西漢時代69 景帝(七) 呉楚敗退 前154年(5)

今回も西漢景帝前三年の続きです。
 
[六(続き)] 二月、周亜夫が精兵を出して追撃し、呉楚連合軍を大破しました。
呉王劉濞は夜の間に軍を棄て、壮士数千人と共に逃走します。
楚王劉戊は自殺しました。
 
呉王が挙兵したばかりの時、呉臣田禄伯が大将軍になりました。
田禄伯が呉王に言いました「兵を集結させて西に向かっても、他の奇道がなければ、功を立てるのは困難です。そこで、臣に五万人をください。別動隊として江(長江と淮水)を上り、淮南、長沙を収め、武関に入ってから大王と合流すれば、これも一奇(一路の奇兵)となります。」
これを聞いた呉王の太子劉駒が諫めて言いました「王は反を名としています(造反を名義にしています)。このような兵は人に貸すべきではありません。人もまた王に反したらどうするつもりですか(我々も造反を名義にしているのですから、他の者も造反を名義にして裏切る可能性があります)。そもそも、(彼が)兵を自由に使って別れたら、他の利害が多くなり、いたずらに自分を損なうだけです(田禄伯が兵権を握って漢に降ったら、田禄伯にとっては利となり、呉にとっては害となるので、呉は自分を損なうだけです)。」
呉王は田禄伯の計を退けました。
 
呉の少将(若い将領)桓将軍が呉王に言いました「呉は歩兵が多く、歩兵は険阻な地形で利があります。漢は車騎が多く、車騎は平地で利があります。大王は(他国の)城を通っても攻略せずに直進し続け、速く西に向かって洛陽の武庫を占拠し、敖倉の粟(食糧)を食べ、山河の険で(漢兵を)阻んで諸侯に号令するべきです。こうすればたとえ入関しなくても既に天下を平定できます。大王がゆっくり進んで城邑攻略のために留まっていたら、漢軍の車騎が到って梁楚の郊に駆け入るので、事は失敗に終わるでしょう。」
呉王は諸老将に意見を求めました。しかし老将は「彼は年少です。椎鋒(敵の先鋒を撃つこと)を命じることはできますが、どうして大慮(遠大な謀略)を理解できるでしょう」と言って反対しました。
呉王は桓将軍の計も用いませんでした。
 
呉王は将兵を指揮する全権を掌握していました。呉軍が淮水を渡る前に諸賓客が将、校尉、候、司馬に任命されましたが、周丘だけは用いられませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、出征する時には大将と裨将(副将)が軍を指揮し、それぞれの将の下に部曲(部隊。「部」の下に「曲」があります)が置かれました。部には校尉がおり、曲には軍候、軍司馬がおり、または假候、假司馬がいました。假は「代理」の意味です。校尉、候、司馬にはそれぞれ副官がいました。大将指揮下の兵以外に部隊が置かれた場合は、別部司馬が指揮しました。
 
周丘は下邳の人ですが、呉に亡命していました。酤酒(酒売り)をしており、素行が悪かったため、呉王は周丘に対して冷淡で、官職を与えませんでした。
すると周丘が呉王に謁見してこう言いました「臣は無能なため行間(軍中)で官職を得られませんでした(原文「不得待罪行間」。「待罪」は直訳すると「罪を待つ」「裁きを待つ」ですが、「重要な官職を与えられる」という意味を持ちます)。臣は将の地位を求めるつもりはありません。王に漢の符節を一つ請いたいだけです。必ず(恩に)報いてみせます。」
呉王は周丘に符節を与えました。
 
符節を持った周丘は夜の間に下邳に走りました。
当時、下邳は呉の謀反を既に聞いていたため、城民が皆、城を守っています。
周丘は伝舍(駅舎)に到着すると県令を招いて部屋に入らせ、従者(恐らく県令の従者)に命じて罪によって県令を処刑させました(罪の内容はわかりません)
その後、周丘の兄弟が仲良くしている豪吏(権勢を持つ官吏)を招いてこう告げました「既に呉が反し、間もなく兵が到着する。下邳を屠す(皆殺しにする)のは食頃(食事をする程度の時間)に過ぎない。今、先に帰順すれば、家室は必ず保たれ、能力がある者は封侯されるだろう。」
退出した官吏が互いに伝達しあったため、下邳の吏民が全て帰順しました。周丘は一夜で三万人を得ます。
 
周丘は人を送って呉王に報告してから、兵を率いて北の城邑を攻略しました。陽城に至った時、兵は十余万になっていました。陽城中尉が率いる軍を破ります(「陽城」というのは『資治通鑑』の記述です。『史記呉王濞列伝(巻百六)』と『漢書荊燕呉伝(巻三十五)』では「城陽」です)
しかし呉王が敗走したと聞いたため、呉王と共に功を成すことはできないと判断しました。兵を率いて下邳に帰ろうとしましたが、背に疽(腫瘍)ができて死んでしまいました。
 
[七] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
壬午晦、日食がありました。
 
[八] 『資治通鑑』からです。
呉王劉濞が軍を棄てて逃走したため、呉軍は崩壊しました。多くの兵が太尉周亜夫や梁軍に投降します。
呉王は淮水を渡って丹徒(会稽郡)に走り、東越に頼りました。兵は一万余人もおり、再び逃亡した士卒も集めています。
しかし漢が人を送って利で東越を誘ったため、東越は呉王を騙して労軍を口実に外に出させ、部下に命じて呉王を鏦(戟)で殺しました。
東越は呉王の頭を梱包してから傳車を駆けさせて朝廷に報告しました。
呉の太子劉駒は閩越に逃げました。
 
こうして呉楚は挙兵して三カ月(足掛け)で全て滅びました。
漢書帝紀』は漢軍の戦功を「諸将が七国を破って十余万級を斬首した」と書いています。
 
諸将は太尉周亜夫の計謀が正しかったと評価しましたが、梁王劉武だけは援軍を出さなかった周亜夫を憎むようになりました。
 
[九] 『資治通鑑』からです。
膠西王等が斉都臨菑を包囲しています。
資治通鑑』は臨菑を攻めているのを「三王」としています。
史記呉王濞列伝』と『漢書荊燕呉伝』も膠西、膠東、菑川の「三王」としており、『漢書高五王伝(巻三十八)』の注では三王を膠西、菑川、済南としています。
しかし実際に臨菑を包囲しているのは膠西(劉卬)、膠東(劉雄渠)、菑川(劉賢)、済南(劉辟光)の「四王」のはずです。
 
斉王劉将閭が路中大夫(路が姓、中大夫は官名です。『史記斉悼恵王世家』の注によると名は「卬」です。下部コメント欄を参照ください。また、『資治通鑑』胡三省注によると、路氏は帝摯(帝嚳の子)の子孫です)を派遣して景帝に報告しました。
景帝は路中大夫を斉に還し、斉王に城を堅守させるために「漢兵は既に呉楚を破った」と伝えさせました。
 
路中大夫が臨菑に戻りましたが、三国(四国)の兵が城を数重に包囲していたため、中に入れませんでした。
三国の将は路中大夫と盟を結んで「汝は逆のことを言って『漢が既に破れた。斉はすぐ三国に降れ。そうしなければ屠(皆殺し)に遭うことになる』と伝えよ」と要求しました。
路中大夫は同意したふりをして城下に至ると、遠くから斉王を眺めてこう言いました「漢は既に兵百万を発し、太尉亜夫に呉楚を撃破させました。兵を率いて斉救援に向かっています。斉は必ず堅守し、投降しないでください!」
三国の将は路中大夫を殺しました。
 
斉は包囲がきつくなった時、秘かに三国(四国)と連絡を取りました。しかし三国との盟約が定まる前に、路中大夫が漢の朝廷から戻りました。斉の大臣も斉王に堅守するように勧めます。
そこに漢将欒布と平陽侯等の軍が到着しました。
平陽侯は高帝六年(201)十二月甲申に曹参(懿侯)が封じられました。『史記高祖功臣侯者年表』と『漢書高恵高后文功臣表』によると、曹参の後、靖侯曹窋を経て簡侯曹奇の代になっていました。
但し、『漢書高五王伝(巻三十八)』の顔師古注は呉楚七国の乱の時の平陽侯を「曹襄」と注釈しています。
 
欒布等の軍が三国の兵を撃破し、臨菑の包囲が解かれました。
しかし欒布等は斉王も三国の謀反に関係していたと知り、兵を移して斉を撃とうとしました。
斉孝王(劉将閭。または「劉将廬」)は恐れて毒薬を飲んで自殺しました。
 
 
 
次回に続きます。