西漢時代58 文帝(二十一) 馮唐 前166年(2)

今回は西漢文帝前十四年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
文帝が輦に乗って郎署を通った時、郎署長馮唐に問いました「汝の父の家はどこだ?」
馮唐が答えました「臣の大父(祖父)は趙人でしたが、父が代に移りました。」
文帝が言いました「わしがかつて代に居た時(文帝は元代王です)、わしの尚食監(食事を掌る官)高祛がしばしば趙将李斉の賢を語り、鉅鹿下の戦いについて話した(『資治通鑑』胡三省注によると、李斉は秦将王離が鉅鹿を包囲した時に秦軍と戦ったようです)。今、わしは食事をするたびに、意(思い)が鉅鹿に行かないことはない(食事のたびに高祛の言を思い出して鉅鹿の事を考える)。父(ここでは「あなた」の意味。相手を尊重する言い方です。『資治通鑑』と『史記 張釋之馮唐列伝(巻百二)』では「父」ですが、『漢書張馮汲鄭伝(巻五十)』では「父老」としています)(李斉を)知っているか?」
馮唐が答えました「(李斉は)廉頗、李牧のような将には及びません。」
文帝が太腿を叩いて言いました「ああ(嗟乎)、わしは廉頗や李牧を得て将にすることができないのか。(それができたら)どうして匈奴を憂いる必要があるだろう。」
すると馮唐がこう言いました「陛下が廉頗や李牧を得たとしても、用いることはできません。」
文帝は怒って立ち上がり、禁中に帰ってしまいました。
 
久しくして文帝が馮唐を招いて譴責しました「公(あなた)はなぜ衆(群臣)の前でわしを辱めたのだ。間処(人がいない場所)がないというのか。」
馮唐が謝罪して言いました「私は鄙人(知識が浅い者。田舎者)なので忌諱を知りません。」
当時は匈奴が辺境を侵犯していたため、文帝は怒りを収めて馮唐にこう問いました「公(あなた)はなぜ私が廉頗や李牧を用いることができないと分かるのだ?」
馮唐が答えました「臣が聞いたところでは、上古の王者が将を派遣する時は、跪いて轂(車)を押し、『閫(しきい。門)の中の事は寡人が制す。閫の外の事は将軍が制せよ』と言いました。軍功爵賞は全て外で決められ、帰ってから上奏しました。これは虚言(偽り。嘘の言い伝え)ではありません。臣の大父(祖父)が言うには、李牧が趙将になって辺境に居た時、軍市の租(軍中に建てた市から得る税収)を全て自分の判断で使って士を労いました。賞賜は外で決定され、中覆(朝廷の批准)を必要としなかったのです。重任を委ねて成功を要求したので(委任而責成功)、李牧はその智能を尽くし、車千三百乗、彀騎(弓を得意とする騎兵)一万三千、百金の士(百金に値する良士)十万を選び、それを率いて北は単于を駆逐し、東胡を破り、澹林を滅ぼし、西は強秦を抑え、南は韓魏を支えることができたのです。当時の趙は霸に迫りました。しかし後に趙王遷が立ってから、郭開の讒言を用いてついに李牧を誅殺し、顔聚と交代させました。そのため兵が敗れて士が逃走し、秦によって禽滅(消滅)させられたのです。
今、臣が聞いたところでは、魏尚が雲中守となってから、軍の市租をことごとく使って士卒を労い、私養銭(自分の家を養うための官俸)を使って五日ごとに一頭の牛を殺し、自ら賓客、軍吏、舍人を労っていました。そのおかげで匈奴が遠く避けて雲中の塞に近づかなくなったのです。虜匈奴がかつて一度侵入したことがありましたが、魏尚は車騎を率いて攻撃し、多数を殺しました。しかし士卒は家人の子(庶人の家の子)で、田地の中から起きて従軍しているのです。どうして尺籍(軍令書)や伍符(軍士が五人ごとに姦詐がないことを保証しあう符信)が理解できるでしょう。彼等は終日力戦し、(敵兵を)斬首したり捕虜にして、幕府に功績を報告していますが、一言が相応しなかっただけで(戦功に関する報告が一言だけでも事実と一致しなかっただけで)、文吏が法によって捕縛し、褒賞を行えなくしています。そして吏(官吏)は法を奉じて必ず(刑罰を)実行しています。臣の愚見では、陛下は賞が軽すぎて、罰が重すぎます。雲中守魏尚は功績を報告した時、首虜(打ち取った首)に六級(六首)の差があっただけですが、陛下は彼を吏(官吏。獄吏)に下し、その爵位を削り、罰作に処しました(『資治通鑑』胡三省注によると、一年の刑を「罰作」といいます)。今話した理由から、陛下は廉頗や李牧を得たとしても用いることができないのです。」
文帝は諫言に喜び、即日、馮唐に符節を持たせて(持節)魏尚を釈放させました。魏尚は再び雲中守になります。
また、馮唐も車騎都尉に任命されました。
 
最後の部分は『史記 張釋之馮唐列伝』と『漢書張馮汲鄭伝』も「馮唐を車騎都尉に拝して中尉(京師を警護する官)と郡国の車士(車軍の士)を主管させた」と書いています。しかし『資治通鑑』胡三省注は「『漢書・百官公卿表』を見たところ、漢代には車騎都尉という官はないはずだ」としています。
 
[] 『史記孝文本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
春、文帝が詔を発し、諸祭祀を行う壇場(壇は土で築いた台。場は土を除いた平地)を拡大すること、珪幣(神に捧げる玉幣帛)を増やすことを命じてこう言いました「朕が犧牲珪幣を持って上帝の宗廟に仕えることができるようになってから今で十四年になる。とても長い日々を経過したが、不敏不明(不聡明)の身をもって久しく天下を撫臨(統治)してきたことを、朕は深く自愧している。よって諸祭祀の墠(壇)珪幣を広増するべきである。昔、先王は遠く施して報いを求めず、望祀(山川の祭祀)して福を祈らず(自分の福を求めず)、賢人を優先して親族を後に置き(「右賢左戚」。「右」は「上」、「左」は「下」です)、民を先にして自分を後にした。至明の極みである。しかし今は、祠官が釐(禧。福)を祝す時、全て福を朕一人の身に帰し、百姓のためには祈っていないと聞いている。朕はこれを甚だしく慚愧する。朕のように不徳な者が一人で福を享受して百姓と(福を)共にしなかったら、我が不徳を重ねることになる。よって祠官に致敬(神を敬って祭祀すること)を命じるが、(朕一人のために)祈ってはならない。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
この歳、河間王劉辟彊(文王)が死にました。
史記楚元王世家(巻五十)』によると、子の劉福が継ぎました。哀王といいます。
 
 
 
次回に続きます。