西漢時代61 文帝(二十四) 周亜夫 前161~158年
今回は西漢文帝後三年から六年です。
西漢文帝後三年
庚辰 前161年
春二月、文帝が代を行幸しました。
西漢文帝後四年
辛巳 前160年
夏四月丙寅晦、日食がありました。
五月、天下に大赦を行いました。
官奴婢を免じて庶人にしました。
文帝が雍に行幸しました。
西漢文帝後五年
壬午 前159年
春正月、文帝が隴西を行幸しました。
三月、雍を行幸しました。
秋七月、代を行幸しました。
西漢文帝後六年
癸未 前158年
文帝は中大夫・令免(令が姓、免が名。『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』では「令免」ですが、『史記・孝文本紀』では「令勉」です。『資治通鑑』胡三省注によると、令姓は楚の令尹・子文の後代です)を車騎将軍に任命して飛狐に駐屯させ、元楚国の相・蘇意を将軍に任命して句注に駐屯させ、将軍・張武を北地に駐屯させました。
『資治通鑑』胡三省注によると、徐厲は高帝の功臣で呂后四年(前184年)に祝茲侯に封じられました。尚、『漢書・文帝紀』『高恵高后文功臣表』と『資治通鑑』では「祝茲侯」ですが、『史記‧恵景間侯者年表』では「松茲侯」となっています。諡号は夷侯です。
文帝が自ら軍を慰労しました。霸上と棘門の軍に至った時は直接営内に入り、将軍以下の諸将が全て騎馬のまま送迎しました。
しかし文帝が細柳の軍に至った時は、軍士・軍吏が甲冑を身につけ、鋭利な武器を持ち、弓弩を引いて営を守っていました。
文帝がまず先駆の使者を送りましたが、営内に入れません。先駆が「天子がすぐに到着します!」と伝えても、軍門都尉はこう答えました「将軍が令を発してこう言いました。『軍中は将軍の令を聞け。天子の詔を聞く必要はない(軍中聞将軍令,不聞天子之詔)。』」
暫くして文帝が来ましたが、やはり中に入れません。
そこで文帝は使者に符節を持たせて将軍に「わしは営に入って労軍したい」という詔を伝えました。
周亜夫はやっと軍令を伝えて「壁門を開け」と命じました。
壁門の士が文帝に従う車騎に要求しました「将軍の約(規定)です。軍中では馳駆してはなりません(騎馬を駆けさせてはなりません)。」
文帝は轡(手綱)を挽いてゆっくり進みました。
文帝が営に入ると将軍・周亜夫が武器を持ったまま揖礼して言いました「介胄(甲冑)の士は拝礼できません。軍礼で謁見いたします。」
文帝は周亜夫の言動に心を動かされました。顔色を正して車前の横木に手を置き(改容式車)、人を送って謝意を示してから「皇帝が将軍を敬労する」と伝えました。
文帝が労軍の礼を終えて軍を去り、営門を出ました。群臣は皆驚いています。
文帝は久しく周亜夫を称賛しました。
一月余して漢兵が辺境に至りましたが、匈奴は既に塞から遠く離れていたため、漢兵も撤収しました。
文帝は周亜夫を中尉に任命しました。
夏四月、大旱と蝗害に襲われました。
文帝は恩恵を加えるため、諸侯に入貢しないように命じました。
また、山沢を開放して庶民の使用を許可し、服御(服飾器物)・狗馬を減らし、皇帝に仕える郎吏員を削減し、倉庾(倉庫)を開いて民を救済しました。
民が爵位を売って金銭を得ることも許可しました。
次回に続きます。