西漢時代59 文帝(二十二) 新垣平 前165~164年

今回は西漢文帝前十五年と前十六年です。
 
西漢文帝前十五年
丙子 前165
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
丞相張蒼は漢が水徳に当たるとしました。
これは五行思想によるもので、歴代王朝は五徳(木、火、土、金、水)によって象徴されると考えられてきました。
周は火徳の国といわれており、火を消すのは水なので秦は自分の王朝を水徳と位置付けました。しかし秦は短命かつ暴虐だったため、張蒼は「秦には五行に則る資格が無い」と考え、漢が火徳の周を継いだ水徳の王朝であると主張しました。
これに対して、魯人の公孫臣が「漢は土徳に当たる」と主張しました。また、土徳に応じて黄龍が現れると予言します。黄色が土徳の色だからです。
 
以下、『史記封禅書』から公孫臣と張蒼の主張です。
公孫臣が上書して言いました「かつて秦が水徳を得て、今、漢がそれを受け継ぎました。終始(五行終始)の伝承を推し進めるなら、漢は土徳に当たるはずです。土徳の応(証)である黄龍が現れるでしょう。正朔(暦)を改めて服の色を変え(易服色)、色は黄を尊ぶべきです。」
当時、丞相張蒼は律暦の学問を愛しており、秦ではなく漢こそが水徳による始めの王朝だと主張していました。河(黄河)が決壊して金堤を破壊したのは西漢文帝前十二年168年)水徳に符合しているからだと判断し、また、当時は年の始めが冬十月で、十月は陰気が外にあって陽気がまだ内に伏しているとされたため、外は黒、内は赤だと考えました。黒は水徳の色とされているので、これも漢が水徳であることを示しています。
張蒼は黄色を尊ぶことにも反対し、公孫臣の言を否定して退けました。
史記封禅書』は公孫臣の上書を三年前西漢文帝前十二年168年)の事としています。
 
史記孝文本紀』『漢書帝紀資治通鑑』に戻ります。
本年西漢文帝前十五年・前165年)春、黄龍が成紀に現れました。
史記集解』と『資治通鑑』胡三省注は成紀を天水郡の県としていますが、『漢書』顔師古注は隴西郡の県としています。『中国歴史地図集(第二冊)』では天水郡です。
また、『資治通鑑』胡三省注によると、成紀は庖犧が生まれた場所とされています。
 
文帝は再び公孫臣を召して博士に任命し、諸生と共に漢が土徳に当たることを論証させました。また、暦法や服色の改革に関しても着手させます。
この後、張蒼は自ら引き下がるようになりました。
 
文帝が詔を下して言いました「異物の神が成紀に現れたが、民に害を与えることはなく、逆に豊作だった(まだ春なので前年が豊作だったようです。あるいは、「異物の神が成紀に現れたが、民に害を与えることがなかったから、今年は豊作になるだろう」という意味かもしれません。原文「有異物之神見於成紀,毋害於民,歳以有年」)。よって、朕自ら上帝諸神を郊祀する。礼官は(儀式について)討議せよ。朕の労を心配して発言をはばかってはならない(毋諱以労朕)。」
有司(官員)、礼官がそろって言いました「古の天子は夏になったら自ら郊外で上帝を礼祀したので、(この儀式を)(郊祀。郊祭)というのです。」
 
夏四月(孟夏。三カ月ある夏の真ん中の月)、文帝が初めて雍を行幸し、五帝に対して答礼の郊祀を行ってから、天下に大赦しました。
資治通鑑』胡三省注によると、秦が白帝、赤帝、黄帝、青帝の畤(祭壇)を雍に造り、漢高帝も黒帝畤を造ったため、雍には五帝の畤がありました。
 
郊祀を終えた文帝は名山大川で廃止されていた祭祀を恢復し、有司(官員)に命じて歳時(季節ごと)の致礼(祭祀)を行わせました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
九月、文帝が詔を発して諸侯王、公卿、郡守に賢良の士と直言極諫ができる者を推挙させました。
文帝自ら質問して能力を確認し、進言を採用します。
その結果、太子家令鼂錯の回答が高第(優秀な成績)とされ、中大夫に抜擢されました。
 
晁錯は諸侯王の勢力を削減すべきであること、法令の中には改めるべき内容があること等に言及し、三十篇の上書をしました。
文帝は全ての意見を聴いたわけではありませんが、その才能を高く評価しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この歳、斉王劉則(文王)、河間王劉福(哀王)が死にました。どちらにも子がいなかったため、国が除かれました。
 
斉文王劉則は斉哀王劉襄の子で、斉悼恵王劉肥の孫に当たります。劉肥は高帝の子です。
河間哀王劉福は前年死んだ河間文王劉辟彊の子です。劉辟彊の父は趙幽王劉友で、その父は高帝です。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
趙人新垣平が望気(気を観測する術)によって文帝に謁見し、「長安の東北に神がいて気が五采(五彩)を成しています」と言いました。
そこで文帝は渭陽渭水の北)に五帝廟を築きました。
 
史記孝文本紀』はここで「新垣平が周鼎の出現を望み、玉英(優れた玉器)が現れることを予言した」と書いていますが、『資治通鑑』は翌年の事としているので、翌年に詳述します。
 
 
 
西漢文帝前十六年
丁丑 前164
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
夏四月、文帝が自ら渭陽の五帝廟で五帝を郊祀しました。
前年と同じく夏の答礼(祭祀)です。
史記孝文本紀』は「赤を尊んだ」としています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
文帝が新垣平を寵貴して上大夫に昇格させました。新垣平に与えた賞賜は千金に及びました。
但し、『資治通鑑』胡三省注は「周官には上大夫があったが、漢の官制では太中大夫、中大夫、諫大夫しかなく、爵十九級にも大夫、五大夫はあるが上大夫は見られない」と注釈しています。
 
文帝は博士や諸生に命じ、『六経』の内容を採取して『王制』を制定させ、巡狩(巡守。巡行)や封禅の事を議論させました。
資治通鑑』胡三省注によると、『礼記』の『王制篇』がこれに当たるようです。但し、『礼記王制』を見ると、巡守については書かれていますが、封禅に関する記述はありません。
 
文帝が長門の道北に五帝壇を築きました。
資治通鑑』胡三省注によると、長門は亭の名で、長安城東南にありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
淮南王劉喜を再び城陽王にしました。
劉喜は城陽劉章の子で、斉悼恵王劉肥の孫に当たります。西漢文帝前十一年(前169年)に淮南王に遷されました。
 
また、斉を六国に分けることにしました。斉は前年、文王劉則が死に、後継者がいなかったため廃されています。
丙寅(十七日)、斉悼恵王劉肥の子を六国に封じました。楊虚侯劉将閭が斉王に、安都侯劉志が済北王に、武成侯(『漢書高五王伝(巻三十八)』『資治通鑑』では「武成王」、『史記漢興以来諸侯王年表』『漢書諸侯王表』では「武城侯」)劉賢が菑川王に、白石侯劉雄渠が膠東王に、平昌侯劉卬が膠西王に、扐侯劉辟光が済南王になります。
 
更に淮南厲王劉長(文帝の弟)の子を封王しました。阜陵侯劉安が淮南王に、安陽侯劉勃が衡山王に、陽周侯劉賜が廬江王になります。
淮南王劉長にはもう一人の子東城侯劉良がいましたが、これ以前に死に、跡継ぎがいませんでした西漢文帝八年172年参照)
 
資治通鑑』胡三省注によると、済北王の都は盧、菑川王の都は劇、膠東王の都は即墨、膠西王の都は高苑、済南王の都は東平陵、淮南王の都は寿春、衡山王の都は六、廬江王の都は江南です。
 
尚、『漢書帝紀』は斉悼恵王の子と淮南厲王の子の封王を「五月」としていますが、『漢書諸侯王表』は四月丙寅としており、『資治通鑑』もそれに従っています。恐らく『漢書帝紀』の誤りです。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
秋九月、新垣平がある者に命じ、玉杯をもって宮闕の下で上書献上させました。
新垣平が文帝に言いました「闕下に宝玉の気が来ました。」
暫くして文帝が確認すると、闕下に玉杯を献上する者がおり、玉には「人主延寿」と刻まれていました。
 
新垣平がまた言いました「臣が観測したところ、日(太陽)が再び中天に現れます。」
暫くして傾いた太陽が逆行し、中天に戻りました(どのような自然現象を指すのかは分かりません)
 
文帝はこれらの瑞祥を信じて十七年(翌年)を元年に改元することにしました、
天下に大酺を許可します。
大酺というのは帝王の徳が天下に布かれたことを祝って開く大宴です。『資治通鑑』胡三省注によると、漢律では理由もなく三人以上集まって酒を飲んだら罰金四両を科すことになっていたため、普段は酒宴を開く機会がめったにありませんでした。
 
新垣平が言いました「かつて周の鼎が泗水に沈みました(東周顕王四十二年・前327)。最近、河黄河が決壊して泗水に通じたので、臣が東北を望んだところ、まさに汾陰河東郡に金宝の気がありました。これは周鼎が現れることを意味しているのではないでしょうか。兆が現れたのに迎え入れなければ(周鼎は)手に入りません。」
文帝は人を送って汾陰に廟を建てさせました。廟の南は黄河に臨んでいます。祭祀によって周鼎が現れることを願いました。
 
 
 
次回に続きます。