西漢時代66 景帝(四) 呉王挙兵 前154年(2)

今回は西漢景帝前三年の続きです。
 
[六(続き)] 廷臣(朝廷の大臣)が呉の封地削減について議論を始めました。
それを知った呉王劉濞は際限なく封地を削減されることを恐れ、ついに挙兵を決意しました。呉王は「他の諸侯には共に計を成すに足りる者がいない」と考えましたが、膠西王劉卬が勇猛で兵法を好み、諸侯に畏れ憚られていると聞いたため、中大夫応高を派遣して膠西王を説得させました。
資治通鑑』胡三省注によると、応氏は西周武王の後代です。『春秋左氏伝』に「邘、晋、応、韓は武王の穆(子孫)」とあります。
 
応高が膠西王に言いました「今、主上(陛下)は邪臣を任用し、讒賊(讒言中傷)を聴信して諸侯を侵削しており、誅罰は誠に重く、しかも日に日にひどくなっています。このような言葉があります『糠を舐めて米に至る(原文「穅及米」。『資治通鑑』胡三省注によると、恐らく犬の餌を比喩にしています。始めは糠のような粗末な物を餌にしていたのに、最後は米を食べるようになるという意味です)。』呉と膠西は名が知られた諸侯なので、一度見察(注視。調査)されたら安肆(安全自由)を得られなくなります。呉王の身には内疾(体内の病。外からは見えない病)があり、朝請ができないまま二十余年が経ったため、常に(朝廷から)疑われているのではないかと心配していますが、自らの潔白を示すことができず、脅肩累足(恐懼して慎重になった姿。「脅肩」は肩をそばだてること。「累足」は前足と後足を重ねて立つこと。足を前に踏み出せない様子)してなお赦しを得られないことを懼れています。私が聞いたところ、大王(膠西王)は爵の事で過失があったとのことですが、私が聞いている諸侯に対する削地封地削減)の処分は、罪がそこまで至っていません(些細な罪で削地されています)。恐らく削地だけでは終わらないでしょう。」
膠西王が言いました「確かにそのような事があった。子(汝)はどうするべきだと思うか(子将柰何)?」
応高が言いました「呉王は大王と同じ憂患があると思っています。時に順じて理に従い(因時循理)、体を棄てて天下のために患を除くことを願っていますが、(王の)意はどうでしょうか?」
膠西王が驚いて言いました「寡人(私)にどうしてそのような事ができるだろう。主上(陛下)は確かに急(苛酷)だが、死とは元々あるものだ(最後は私が死ねば済むことだ)。どうして仕えないということができるか(固有死耳,安得不事)!」
応高が言いました「御史大夫鼂錯が天子の周りで惑わして諸侯を侵奪させており、諸侯は皆、背叛の意をもっています。よって人事は既に極まっています。しかも彗星が現れて蝗蟲の害も起きました。これは万世に一時のことです。愁労(憂愁困苦)の時とは、聖人が立ち上がるものです。呉王は内(朝廷)に対しては鼂錯の誅殺を目標とし、外において大王の車の後に従って天下を駆け回るつもりです。そうすれば、向かった場所は投降し、目指した場所は陥落し、敢えて服さない者はいません。幸いにも大王が同意の一言を発するようなら、呉王は楚王を率いて函谷関を攻略し、滎陽と敖倉の粟(食糧)を守り、漢兵を阻止し、次舍(休息する舎室)を整え、大王をお待ちします。幸いにも大王が光臨するようなら、天下を兼併できるでしょう。両主(膠西王と呉王)(天下を)分割するのも素晴らしいことではありませんか(不亦可乎)。」
膠西王は「善」と答えました。
 
応高が帰国して呉王に報告しました。しかし呉王は膠西王が実行しないのではないかと心配し、自ら使者になって膠西国を訪ねました。直接、膠西王に会って約束します。
 
膠西王の群臣には王の謀反を聴いて諫める者もいました。彼等はこう言いました「諸侯の地は漢の十分の二にも及びません。叛逆を為したらは太后(膠西王の母)を憂いさせることになるので、良計ではありません。それに、今は一帝を奉じていても容易ではないのに、もし事が成功してから両主が分かれて争うようになったら、禍患がますます多くなります。」
膠西王は諫言を聴かず、斉、菑川、膠東、済南に使者を送って謀反を誘いました。四国の王が挙兵に同意します。
斉王劉将閭(または「劉将廬」)、菑川王劉賢、膠東王劉雄渠、済南王劉辟光とも斉悼恵王劉肥の子(膠西王劉卬の兄弟)で、文帝時代に封王されました。
 
以前、楚元王劉交(高帝の弟)は読書が好きで、魯の申公、穆生、白生と共に浮丘伯から『詩』を学びました。
資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代楚の子重と子辛が穆王の子だったため、楚人は「二穆」と称しました。ここから楚に穆姓が生まれました。白姓は秦に白乙丙や白圭がおり、楚にも白公がいました。浮丘伯は浮丘が姓です。
 
劉交が楚王になってから、申公、穆生、白生の三人は中大夫に任命されました。
穆生は酒を飲まなかったため、元王が酒宴を開く時はいつも穆生のために醴(甘酒)を準備していました。
元王が死んで子の夷王劉郢客が継ぎ、夷王が死んでその子劉戊が即位しました。楚王が代わっても穆生のために醴が準備されましたが、しだいに忘れられるようになりました。
穆生は楚王の下を去る決意をしてこう言いました「逝くべきだろう。醴酒が準備されないのは王の意が疎かになったからだ。去らなかったら楚人が市で私に鉗(刑具。枷)をつけることになるだろう。」
穆生は病と称して寝込んでしまいました。
申公と白生が起きるように強く勧めて言いました「あなたは先王の徳を想わないのですか(忘れたのですか)?今、王が一旦において小礼を失いましたが、どうしてそこまでする必要があるのですか!」
穆生が言いました「『易』はこう言っています。『幾(予兆。契機)の神妙なことを知っているか?幾は動の兆しであり、事前に吉凶を示しているのだ。君子は幾を見たら行動し、終日待って時を無駄にするようなことはしない(知幾其神乎。幾者動之微,吉凶之先見者也。君子見幾而作,不俟終日)。』先王が我々三人を礼遇したのは道が存在していたからだ。今、それを疎かにしているのは道を忘れてしまったからだ。道を忘れた人とどうして久しく共に居られるだろう。区区とした礼(小さな礼)が原因で去るのではない。」
穆生は病を理由に楚国を去りました。申公と白生は留まります。
 
やがて、楚王劉戊の淫暴が目立つようになりました。太傅韋孟が詩を作って諷諫(婉曲に諫めること)しても聴かないため、韋孟も去って鄒に住みました。
資治通鑑』胡三省注によると、韋姓は豕韋(顓頊の後代が封じられた国)の子孫です。
 
劉戊は罪を犯して封地を削られたため、呉と通じて挙兵を計りました。
申公と白生が劉戊を諫言しましたが、劉戊は二人を逮捕して胥靡(奴隷にして労役させる刑)に処し、赭衣(赤い服)を着せて市で舂を打たせました。
 
休侯劉富が人を送って楚王を諫めました。
漢書王子侯表上』によると、劉富は楚元王の子で夷王の弟に当たります。景帝元年四月乙巳に封侯されました。本年、楚王が謀反したため休侯を廃されますが、後に改めて紅侯に封じられます。諡号は懿侯です。
 
楚王は諫言した劉富にこう言いました「季父(叔父)が私に協力しないのなら、私が挙兵したらまず季父を攻め取ろう。」
休侯は恐れて母の太夫太夫人は侯の母)と共に京師に奔りました。
 
やがて朝廷は呉の会稽と豫章郡を削減するという決定を下しました。
朝廷の使者が文書を持って呉に至ると、呉王は率先して兵を挙げ、漢吏(朝廷が任命した官吏)で二千石以下の者を誅殺しました。
膠西、膠東、菑川、済南、楚、趙も後に続きます。
楚の相張尚と太傅趙夷吾が楚王劉戊を諫めましたが、楚王は張尚と趙夷吾を殺しました。
趙でも相建徳(姓は不明)と内史王悍が趙王劉遂を諫めましたが、趙王は建徳と王悍を焼き殺しました。
 
 
 
次回に続きます。