西漢時代76 景帝(十四) 周亜夫失脚 前147年

今回は西漢景帝中三年から中五年です。
 
西漢景帝中三年
甲午 前147
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
冬十一月、諸侯の御史大夫の官を廃しました。
 
漢書』顔師古注は「諸侯の権勢を抑えるため」としています。
景帝中五年(前145年)には諸侯の丞相を相に改名します。中央と諸侯の国が同格ではないことを示すための措置です。
 
[] 『漢書帝紀は本年春正月に「皇太后(皇太后が崩じた)」と書いています。
景帝の太后(母)は竇氏で、武帝の時代になってから死ぬので、この記述は恐らく誤りです。
漢書』の臣瓉注では、「皇太后」は「廃后(薄氏)」の誤りで、景帝の元皇后薄氏景帝前六年151年参照)がこの年に死んだと解釈していますが、顔師古は「廃后の死は記録されず、『崩』ともいわない」として臣瓉の説を否定しています。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
三月丁巳、景帝が皇子劉乗を清河王に立てました。
資治通鑑』胡三省注によると、高帝が斉と趙の間に清河郡を置き、今回、王国になりました。
 
資治通鑑』は封王の日を「三月丁巳」としており、『史記漢興以来諸侯王年表』と同じです。しかし中華書局『白話資治通鑑』は「丁巳」を恐らく誤りとしています。『漢書諸侯王表』では「三月丁酉」となっています。
 
「皇子劉乗」というのは『資治通鑑』の記述で、『史記孝景本紀』では「皇子劉方乗」と書かれています。
 
[] 『史記孝景本紀』からです。
春、二人の匈奴王が徒衆を率いて漢に降ったため、列侯に封じられました。
 
史記恵景間侯者年表』と『漢書景武昭宣元成功臣表』を見ると本年(景帝中三年)十一月と十二月に七人が封侯されています(後述します)
史記正義』は「本紀が言う二人は最初に降った匈奴の二王を指す」と解説していますが、七人の内の誰に当たるかはわかりません。
 
[] 『史記孝景本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
夏四月、地震がありました。
また、旱害にも襲われました。
 
朝廷が酤酒(酒の売買)を禁止しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋九月、蝗害がありました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
孛星(異星。彗星の一種)が西北に現れました。
史記孝景本紀』は「三月、彗星が西北に現れた」としています。
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
戊戌晦、日食がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、景帝が栗太子(劉栄。栗姫の子)を廃した時西漢景帝前七年150年)、周亜夫が強く反対しました。結局、太子は廃され、周亜夫は景帝から疎まれるようになります。
梁王劉武(孝王)が朝見した時は、梁王がいつも竇太后に周亜夫の欠点を述べました。呉楚七国の乱で周亜夫が梁を援けなかったためです。
 
ある日、竇太后が景帝に言いました「皇后の兄王信を侯に封じるべきです。」
しかし景帝は辞退してこう言いました「南皮と章武は先帝の時代に封侯されず、臣(景帝)が即位してから封侯しました。王信はまだ封を得るべきではありません。」
南皮侯は竇彭祖といい、竇太后の弟竇長君の子です。章武侯は竇広国といい、竇太后の弟です。どちらも文帝時代(竇氏が皇后だった時代)には封侯されず景帝が即位してから(竇氏が皇太后になってから)封侯されました(『漢書外戚伝上(巻九十七上)』)
 
太后が言いました「人生とはそれぞれその時に応じて行動するものです。竇長君は存命の時には封侯されず、死んでからその子彭祖が封侯されました。私はとても残念に思っています(吾甚恨之)。帝は早く王信を封侯するべきです。」
景帝は「丞相(周亜夫)と議させてください」と言って周亜夫に相談しました。
周亜夫はこう言いました「高皇帝は『劉氏でなければ王位を得てはならず、功績がなければ侯位を得てはならない(非劉氏不得王,非有功不得侯)』と約定しました。今、王信は確かに皇后の兄ですが、功がないので、もし封侯したら約に背くことになります。」
景帝は何も言わず中止しました(王信は二年後に封侯されます)
 
後に匈奴徐盧等六人(実際は七人)が漢に降りました。
景帝は後の者にも投降を奨励するため、六人を封侯しようとしました。しかし丞相周亜夫がこう言いました「彼等は(自分の)主に背いて陛下に降りました。陛下が封侯したら、どうして節を守らない人臣を譴責することができますか。」
景帝は「丞相の議は採用できない」と言って徐盧等を列侯に封じました。
 
漢書景武昭宣元成功臣表』によると、本年(景帝中三年)十一月庚子に于軍が安陵侯に封じられ、十二月丁丑に更に六人が封侯されています。六人は容城擕侯徐盧、易侯、桓侯賜、遒侯陸彊、范陽靖侯范代、翕侯邯鄲です。
史記恵景間侯者年表』では、「安陵侯于軍」が「安陵侯子軍」に、「容城擕侯徐盧」が「容成侯唯徐盧」に、「易侯」が「易侯僕黥」に、「遒侯陸彊」が「遒侯隆彊」に、「范陽靖侯范代」が「范陽瑞侯代」になっています。
 
これらの出来事がきっかけで周亜夫は病と称して辞職を願いました。
九月戊戌(三十日)、景帝が周亜夫を罷免し、御史大夫桃侯劉舍を丞相に任命しました。
 
[] 『史記孝景本紀』からです。
この年、東都門外に軍を駐留させました。
『集解』『索隠』によると、東都門は長安城東面にある北から数えて一つ目の門で、宣平門といいます。民間で東都門と呼ばれました。



次回に続きます。