西漢時代81 景帝(十九) 文景の治 前141年

今回は西漢景帝後三年です。景帝時代が終わります。
 
西漢景帝後三年
庚子 前141
 
[] 天変が続きます。『史記孝景本紀』資治通鑑』からです。
冬十月、日食と月食があり、太陽と月が五日連続で赤くなりました(日月皆食,赤五日)
 
十二月晦、雷が落ちました。
(太陽)が紫になりました。
五星(水星金星火星木星土星が逆行して太微(朝廷を象徴します)に留まりました。
月が天廷の中を貫きました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、景帝が詔を発しました「農とは天下の本である。黄金、珠、玉は飢えても食べることができず、寒くても着ることができないから、幣(貨幣)として用いるのであり、終始を知ることがない(いつから使い始めていつ無くなるのかは分からない。恐らく「穀物のように無くなることはない」という意味。原文「不識其終始」)。最近、不登(不作)の年があるが、これは末(工商業)に従事する者が多く、農民が寡少だからであろう。よって郡国には農桑の奨励に務めることを命じる。種樹(植栽)が増えれば衣食物を得られる。吏が民を動員し、資財で雇って黄金、珠玉を採掘させたら、盗(盗賊)となして贓(貪汚の罪)に坐すことにする。二千石の官員でこれを知っていた者も同罪とする。」
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
甲寅(十七日)、皇太子劉徹が冠礼を行いました。
漢書帝紀』によると、民で父の後を継ぐ立場にいる者に爵一級を下賜しました。
 
甲子(二十七日)、景帝が未央宮で死にました。
史記集解』漢書』臣瓉注、『資治通鑑』胡三省注、『帝王世紀』とも、享年を四十八歳としています。
 
史記孝文本紀』によると、景帝の遺詔によって諸侯王から民に至るまで、父の後を継ぐ立場にいる者に爵一級を下賜しました(『漢書帝紀』は皇太子が立った時の事としており、景帝はまだ生きています)。また天下の各戸に百銭を与えました。
更に宮人後宮の妃妾)を家に帰らせて賦徭を免除しました。
 
漢書帝紀は少し異なります。
遺詔によって諸侯王列侯に馬二駟(八頭)を下賜し、二千石の官吏には黄金二斤、吏民には一戸あたり百銭を与えました。また、宮人を家に帰らせて終身賦役を命じました。
 
十六歳の皇太子劉徹が皇帝の位に即きました。孝武皇帝といいます。
竇皇太后を尊んで太皇太后にし、皇后王氏武帝の母)を皇太后にしました。
 
二月癸酉(初六日)、孝景皇帝を陽陵に埋葬しました。
漢書・景帝紀』の注によると、陽陵は長安から東北四十五里の場所にありました。
 
三月、皇太后の同母弟(父は異なります)田蚡を武安侯に、田勝を周陽侯に封じました。
 
漢書帝紀』で班固(『漢書』の作者)が景帝をこう称えています。
孔子は『この民は三代(夏周)が直道(正道)を行った原因である(これらの民によって三代は正道を行った。今の民も三代の民も変わらない。今の民も三代のように教化が行き届いていれば正道を行える。原文「斯民,三代之所以直道而行也)」。『論語衛霊公』)』と言った。全くその通りである(信哉)。周と秦の弊害は、法の網が細かく政令が厳しかったが(罔密文峻)、それでも姦軌(犯罪)に勝てなかった(法令を厳しくしたのに犯罪はなくならなかった)
漢が興ったら煩苛(煩瑣で苛酷な法令)を取り除き、民に休息を与えた。孝文皇帝の時代になると、更に恭倹を加え、孝景皇帝はそれまでの大業を遵守した。そのおかげで五六十年の間に風俗が移り変わり(移風易俗)、黎民(民衆)が純朴忠厚になったのである。周は成(成王と康王)を称え、漢は文(文帝と景帝)を称えている。素晴らしいことだ。」
 
文帝と景帝の時代は、民を休めて国を安定させることが優先されました。
宮中では倹約を奨励し、国内に対しては農業を重視して農民の租税を軽減し、国外に対して和親によって大きな戦争を回避しました。
西漢前期に平穏な時代をもたらした文帝景帝二代の約四十年間は「文景の治」として称えられています。
 
資治通鑑』が漢初から景帝時代までの状況をまとめています。『史記平準書』『漢書食貨志上』が元になっています。以下、『資治通鑑』の内容を抜粋簡訳します。
「漢が建国した時は、秦の弊害を引き継いだため財政が窮乏していた。天子でも車を牽く四頭の馬の色をそろえることができず、将相の中には牛車に乗る者もおり、庶民には蓄えがなかった。
天下が平定されてから、高祖は賈人(商人)の贅沢を禁止して重租(重税)をかけた。
孝恵高后の時代は、天下がやっと安定したため、商賈(商人)に対する法律を緩和させた。しかし市井の子孫(商人の子孫)はやはり仕官できなかった。朝廷は官吏の俸禄を計算し、政府の予算を考慮して民から賦税を徴収した。山川、園池や市井の租税による収入は、天子から封君の湯沐邑にいたるまで、全てそれぞれが私奉養(自分の家族を養う費用)としており、天子(国家)の経費を受け取る必要はなかった(各地の収入によってその地を領有する者の経費をまかなっていたので、封邑の主が国家の税収を受領する必要がなかった)。そのおかげで中都の官(京師の諸官府)に輸送される山東の粟(食糧)は一年で数十万石に過ぎなかった。
孝文孝景の時代になると、清浄恭倹に努めて天下を安養させたので、七十余年の間、国家に大事が起きることなく、水旱の災害に遭わなければ民は自給して不足がなかった。
都鄙(都市)の廩庾(倉庫)は全て満たされ、府庫では貨財が余り、京師の金銭は巨万に達したため、銭を結ぶ紐が腐って計算できなくなるほどだった。また、太倉も古くなった粟(食糧)でいっぱいになったため、粟が屋外に積まれて腐るほどだった。庶民が住む街巷にも馬がおり、阡陌の間(田野のあぜ道)では馬が群を為した。誰もが雄馬に乗ったため、雌馬に乗っている者は排斥されて集会にも参加できなかった(民も豊かになって雄馬しか乗らなくなったという意味です)
閭閻(里門)を守る者も粱肉(良米と肉。美食)を食べ、官吏になった者は子や孫が成長するまで(長い間)安定して職に就き、官名を姓氏にする者もいた(『漢書食貨志』の注によると、倉氏や庾氏等です)。そのため人人は自愛して刑法を重視し、優先して義を行って恥ずべきことを避けるようになった。
しかし、当時は法が寛大で民が豊かだったため、財を利用して驕慢になり、ある者は土地を兼併し、豪党の徒(豪族)は郷曲(郷里)で権勢に頼って横行するようになった。
宗室で封地がある者や、公大夫以下の官員が互いに奢侈を争い、室廬(屋敷)や輿服(車服)が身分不相応になってしかも際限がなかった。
物が盛んになったら衰えるのが変化の規律である。
この後、孝武武帝は内で奢侈を極め、外で夷狄を攻撃するようになり、その結果、天下が騒然して財力が尽きてしまったのである。」
 
 
 
次回から西漢武帝の時代です。