西漢時代74 景帝(十二) 臨江王事件 前148年(1)

今回は西漢景帝中二年です。二回に分けます。
 
西漢景帝中二年
癸巳 前148
 
[] 『漢書帝紀』からです。
春二月、景帝が令を下しました。
諸侯王が死んだ時と列侯が始めて封じられて国に赴く時は、大鴻臚(官名。元は典客)が謚諡号、誄(追悼文)、策(策書。拝爵免官等を命じる書)を上奏し(大鴻臚が諸侯王や封侯される者の業績を元にして諡、誄、策に関する上奏を行い)、列侯が死んだ時と諸侯の太傅が始めて官を任命された時は、大行(官名。大鴻臚に属します。元は行人といい、典客に属しました)が諡、誄、策を上奏することになりました。
また、諸侯王が死んだら朝廷は光禄大夫を派遣して弔問します。光禄大夫が襚(死者の衣服)(飲食)(車馬)を贈って喪事を監督し、嗣子(後継者)を立てました。
列侯が死んだ時は太中大夫を派遣して弔問し、太中大夫が喪事を監督して嗣子を立てました。
王侯が死んだら、その国は民を動員して喪車を牽き、墓穴を掘って棺を埋めますが、墳墓を造るために動員する人員は三百人を超えてはならないことにしました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
匈奴が燕に侵入しました。
 
史記孝景本紀』によると、匈奴の侵攻が原因で和親が行われなくなりました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
磔刑を棄市に改め、磔を行はないことにしました。
磔は分屍(八つ裂き)の刑、棄市は市中で斬首して死体を市に晒す刑です。
 
[] 『史記孝景本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
三月、臨江王劉栄(景帝の子。元皇太子)が臨江王国で宮殿を立てる時に太廟(祖先の廟。または太祖(高祖)と太宗の廟。または太宗廟)の壖垣(外壁)を破壊しました。
景帝は臨江王を召して中尉府に送り、審問を受けさせます。
臨江王が景帝に謝罪するために刀筆を求めましたが、中尉郅都は官吏が刀筆を渡すことを禁止しました。
魏其侯竇嬰(劉栄が太子だった時の太子太傅。西漢景帝前七年150年参照)が人を送り、隙を見て臨江王に刀筆を渡しました。
臨江王は謝罪の文書を書いてから自殺します。
これを知った竇太后が激怒し、後に危法(厳格な法)を用いて郅都を殺してしまいました。
 
劉栄の諡号は、『史記漢興以来諸侯王年表』では「閔王」、『漢書諸侯王表』では「愍王」となっています。
 
郅都の死に関しては、『史記酷吏列伝』に記述があります。
太后が怒って郅都に危法を用いました。郅都は法による中傷を受けて罷免され、家(河東楊県)に帰ります。景帝は使者に符節を与えて郅都を訪ねさせ、雁門太守に任命しました。郅都には直接任地に赴いて実際の状況に応じて自由に政務を行うように命じます。
匈奴は以前から郅都の節を聞いていたため、郅都が辺境に来ると兵を率いて去り、郅都が死ぬまで雁門に近づきませんでした。
匈奴は郅都に似せた偶人(人形)を作り、騎兵に命じて馬を駆けながら矢を射させました。しかし郅都を畏れ憚っていたため、矢が中ることはありませんでした。これほど匈奴は郅都を憂い恐れています。
しかし竇太后が漢法を用いて郅都を中傷しました。
景帝は「郅都は忠臣です」と言って赦そうとしましたが、竇太后が「臨江王だけが忠臣ではなかったと言うのですか」と言って死刑を要求したため、ついに郅都を処刑してしまいました。
 
尚、西漢景帝後二年(前142年)に「郅将軍が匈奴を撃った」という記述がありますが、この「郅将軍」は郅都とは別の人物のようです。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月、西北に孛星(彗星の一種)が現れました。
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
景帝が皇子劉越を広川王に、劉寄を膠東王に立てました。
 
元々、劉彭祖が広川王でしたが、趙王に遷されたため西漢景帝前五年152年)、劉越が広川王になりました。
膠東王は劉徹でしたが、劉徹が皇太子になったため西漢景帝前七年150年)、劉寄が膠東王になりました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
秋七月、郡守を太守に、郡尉を都尉に改名しました。
 
[] 『史記孝景本紀』と『漢書帝紀』からです。
秋九月、楚趙の元傅、相、内史で殉職した者四人の子を列侯にしました。
 
これは呉楚七国の乱の前に国王を諫めて殺された四人の子を指します。
殺されたのは楚の相張尚、太傅趙夷吾と趙の相建徳(姓不明)、内史王悍です。
以下、『史記恵景間侯者年表』からです。
張尚の子張当居は山陽侯になりました。武帝時代に罪を犯して廃されるので諡号はありません。
趙夷吾の子趙周は商陵侯になりました。武帝時代に罪を犯して廃されるので諡号はありません。
建徳の子(姓不明)は遽侯(『漢書景武昭宣元成功臣表』では「據侯」)になりました。景帝時代に罪を犯して廃されるので諡号はありません。
王悍(『年表』では「王慎」)の子王康(『史記孝景本紀索隠』では「王弃」。『漢書景武昭宣元成功臣表』では「王棄之」)は新市侯になりました。諡号は不明です。殤侯(『漢書景武昭宣元成功臣表』では「煬侯」)王始昌が継ぎましたが、武帝時代に人に殺されて国が途絶えました。
 
封侯の日を『漢書帝紀』は「秋九月」としており、『史記孝景本紀』は明記していません。しかし『史記』と『漢書』の表はどちらも「四月乙巳」としています(ここでは本紀に従いました)
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
甲戌晦、日食がありました。
 
 
 
次回に続きます。

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