西漢時代57 文帝(二十) 匈奴進攻 前166年(1)

今回は西漢文帝前十四年です。二回に分けます。
 
西漢文帝前十四年
乙亥 前166
 
[] 『史記・孝文本紀』『漢書・文帝紀』『資治通鑑』からです。
冬、匈奴が漢の辺境への侵入を謀りました。
老上単于が十四万騎で朝那(安定郡)の蕭関(朝那県の境)に入り(「朝那の蕭関に入った」というのは『資治通鑑』の記述で、『史記』と『漢書』の『匈奴列伝』を元にしています。『史記・孝文本紀』は「朝那塞を攻めた」としており、蕭関には触れていません。あるいは朝那塞が蕭関を指すのかもしれません。『漢書・文帝紀』は「匈奴が辺境を侵し、北地都尉・卬を殺した」とだけ書いています、北地都尉卬を殺して多数の人民畜産を奪いました。
 
史記・恵景間侯者表』と『漢書・高恵高后文功臣表』によると、本年(文帝前十四年・前166年)三月丁巳に「孫単」が缾侯に封じられており、封侯の理由を「匈奴が侵入した時、父の卬が北地都尉として力戦して殉死したため」としています。孫単の父が北地都尉卬なので、卬の姓も「孫」のはずです。
但し、『漢書・文帝紀』の注と『資治通鑑』胡三省注によると、段姓という説もあるようです。
尚、缾侯に封じられた孫単は西漢景帝の時代に謀反の罪で誅殺され、侯国が廃されました。
 
本文に戻ります。
匈奴は更に彭陽(安定郡)に至り、奇兵(『資治通鑑』と『史記匈奴列伝(巻百十)』は「奇兵」。『漢書匈奴伝上(巻九十四上)』では「騎兵」)を送って回中宮を焼きました。候騎が雍の甘泉宮にまで至ります。
史記匈奴列伝(巻百十)』によると、甘泉宮は長安から三百里の場所にあり、長安を望むことができました。
 
文帝は胡寇に備えるため、中尉周舍を衛将軍に、郎中令張武を車騎将軍に任命し、車千乗、騎卒十万を動員して長安に近い渭水北に駐軍させました。また、昌侯盧卿(または「旅卿」)を上郡将軍に、甯侯を北地将軍に、隆慮侯周竈を隴西将軍に任命して三郡に駐軍させました。
資治通鑑』胡三省注によると、盧氏は姜姓から生まれた氏です。子孫が盧に封じられたため国名を氏にしました。盧卿、魏、周竈とも高帝時代からの功臣です。三人に三郡を守らせたため、郡名が将軍の号になりました。
 
文帝は自ら軍を労い、兵を訓練し、教令を明らかにし、軍の吏卒に賞賜を与えました。
文帝が匈奴への親征を望みました。群臣が諫めても聴こうとしません。しかし皇太后が強く止めたため、やっとあきらめました。
文帝は東陽侯張相如を大将軍に、成侯董赤と内史欒布を将軍に任命して(恐らく誤りです。下述します)匈奴を撃たせました。
資治通鑑』胡三省注によると、成侯董赤は高帝の功臣董渫の子です。
 
董赤と欒布に関しては『資治通鑑』を元にしました。『資治通鑑』は『漢書帝紀に倣っています。
但し、『漢書帝紀は「成侯董赤」を「建成侯董赫」とし、「建成侯董赫と内史欒布を共に将軍にした」としています。
史記』と『漢書』の『匈奴列伝』および『史記高祖功臣侯者年表』『漢書高恵高后文功臣表』では「成侯(康侯)董赤」と書かれているので、『資治通鑑』は『漢書帝紀の「建成侯董赫」を「成侯董赤」に直しています。
 
また、『漢書』『資治通鑑』とも成侯董赤が将軍になっていますが、『漢書百官公卿表下(巻十九下)』を見ると本年に「内史董赤」と書かれているので、董赤は内史になったようです。内史は京師を治める官(首都長官)です。
史記孝文本紀』では「成侯董赤を内史に、欒布を将軍にした」としています。
あるいは董赤を内史に任命してから将軍にしたのかもしれませんが、内史は董赤の官職なので、「内史欒布」という『資治通鑑』と『漢書帝紀の記述は恐らく誤りです。
尚、『史記匈奴列伝』は「東陽侯張相如を大将軍にし、成侯董赤を前将軍にした」としており、『漢書匈奴伝』は「東陽侯張相如を大将軍に、成侯董赤を将軍にした」としています。どちらにも欒布の記述はありません。
欒布に関しては、『史記季布欒布列伝(巻百)』と『漢書季布欒布田叔伝(巻三十七)』に「孝文の時代、燕相となり、将軍に至った」とありますが、匈奴との戦いで将軍になったとは明記していません。
 
本文に戻ります。
老上単于は塞内に一月余留まってから去りました。
漢は塞を出て匈奴を駆逐してから還りましたが、匈奴兵に死者はいませんでした。
 
撤退した匈奴について、『資治通鑑』は「匈奴が)塞内に一月余留まってから去った」としていますが(『史記』と『漢書』の『匈奴列伝』を元にしています)、『漢書帝紀』は「匈奴が走った」、『史記孝文本紀』は「匈奴が遁走した」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。