西漢時代73 景帝(十一) 郅都 前150~149年
今回は西漢景帝前七年と中元年です。
西漢景帝前七年
辛卯 前150年
栗姫は憤慨して死んでしまいました。
庚寅晦、日食がありました。
中華書局の『白話資治通鑑』は「庚寅晦」を恐らく誤りとしています。
春、陽陵(景帝陵)建設に従事した徒隸(労役する囚人)を赦免しました。
二月、丞相・陶青を罷免しました。
乙巳(十六日)、太尉・條侯・周亜夫を丞相に任命し、太尉の官を廃しました。
丁巳(二十九日)、膠東王・劉徹(王皇后の子)を皇太子に立てました。
済南太守・郅都が中尉に任命されました。
済南は王国でしたが、劉辟光が反したため、国が廃されて郡になっていました。
以前、郅都が中郎将だった頃、敢えて直諫することで知られていました。
景帝に従って上林苑に入った時、賈姫が厠に行きました。
賈姫が厠に入ってから、野彘(野豚。猪)が突然現れて厠を襲いました。
景帝は郅都に目で合図を送って助けに行くように促しました。しかし郅都は動きません。
景帝が自ら武器を持って賈姫を助けに行こうとすると、郅都が景帝の前に伏して言いました「一姫(夫人一人)を失ってもまた一姫が入って来ます(亡一姫,復一姫進)。天下に不足しているのは賈姫のような者だというのですか。陛下が自身を軽んじたら(命を粗末にしたら)、宗廟や太后はどうするのですか。」
景帝は助けに行くのを止めました。野彘も去って行きます。
この話を聞いた太后は、郅都を褒めて金百斤を下賜し、郅都を重んじるようになりました。
郅都の為人は勇悍公廉で、私書(個人的に送られた手紙)を開くことはなく、問遺(四季の挨拶等で贈られてきた礼物。賄賂)も受け取ることなく、請謁(個人的な請願、要求)を聞くこともありませんでした。
中尉になってからは厳酷を提唱し、法を行う時も貴戚(貴人・外戚)を避けなかったため、列侯や宗室でも郅都に会った時は側目(横目)を使い(直視できなかったという意味です)、「蒼鷹(猛禽の一種)」と呼びました。
西漢景帝中元年
壬辰 前149年
高帝九年(前198年)四月戊寅、子の周成が高京侯(『漢書・高恵高后文功臣表』では「高景侯」)に封じられましたが、文帝時代に謀反の罪で殺され、国が廃されました。今回、改めて周平(『史記』と『漢書』の表では「周成の孫・周応」)が封侯されました。
周昌は高帝六年(前201年)正月丙午に汾陰侯に封じられました。諡号は悼侯です。その後、哀侯・周開方を経由して周意の代(文帝時代)に罪を犯して廃されました。今回、改めて周左車(『史記』と『漢書』の表では「周昌の孫」)が封侯されました。
地震がありました。
衡山国の原都(地名)では雹が降り、大きいものは一尺八寸もありました。
次回に続きます。