西漢時代52 文帝(十五) 賈誼の諫言 前173~170年

今回は西漢文帝前七年から十年です。
 
西漢文帝前七年
戊辰 前173
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
冬十月、文帝が令を下し、列侯の太夫人、夫人(列侯の妻を夫人といい、母を太夫人といいます)、諸侯王の子および二千石以上の官吏を許可なく徵捕(逮捕)することを禁止しました。
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
夏四月、天下に大赦しました。
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
六月癸酉(初二日)、未央宮東闕の罘で火災がありました。
というのは門や闕に連なった建築物で、防御や見張りに使われました。
 
[] 『資治通鑑』からです。 
民間で淮南王を歌う歌が流行りました。
「一尺布,尚可縫。一斗粟,尚可舂。兄弟二人不相容。」
 
「たった一尺の布でも縫い合わせて服にすれば兄弟で着ることができる。たった一斗の粟でも調理すれば兄弟で一緒に食べることができる。しかし天下はこれほど広いのに、兄弟二人を受け入れることができなかった」という意味で、淮南王劉長の王位を逐って餓死させた文帝を風刺しています。
 
歌を聞いた文帝は憂鬱になりました。
 
 
 
西漢文帝前八年
己巳 前172
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
(『漢書王子侯表』では五月丙午)、淮南厲王劉長の子劉安等四人を列侯に立てました。
劉安が阜陵侯、劉勃が安陽侯、劉賜が陽周侯、劉良が東城侯です。
 
このうち劉安、劉勃、劉賜は文帝前十六年(前164年)四月丙寅に封王されます。劉安は淮南王(謀反して自殺するので諡号はありません)、劉勃は衡山王(後に済北王。諡号は貞王)、劉賜は盧江王(後に衡山王。謀反して自殺するので諡号はありません)です。
劉良は東城侯として死に、哀侯という諡号が贈られます。
 
賈誼は文帝が淮南王国を回復しようとしていると判断し、上疏して言いました「淮南王の悖逆無道は天下でその罪を知らない者がいません。幸いにも陛下が死罪を赦して他の地に遷しましたが、自ら疾(病)を患って死にました。天下の誰が王の死を不当だと思っているでしょう。今、罪人の子を奉尊したら、まさに天下の謗りを負うことになります(淮南王の子を再び王に立てたら、淮南王が無罪なのに殺されたことを天下に示して謗りを受けることになります)。また、この者達が少壮になったら(もう少し成長したら)どうして父の事を忘れられるでしょうか。白公勝が父のために仇討ちをした相手は大父(祖父)と叔父でした春秋戦国時代、楚国の故事。白公勝の祖父は楚平王。叔父は子西と子期)。白公が乱を為したのは、国を取って主に代わりたかったからではありません。憤りを発散して心を満足させ(発忿快志)、剡手(恐らく「鋭利な刃物を持った手」)によって仇人の胸を突き、共に倒れようとしただけです。淮南は小さいとはいえ、かつて黥布が治めた地です。漢が(黥布に勝って)存続できたのは、ただ天幸があったからに過ぎません。仇人に漢を危険にするに足る資本を与えて自由に使わせようとしていますが、このような策は誤りです。彼等に衆積の財(蓄積された大量な財物)を与えたら、子胥伍子胥や白公のように広都(広大な都市)の中で仇討ちをしないとしても、剸諸(専諸)荊軻(どちらも刺客)のように両柱の間(朝廷。国君の席)で事を起こすでしょう。賊に兵(武器)を貸すのは虎に翼を与えるのと同じです。陛下は少し計を留めてください(考え直してください)。」
文帝は諫言を聴きませんでした。
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
長星が東方に現れました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、異常な星には孛長の三星がありました(恐らくどれも彗星です)
孛星は光が短く四方を照らします。彗星は箒のような形をしています。長星は一直線です。彗星と孛星は旧制を除いて刷新すること(除旧布新)を予兆し、長星は兵革の事(戦争)を予兆するといわれました。
 
 
 
西漢文帝前九年
庚午 前171
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
春、大旱がありました。
 
 
 
西漢文帝前十年
辛未 前170
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
冬、文帝が甘泉を行幸しました。
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
将軍薄昭(軹侯)が漢の使者を殺しました。薄昭は文帝の母太后の弟に当たります。使者との間に何があったのかは分かりません。
文帝は自分で薄昭を誅殺するのが忍びなかったため、公卿を送って薄昭と酒宴を開かせ、酒の席で自殺するように促しました。
しかし薄昭が同意しないため、文帝は群臣に喪服を着て哀哭に行かせました。
薄昭は自殺しました。
 
漢書』の注釈は薄昭の死に関して別の説も紹介しています。
薄昭が文帝と博(棋戯の一種)で遊んで勝てませんでした。罰として酒を飲むことになり、侍郎が酒を注ぎましたが、薄昭が飲んだ量が少ないと判断して、侍郎が怒って譴責しました。
後にこの侍郎が下沐(休暇)で文帝の傍を離れた時、薄昭は人を送って殺してしまいました。これが原因で文帝は薄昭に自殺させました。
 
顔師古は『外戚恩沢表』に「漢の使者を殺して罪に坐した」と書かれていることから、侍郎を殺したという説を否定しています。
 
 
 
次回に続きます。