西漢時代73 景帝(十一) 郅都 前150~149年

今回は西漢景帝前七年と中元年です。
 
西漢景帝前七年
辛卯 前150
 
[] 『史記孝景本紀』資治通鑑』からです。
冬十一月己酉(中華書局『白話資治通鑑』は「己酉」を恐らく誤りとしています)、太子劉栄を廃して臨江王にしました。
太子太傅竇嬰(竇太后の親族)が力争しましたが、聞き入れられなかったため、病と称して辞職しました。
栗姫は憤慨して死んでしまいました。
 
漢書帝紀』は春正月に「皇太子栄を廃して臨江王にした」と書いていますが、『漢書諸侯王表』は「冬十一月己酉」としているので、『景帝紀』の誤りです。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
庚寅晦、日食がありました。
中華書局の『白話資治通鑑』は「庚寅晦」を恐らく誤りとしています。
漢書帝紀』と資治通鑑』は「十一月」に書いていますが、『史記孝景本紀』では「十二月晦に日食があった」と書かれています。
 
[] 『史記孝景本紀』からです。
春、陽陵(景帝陵)建設に従事した徒隸(労役する囚人)を赦免しました。
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
二月、丞相陶青を罷免しました。
乙巳(十六日)、太尉條侯周亜夫を丞相に任命し、太尉の官を廃しました。
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
夏四月乙巳(十七日)、膠東王太后王氏(劉徹の母)を皇后に立てました。
 
丁巳(二十九日)、膠東王劉徹(王皇后の子)を皇太子に立てました。
劉徹は後に西漢帝国の全盛時代を築く武帝になります。
 
漢書帝紀』によると、皇太子を立ててから、民の中で父の跡を継ぐ立場にいる者に爵一級を下賜しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、太僕劉舍を御史大夫に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、劉舍は高帝時代の功臣劉襄(桃安侯)の子です。劉襄は項氏でしたが、劉姓を下賜されました(西楚覇王五年漢王五年202年参照)
 
済南太守郅都が中尉に任命されました。
済南は王国でしたが、劉辟光が反したため、国が廃されて郡になっていました。
資治通鑑』胡三省注によると、郅は商(殷)代の侯国で、子孫が国名を氏にしました。
 
以前、郅都が中郎将だった頃、敢えて直諫することで知られていました。
景帝に従って上林苑に入った時、賈姫が厠に行きました。
資治通鑑』胡三省注によると、賈姫は賈夫人ともいい、趙王劉彭祖と中山王劉勝を生みました。
 
賈姫が厠に入ってから、野彘(野豚。猪)が突然現れて厠を襲いました。
景帝は郅都に目で合図を送って助けに行くように促しました。しかし郅都は動きません。
景帝が自ら武器を持って賈姫を助けに行こうとすると、郅都が景帝の前に伏して言いました「一姫(夫人一人)を失ってもまた一姫が入って来ます(亡一姫,復一姫進)。天下に不足しているのは賈姫のような者だというのですか。陛下が自身を軽んじたら(命を粗末にしたら)、宗廟や太后はどうするのですか。」
景帝は助けに行くのを止めました。野彘も去って行きます。
この話を聞いた太后は、郅都を褒めて金百斤を下賜し、郅都を重んじるようになりました。
 
郅都の為人は勇悍公廉で、私書(個人的に送られた手紙)を開くことはなく、問遺(四季の挨拶等で贈られてきた礼物。賄賂)も受け取ることなく、請謁(個人的な請願、要求)を聞くこともありませんでした。
中尉になってからは厳酷を提唱し、法を行う時も貴戚(貴人外戚を避けなかったため、列侯や宗室でも郅都に会った時は側目(横目)を使い(直視できなかったという意味です)、「蒼鷹(猛禽の一種)」と呼びました。
 
 
 
西漢景帝中元年
壬辰 前149
 
この年、改元が行われました。本年を「中元年」、または「中元元年」といいます。景帝は七年後にもう一度改元を行います。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏四月乙巳(二十三日)、天下に大赦しました。
 
漢書帝紀によると、大赦の後、民に爵一級を下賜しました。
史記孝景本紀』は民に爵一級を下賜して更に禁錮を除いたと書いています。
 
[] 『史記孝景本紀』と『漢書帝紀』からです。
御史大夫周苛の孫周平を繩侯に、元御史大夫周昌(周苛の従弟)の子周左車を安陽侯に封じました。
 
以下、『史記高祖功臣侯者年表』を元に補足します。
周苛は楚漢が対立していた時代に項羽に殺されました(西楚覇王三年漢王三年204年)
高帝九年(198)四月戊寅、子の周成が高京侯(『漢書高恵高后文功臣表』では「高景侯」)に封じられましたが、文帝時代に謀反の罪で殺され、国が廃されました。今回、改めて周平(『史記』と『漢書』の表では「周成の孫周応」)が封侯されました。
周昌は高帝六年(201)正月丙午に汾陰侯に封じられました。諡号は悼侯です。その後、哀侯周開方を経由して周意の代(文帝時代)に罪を犯して廃されました。今回、改めて周左車(『史記』と『漢書』の表では「周昌の孫」)が封侯されました。
 
[] 『史記孝景本紀』資治通鑑』からです。
地震がありました。
衡山国の原都(地名)では雹が降り、大きいものは一尺八寸もありました。
 
 
 
次回に続きます。