して)散布を禁止すれば、民は貨幣を鋳造しなくなり、黥罪も増えなくなります。これが第一の福です。偽銭が増えず、民も互いに疑う必要がなくなります。これが第二です。銅を採って鋳作していた者が帰って耕田するようになります。これが第三です。銅が全て上(陛下)に帰せば、上は銅の蓄えによって軽重を操作できるようになります。銭が軽い時は術(方法)を用いて収集し、重い時は術を用いて散発すれば、貨物(物価)が必ず安定します。これが第四です。兵器を造ったり貴臣を表彰する時(原文「假貴臣」。「假」は恐らく「嘉」の意味)、銅を使う量を制御でき、用いる量によって貴賎を分けることもできます。これが第五です。万貨に臨み(市場を監督し)、盈虚(利益)を調整し、竒羨(余剰)を収めることで、官が富実し(富裕になり)、末民(工商業者)が貧しくなります。これが第六です。我が国の棄財(棄てることができる財。余った財)を管理して匈奴と民を争えば、必ず敵を懐柔できます(商工業が衰えて農業が盛んになれば国庫が充たされるので、それを使って匈奴の民を誘い、帰順させることができます)。これが第七です。天下を善く治める者は禍を福に変え、失敗を功績に転じさせることができるものです。今、久しく七福を退けて博禍を行っているので、臣は深く哀痛しています(臣誠傷之)。」
 
資治通鑑』に戻ります。
賈山も上書して諫めました「銭とは無用の器(道具)なのに富貴に換えることができます。富貴とは人主が操柄(権利を掌握すること)するべきものです。民に為させたら(貨幣を鋳造させたら)、人主と共に操柄することになるので、長く続けるべきではありません。」
 
文帝はどちらの意見も採用しませんでした。
 
当時、太中大夫鄧通が文帝の寵愛を受けていました。文帝は鄧通を富ませるために、蜀厳山の銅山を下賜して自由に貨幣を鋳造させました。
また、呉王劉濞が豫章郡の銅山を領有していたため、天下から亡命者を招いて貨幣の鋳造をさせました。更に東部では海水から塩が採れたため、呉国は賦税を徴収しなくても国庫が充たされるほど裕福になりました。
この後、呉国と鄧通の貨幣が天下に流通したと言われています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、文帝は代を二国に分けて皇子(文帝の子)劉武を代王に、劉参を太原王に封じました西漢文帝前二年178年)
この年、代王劉武を淮陽王に遷し、太原王劉参を代王にして代の故地を全て治めさせました。
史記・梁孝王世家(巻五十八)』『漢書文三王伝(巻四十七)』によると、代王・劉参は代だけでなく太原も併せて治めることになりました。
 
 
 
次回に続きます。