西漢時代84 武帝(三) 甯成 前140年(2)
夏四月己巳、武帝が詔を発しました「古が立てた教えによると、郷里では歯(年齢)、朝廷では爵を尊重し、世を助けて民を導くのに(扶世導民)、徳より優れたものはない(莫善於徳)。だから郷里では耆艾(耆は六十歳。艾は五十歳)を優先し、高年の者を奉養するのが古の道である。今、天下の孝子順孫(孝順な子や孫)は心を尽くして自分の親につかえたいと願っているが、外は公事が逼迫し、内は資財が乏しいため、孝心に闕(欠。不足)が生じている(孝心を実現できていない)。朕はこれを甚だ哀れに思う。民で年が九十以上の者には既に受鬻法(穀物を支給する制度)があるが、(今後は更に)子または孫の(原文「子若孫」。子がいたら子を対象とし、子がいなかったら孫を対象にするという意味です)賦役を免じ、(子や孫が)自ら妻妾を率いて供養の事を完遂させるように命じる。」
五月、武帝が詔を発しました「河海は千里を潤すので、祠官に山川の祭祀を修めさせて歳事と為し、曲に礼を加えることを命じる。」
「歳事と為す(為歳事)」というのは山川の祭祀を一年の行事にする、定期的に祭祀を行うという意味です。
呉楚七国の乱に関わった者の妻子で、官奴婢に身を落としていた者を釈放しました。
夏六月、丞相・衛綰を罷免しました。
丙寅(初七日)、魏其侯・竇嬰を丞相に、武安侯・田蚡を太尉に任命しました。
二人は代の趙綰を推挙して御史大夫にし、蘭陵の王臧を推挙して郎中令にしました。
趙綰は明堂を建てて諸侯の朝見を受ける場とするように進言しました。
趙綰が自分の師である申公を推挙しました。
この時、八十余歳だった申公はこう言いました「政治を行う者は多言を必要とせず、力行(尽力して行動すること)が如何であるかを顧みるものです。」
当時、武帝は文詞を好んでいたため、申公の回答に対して言葉がありませんでした。
この後、武帝は申公等に明堂、巡狩、改暦、服色等の事について検討させました。
秋七月、武帝が詔を発しました「衛士(宮廷の衛兵)は転置送迎して二万人になる(原文「衛士転置送迎二万人」。「転置」は「異動・配置」の意味。『漢書』の注釈によると、「衛士は新旧を交代させながら常に二万人が置かれている」という意味です)。よって一万人を省くことにする。また、苑馬を中止して貧民に下賜する。」
苑馬を中止する(罷苑馬)というのは皇帝が馬を養っている苑を開放するという意味です。これまでは民が苑内で放牧したり薪を採ることが禁止されていました。
この年、内史・甯成が髠鉗の罪(髠は髪を剃る刑。鉗は首枷等の刑具をつける刑)に処されました。
当時の九卿は、罪を裁かれたら死ぬのが当然で、他の刑を与えられることは稀でした。しかし甯成には刑が執行されたため、甯成は再び用いられることはないと考え、刑具を解いて脱出しました。伝(符。関門の通行証)を偽造して関を通過し、家に帰ります。
甯成はこう言いました「仕官して二千石に至らず、賈(商売)して千万に至らなかったら、どうして人と並ぶことができるか(安可比人乎)。」
そこで借金をして千余頃の陂田(山田)を買い、貧民を雇い、数千家を使役しました。
数年後に大赦が行われた時には、家財が数千万を数える任俠になっていました。官吏の長短を把握し、外出時には数十騎が従います。
甯成は民を自由に使い、その威重は郡守に匹敵しました。
次回に続きます。