西漢時代85 武帝(四) 衛子夫 前139年

今回は西漢武帝建元二年です。
 
西漢武帝建元二年
壬寅 前139
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬十月、淮南王劉安が来朝しました。
劉安は淮南王劉長の子で、劉長は文帝の弟です。劉安は武帝の父の世代に当たり、能力もあったため、武帝に尊重されていました。
いつも宴見(皇帝が暇な時に招くこと)して話し始めると日が暮れるまで談論が終わりません。
 
劉安と武安侯田蚡は以前から仲が良かったため、劉安が入朝するために長安に来ると、田蚡は壩上まで迎えに行きました。
田蚡が言いました「上(陛下)はまだ太子がいません。王(劉安)は高皇帝の直接の孫にあたり、仁義を行っていることを天下で知らない者はいません。宮車が一日晏駕したら(宮車が一日動かなくなったら。皇帝が崩御したら)、王でなくて誰が立てるでしょう。」
喜んだ劉安は田蚡に金銭財物の厚礼を贈りました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
太皇竇太后(文帝の皇后。景帝の母。武帝の祖母)は黄老の言黄老思想。道学)を好み、儒術儒学を聞いても喜びませんでした。しかし武帝や大臣達は儒学を諸学の上に置こうとしています。
そこで御史大夫・趙綰が武帝に進言し、東宮への上奏を止めるように勧めました。
東宮は長楽宮を指し、太后が住んでいます。東朝ともいいます。皇帝は太后に国家の事を報告していました。
 
趙綰の進言を知った竇太后は激怒して「彼はまた新垣平になろうとしているのですか!」と言いました。
新垣平は詐術と騙言によって西漢文帝に信任されましたが、文帝後元年(前163年)に誅殺されました。
太后は趙綰等が道学を退けて儒学を重んじることで武帝に信任されているため、新垣平と同類とみなしました。
そこで秘かに趙綰と郎中令・王臧による姦利の事(不正によって利益を貪ること)を探り出し、武帝を譴責しました。
武帝は明堂建設を中止し、趙綰等の進言によって始めた改革も全て廃止しました。
趙綰と王臧は吏(官吏。獄吏)に下されて自殺します。
二人を推挙した丞相竇嬰と太尉田蚡は罷免され、申公も病を理由に罷免されて帰りました。
 
以前、景帝が太子太傅石奮と四人の子にそれぞれ二千石の官秩を与えました。一門(父子五人)を集めると一万石になるため、石奮は「万石君」と号されます。
資治通鑑』胡三省注によると、石姓は春秋時代衛の大夫石碏の後代です。
 
万石君は文学(学問)がありませんでしたが、並ぶ者がないほど恭謹でした。
子や孫が小吏になったとしても、家に帰って会いに来たら、万石君は必ず朝服を着て接見し、名を直接呼びませんでした(直接相手の名を呼ぶのは失礼とされていました)
子や孫に過失があっても譴責せず、正室から離れて便室(側室。正堂の横の部屋)に坐り、案(食事用の机)に向かっても食事をしませんでした。諸子が互いに譴責し合い、長老が(過失のある子や孫に代わって)肉袒謝罪して改心したことを示してから、万石君はやっと受け入れました。
子や孫で勝冠の者(冠礼を終えた者。成人)が側にいたら、たとえ燕居(朝廷から帰って楽にしている時)でも必ず冠を被りました。
執喪(葬事)では深く哀惜して悲痛の気持ちを表しました。
子や孫は万石君の教えに従い、孝謹によって郡国で名が知られるようになります。
 
趙綰と王臧が文学(学問の才能)によって罪を得ると、竇太后は「儒者とは文が多いが質(根本。本質)は少ない。今、万石君の家は、言葉は多くないが体を使って実践している(不言而躬行)」と考えました。
そこで長子石建を郎中令に、少子石慶を内史に任命しました。
 
石建は皇帝の傍におり、諫言すべきことがあったらいつも人払いをしてから遠慮なく厳しい発言をしました。しかし朝廷で百官と共に武帝を謁見する時は、話ができないかのように寡言でした。そのため武帝は石建と親しく接しました。
石慶はかつて太僕になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、『漢書百官公卿表』には石慶が太僕になったことが記載されていないので、摂職(代理)だったようです。
武帝のために車を御した時、武帝が何頭の馬が車を牽いているか問いました。すると石慶は策(笞)で馬を一頭ずつ数えてから手を挙げて「六頭の馬です」と答えました。
石慶は諸子の中で最も簡易(礼や作法にこだわらないこと)でしたが、それでもこのように慎重で生真面目でした。
 
竇嬰と田蚡は罷免され、侯(列侯)の身分のまま家に住むことになりました(出仕する必要がなくなりました)
田蚡は官職から離れましたが、王太后武帝の母)の弟だったため武帝に寵信され、進言した事がしばしば採用されました。
士吏で勢利(権勢利益)を追い求める者は竇嬰から離れて田蚡に帰心します。田蚡は日に日に驕慢横柄になりました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月丙戌朔、日食がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月乙未(初四日)、太常柏至侯許昌が丞相になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、許昌は高帝の功臣許盎の孫です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、堂邑侯陳午が武帝の姑(父の姉妹)にあたる館陶公主劉嫖を娶りました。
資治通鑑』胡三省注によると、陳午は高帝の功臣陳嬰の孫です。
 
武帝が太子に立てられた時は館陶公主が力を貸し、自分の娘(陳氏)を太子妃にしました(景帝前七年150年)
武帝が即位してから太子妃陳氏は皇后になりました。
竇太主(館陶公主劉嫖。竇太后の娘なので竇太主といいます。太主は皇帝の姉妹の称号です)武帝を皇太子に立てた功に頼って見返りを求め、際限がありませんでした。武帝はこれを憂いるようになります。
陳皇后は驕慢で嫉妬深く、寵愛を独占していましたが、子ができませんでした。医者に前後して銭九千万を与えて子を求めましたが、それでも妊娠しないため、武帝の皇后に対する寵愛はしだいに衰えていきました。
 
太后王氏武帝の母)武帝に言いました「汝は位に即いたばかりなので、大臣がまだ服していません。それなのにまず明堂の事を興したため、太皇太后が怒っています。今また長主(長公主)に逆らったら必ず罪が重くなります。婦人の性とは悦びやすいものです。深く慎重であるべきです。」
この後、武帝は長公主と皇后に対してわずかながらも恩礼を加えるようになりました。
 
武帝が霸上で祓(祓除。お払いの儀式)を行いました。
帰りに姉平陽公主の家を訪ね、謳者(歌女)衛子夫を気に入りました。
衛子夫の母は平陽公主の家に仕える僮(婢妾)でした。衛媼といいます。「媼」は婦人、老女という意味で、本名は伝わっていません(衛子夫の父の名も分かりません。父も衛氏だったとは思えないので、母の氏を名乗ったようです)
 
平陽公主は景帝の娘で、『漢書衛青霍去病伝(巻五十五)』によると平陽侯曹寿に嫁ぎました。曹寿は高帝時代の功臣曹参の子孫です。『資治通鑑』胡三省注も当時の平陽侯を曹寿としています。
しかし『史記高祖功臣侯者年表』と『漢書高恵高后文功臣表』を見ると、当時の平陽侯は曹時(夷侯)です。『史記曹相国世家』でも曹時が平陽公主を娶ったとしています(『漢書蕭何曹参伝(巻三十九)』は曹時に関する記述を省略しています)
曹寿と曹時のどちらかに間違いがあるのか、二つの名があったのか、「寿」と「時」が名と字の関係なのか、詳細はわかりません。
 
衛子夫について『史記外戚世家』から紹介します。
衛子夫は微賎な出身です。その家は衛氏といったようです(上述)。衛子夫は平陽侯の邑で生まれ、平陽主(公主)の謳者(歌女)になりました。
武帝が即位してから数年経っても子ができなかったため(実際はまだ二年目です。正しくは、太子の時代に陳氏を娶ってから数年です)、平陽主は弟・武帝のために良家から子女十余人を求め、美しく着飾らせて家に置きました。
武帝が霸上で祓を行い、還る途中で平陽主の家に寄りました。平陽主は家に置いた美人を武帝に見せます。しかし武帝が気に入った者はいませんでした。
酒を飲み始めて謳者が部屋に入って来ました。武帝は謳者を眺め見て衛子夫だけを気に入ります。
この日、武帝が立ち上がって更衣しました。衛子夫が武帝に従って衣服を管理し、軒(小部屋)で幸を得ます。
席に戻った武帝はとても喜び、平陽主に金千斤を下賜しました。
 
資治通鑑』に戻ります。
平陽公主は衛子夫を入宮させました。武帝の衛子夫に対する恩寵が日に日に盛んになったため、それを聞いた陳皇后は憤慨し、怒りで死にそうになることもありました。
陳皇后の態度を知った武帝もますます憤怒します。
 
衛子夫には同母弟がいました。衛青といいます。その父は鄭季といい、平陽県の官吏として平陽侯の家に仕えていました。『資治通鑑』胡三省注によると、県が平陽侯の家に派遣していたようです。小間使いのような立場だったと思われます(『資治通鑑』の原文は「給事侯家」です)
鄭季は衛媼と私通して子を生みました。これが青で、母の姓である衛氏を名乗りました。
衛青は生長して平陽侯家の騎奴(騎馬に随行する奴隷)になりました。
大長公主(館陶公主劉嫖)は衛子夫が寵愛されていることに不満だったため、衛青を捕えて殺そうとしました。
しかし衛青の友である騎郎(騎馬に乗って皇帝に従う郎中)公孫敖が壮士と一緒に衛青を奪い返します。
それを聞いた武帝は衛青を召して建章監侍中にしました。
建章監というのは建章宮の監督という意味で、宮殿警備の監督をしたのだと思います。但し、建章宮の建造は太初元年(前104年)に記述されています。『資治通鑑』胡三省注は、建章宮は以前から存在しており、太初元年による建章宮建設を「旧宮殿を拡大した」と解釈しています。衛青は拡大前の建章宮を警備したようです。
 
武帝が衛青に与えた賞賜は数日で千金に及びました。
暫くして衛子夫は夫人に、衛青は太中大夫になりました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月戊申、ある夜、日(太陽)のような星が現れました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
始めて茂陵邑が置かれました。
茂陵は武帝の墓陵です。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代86 武帝(五) 荘助 前138年(1)