西漢時代50 文帝(十三) 淮南王劉長 前174年(1)

今回は西漢文帝前六年です。二回に分けます。
 
西漢文帝前六年
丁卯 前174
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
冬十月、桃と李に花が咲きました。
 
[] 『史記孝文本紀』と『資治通鑑』からです。
淮南王劉長(厲王。文帝の弟)は封国内で勝手に法令を作って施行したり、漢(中央)が置いた官吏を追い出しており、自ら相や二千石の官員を任命することを請いました。
資治通鑑』胡三省注によると、当時の王国は、国相から内史、中尉に至る二千石の官吏は漢が置き、それ以外は国王が任命していました。
 
文帝は意を曲げて淮南王の要求に従います。
 
すると淮南王は更に勝手に刑を行って不辜(無罪)の者を殺したり、人に爵位を与えて関内侯(第十九爵)に封じました。
資治通鑑』胡三省注によると、爵位とは皇帝が与えるもので、侯王が自由にできるものではありません。
 
淮南王は中央への上書でもしばしば不遜な態度がありました。
しかし文帝は自ら譴責することができなかったため、薄昭から婉曲に諭す書を送らせました。薄昭は管叔蔡叔西周初期、周公に誅殺されました)や代の頃王(高帝の兄劉仲。王位を廃されました。西漢高帝七年200年)、済北王劉興居西漢文帝前三年177年、謀反して誅されました)の故事を挙げて淮南王を戒めます。
 
書を読んだ淮南王は不快になり、大夫(但は名。姓不明)、士伍(士卒)開章(開が姓。『資治通鑑』胡三省注によると、衛の公子開方の子孫)等七十人を派遣して、棘蒲侯柴武の太子柴奇と謀叛の計画を練りました。輦車(武器を運ぶ時に使う車)四十乗を準備して谷口で挙兵する予定です。
また、閩越や匈奴にも人を送って連絡を取りました。
しかし計画が発覚し、有司(官員)が追求しました。
 
有司(官吏)が淮南王の罪を弾劾して文帝に上奏しました。「先帝の法を廃し、天子の詔を聞かず、居処(住居。宮殿)に限度がなく、外出時は天子の儀仗を真似ており、勝手に法令を作り、棘蒲侯の太子柴奇と謀反を企み、閩越や匈奴に使者を送って兵を動員させ、宗廟社稷を危うくしている」という内容です。
 
文帝はついに使者を送って淮南王を召しました。
 
淮南王が長安に至ると、群臣が議論して、丞相張蒼と行御史大夫御史大夫代行)・典客馮敬および宗正、廷尉が上奏しました「長(劉長)の罪は棄市に当たります。」
しかし文帝は死刑に処すことができず、王位を廃すことにしました。群臣が劉長を蜀郡厳道の卭都(または「邛郵」。この場合は邛の郵駅の意味)に遷すように進言し、文帝はこれに同意します。
文帝が制を発しました「長(劉長)の死罪を赦すが、王位を廃して蜀郡厳道の邛都(または「邛郵」)に遷すことにする。」
謀叛に与した者は全て処刑され、劉長は輜車で蜀に運ばれました。
文帝は道中の県に命じて交代で護送させます。
 
袁盎が文帝を諫めて言いました「以前から上(陛下)が淮南王を驕らせて、厳しい傅や相を置かなかったからこのような事態を招いたのです。淮南王は為人が剛直です。今回、突然大きな打撃を与えたら(暴摧折之)、臣は(淮南王が)霧露に遭って病死するのではないかと恐れます。陛下が弟を殺した悪名を負うことになったらどうするつもりですか。」
文帝が言いました「わしはただ懲らしめたかっただけだ。すぐに帰らせよう。」
 
しかしその頃、淮南王は憤慨のため食事をせず、死んでしまいました。
漢書 淮南衡山済北王伝(巻四十四)』によると、淮南王は侍者に「誰が汝の公(劉長)は勇敢だと言ったのだ。わしは驕慢になって過ちを聴かず、ついにこうなってしまった」と言って食事を採らなくなりました。
 
檻車は各県が護送して次の県まで運びましたが、封がしてあるため誰も開こうとしません。雍県に至った時、やっと雍令(県令)が戸を開けて死んでいることに気づきました。
 
京師に報告が届くと文帝は哀哭して深く悲しみ、袁盎に言いました「わしが公の言を聞かなかったから、淮南王を失ってしまった。これからどうするべきだ。」
袁盎が言いました「丞相と御史だけを処刑して天下に謝罪すればいいでしょう。」
 
文帝は丞相と御史に命じ、諸県で淮南王を護送したのに檻車の戸を開けず、食事も採らせなかった者を全て逮捕して棄市に処しました(袁盎は「丞相と御史だけを処刑する(独斬丞相御史)」と進言しましたが、実際に処刑されたのは県の官吏です)
 
また、列侯の礼で淮南王を雍に埋葬し、守冢(墓守)三十戸を置きました。
 
文帝前十六年(前164年)、淮南王劉長を追尊して厲王とし、三人の子を封王しました。阜陵侯劉安が淮南王、安陽侯劉勃が衡山王、周陽侯劉賜が廬江王です(後述します)
 
 
 
次回に続きます。