西漢時代78 景帝(十六) 李広 前144年

今回は西漢景帝中六年です。
 
西漢景帝中六年
丁酉 前144
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬十月(歳首)、梁王劉武が来朝しました。
梁王が上疏(上書)して京師に留まろうとしましたが、景帝は許可しませんでした。
史記梁孝王世家』によると、諸侯王が朝見した時は天子に四回会いました。まず到着したら入宮して謁見します。これを「小見」といいます。「小見」というのは禁門(宮門)内で宴を開くことで、普通の士人は参加できません。
正月朔旦(元旦)になったら正月の祝賀を行います。これを「法見」といいます。三日後に天子が酒宴を開いて金銭財物を下賜し、その二日後に再び「小見」して別れを告げます。
諸侯王が長安に留まる期間は二十日を越えませんでした。
 
梁王は景帝の命に従って帰国しましたが、失意のため楽しめませんでした。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
景帝が雍を行幸して五畤の郊祭を行いました。
漢書帝紀』は冬十月に書いていますが、『史記孝景本紀』と『資治通鑑』は春二月乙卯の事としています(下述)。どちらかが誤りです。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
十二月(『資治通鑑』は「十一月」としていますが、恐らく誤りです)、廷尉、将作等の官名を改めました。
史記孝景本紀』に詳しく書かれています。
廷尉は大理に、将作少府は将作大匠に、主爵中尉は都尉に、長信詹事は長信少府に、将行は大長秋に、大行は行人に、奉常は太常に、典客は大行(『資治通鑑』胡三省注では「大行令」)に、治粟内史は大農になりました。
また、大内(『史記集解』によると、大内は京師の府藏を主管する官です)の秩を二千石とし、左右内官を置いて大内に属させました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
偽の黄金で貨幣を鋳造した者を棄市に処す法律(鋳銭偽黄金棄市律)を定めました。
 
[] 『史記孝景本紀』と資治通鑑』からです。
春二月乙卯(初一日)、景帝が雍に行幸して五畤(五帝)の郊祭を行いました(冬十月参照)
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
三月、春最後の月なのに雪が降りました。
史記孝景本紀』は「三月に雹が降った」としています。
 
[] 『史記孝景本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
夏四月、梁王劉武(孝王)が死にました。
それを聞いた竇太后は悲しみを極めて哀哭し、食事も採らず、「やはり帝が我が子を殺した」と言いました。
景帝は悲しみ恐れましたがどうしようもありません。
そこで長公主(景帝の姉劉嫖)と相談し、梁を五国に分けて孝王の息子五人を全て封王することにしました。
劉買が梁王、劉明が済川王、劉彭離が済東王、劉定が山陽王、劉不識が済陰王になります。
また、娘五人に湯沐邑を与えました。
史記孝景本紀』は「梁を五つに分けて四侯を封じた」としていますが、四王の誤りです。四王は済川王劉明、済東王劉彭離、山陽王劉定、済陰王劉不識を指し、梁王劉武を継いだ劉買は含まれていません。
 
景帝がこれらを竇太后に報告すると、竇太后は喜んで景帝のために一餐を加えました(景帝のために食事をしました。『史記梁孝王世家』と『資治通鑑』の原文は「為帝加一餐」。『漢書文三王伝(巻四十七)』では「為帝壹餐」)
 
孝王は死ぬ前に巨万の財を有していました。死んだ時にも藏府で余っていた黄金は四十余万斤に上り、その他の財物も黄金に匹敵するほどの価値がありました
 
[] 『漢書帝紀』からです。
五月、景帝が詔を発しました「吏(官吏)とは民の師(見本)なので、車駕衣服が相応であるべきだ。六百石以上の吏は全て長吏(高官)だが、度(節度)を失った者は吏服を着ずに閭里を出入りし、民と違いがない。よって長吏二千石の車は両側を朱色に塗り(車朱両轓)、千石から六百石は左側を朱色に塗る(朱左轓)ことにする。車騎従者がその官の衣服と相応ではなかったり、下吏が閭巷を出入りする時に吏礼(官吏としての礼)を失っていたら、二千石の官吏がその官属(主管部門)に報告せよ。三輔(近畿)で法令に従わない者を検挙したら、全て丞相御史に報告して指示を請え。」
これまでの官吏は多くが軍功を立てており、車服は軽くて便利な物を重宝していました。その結果、高官でも身分に相応しくない車服を使っている者が多くなったため、今回の禁礼を設けました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
景帝は笞法を減らして刑を軽くしましたが(景帝前元年156年)、それでも笞刑を受けたために命を落とす者がいました。
そこで更に刑を軽くしました。
笞三百を二百に、笞二百を百にします。
また、箠令(笞刑に関する法令。箠は棍棒や笞を指します)を定めました。箠は竹で作り、長さは五尺、本(根元。手で持つ部分)の太さは一寸、末(先端)は薄くして半寸とし、全体を滑らかにして節をとります。笞打つ場所は臋(臀部。『資治通鑑』胡三省注によると、以前は背を打っていました)に統一し、獄吏は一人の罪人を打ち終ってから交替することになりました(頻繁に獄吏が代わっていたら鞭打つ力が衰えないからです)
この後、笞刑を受けた者が命を落とすことはなくなりました。しかし死刑という重い刑はあっても生刑(死刑以外の刑)が極端に軽くなったため、民が容易に罪を犯すようになりました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
六月、匈奴が雁門郡に入って武泉県に至り、上郡に入って苑馬を奪いました。
漢の吏卒二千人が戦死します。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の北と西の辺境に太僕牧師が管轄する三十六カ所の苑がありました。太僕は車馬を管理する官で、九卿の一つです。牧師は牧地を管理する官で、『漢書百官公卿表上』では太僕の下に「牧師菀令」という官があります。
苑は鳥獣を養う場所で、辺境の苑では郎が苑監になり、官奴婢三万人が三十万頭の馬を飼っていました。
漢書食貨志上』によると、景帝が始めて苑を造って馬を養い、広く使えるようにしました。
 
史記孝景本紀』は八月に「匈奴が上郡に入った」としています。
 
以下、『資治通鑑』からです。
当時の上郡太守は隴西の人李広です。
李広が百騎を従えて外出した時、匈奴の数千騎に遭遇しました。李広を見つけた匈奴は誘騎(敵を誘い出すための少数の騎兵部隊)だと思い、驚いて山の上に陣を構えました。
李広に従う百騎は恐れて逃げ帰ろうとしましたが、李広はこう言いました「我々は大軍から数十里も離れている。今、この百騎だけで走っても、匈奴が追射したら我々はすぐ全滅する。逆に我々が留まれば、匈奴は必ず我々を大軍の誘(おとり)だと信じ、敢えて攻撃してこないはずだ。」
そこで李広は諸騎に「前進(前)!」と命じ、匈奴の陣から二里離れた場所で止まって「皆、馬から下りて鞍を解け!」と命じました。
騎兵が問いました「虜(敵)は多いうえに近くにいます。急なことがあったらどうするのですか?」
李広が言いました「彼虜(彼等)は我々が走る(退却する)と思っている。だから皆に鞍を解くように命じて走らないことを示し、敵の考え(漢兵がおとりだという考え)を固めさせるのだ(逃げるつもりがないふりをして敵におとりだと信じさせるのだ)。」
李広が言った通り、胡騎匈奴騎兵)は漢軍を疑って敢えて出撃しませんでした。
 
匈奴の陣から白馬の将が現れて匈奴の兵を監督しました。
すると李広は馬に乗って十余騎と共に疾駆し、白馬の将を射殺して引き返しました。
李広は漢軍の騎兵部隊に戻ると再び鞍を解き、兵達に馬を自由にさせてから横になって休むように命じます。
既に夕暮れの頃になっていたため、胡兵匈奴兵)は怪しんでついに攻撃しませんでした。
夜半、胡兵は近くに漢軍が隠れていて夜襲を行うと疑い、撤兵しました。
翌早朝、李広も漢の大軍がいる営地に引き上げました。
 
[十一] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
秋七月辛亥晦、日食がありました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
中尉郅都が死んでから西漢景帝中二年148年)長安周辺に住む多くの宗室が凶暴になり、法を犯しました。
そこで景帝は済南都尉を勤める南陽の人甯成を召して中尉に任命しました。
甯成は郅都を真似して政務を行いましたが、廉潔という点では郅都に及びませんでした。
それでも宗室や豪傑は甯成を恐れました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
城陽劉喜(共王)が死にました。
劉喜は城陽劉章(景王)の子で、斉悼恵王劉肥の孫に当たります。劉肥は高帝の庶長子です。
西漢文帝前三年(前177年)、劉章が死んで劉喜が城陽王を継ぎました。文帝前十一年(前169年)に淮陽王に遷されましたが、文帝前十六年(前164年)城陽王に戻されました。
史記斉悼恵王世家』によると、劉喜の子劉延が継ぎました。これを頃王といいます。
 
史記孝景本紀』は「四月、梁孝王(劉武)城陽共王(劉喜)、汝南王が死んだ」と書いています。
梁孝王が死んだのは四月ですが、城陽共王が死んだ月ははっきりしません。汝南王は景帝前三年(前154年)に劉非が江都王に遷されてから途絶えていたはずです。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代79 景帝(十七) 周亜夫の死 前143年