西漢時代86 武帝(五) 荘助 前138年(1)
癸卯 前138年
そのため、大臣達は諸侯王を抑制することに務め、諸侯王の過失や罪悪をしばしば弾劾しました。非常に些細な事でも弾劾の対象となり、吹毛求疵(毛を吹き分けて頭皮にある小さな傷を探すこと。転じて些細な欠点を探すという意味)という様相を呈しました。諸侯王の臣を笞打って屈服させ、主の罪を自供させたこともあります。
このような状況を悲怨しない諸侯王はいませんでした。
冬十月、代王・劉登、長沙王・劉発、中山王・劉勝、済川王・劉明が来朝しました。
代王・劉登は劉参(孝王)の子で文帝の孫です。長沙王・劉発と中山王・劉勝は景帝の子です。済川王・劉明は梁孝王・劉武の子で文帝の孫です。
武帝が酒宴を開いた時、劉勝が楽声を聞いて泣き始めました。
武帝がその理由を問うと劉勝はこう答えました「悲しんでいる者は累欷(むせび泣く声)を上げてはならず、憂慮している者は嘆息するべきではありません(悲しんでいる人がむせび泣く声を上げたらますます悲しくなり、憂慮している人が嘆息したらますます憂慮することになるからです。または「悲しんでいる者はむせび泣く声を聞いてはならず、憂慮している者は嘆息の声を聞いてはならない」という意味かもしれません。原文「悲者不可為累欷,思者不可為嘆息」)。今、臣は心結(心中に解決できない問題やわだかまりがあること)する日が久しくなり、いつも幼眇の声(小さな音楽)を聞いただけでいつの間にか涙が流れて顔中を濡らしています(原文「涕泣之横集也」。元の意味は「縦横に涙が流れる」「涙が縦横に流れて交わる」です)。
臣は幸にも肺附(または「肺腑」。親族。腹心)という地位を得ており、東藩(東方の藩臣)になりました。親属の関係でいえば、(陛下の)兄を称しています。これに対して、今の群臣には葭莩の親(葭莩は葦の茎の薄膜。疎遠な親戚関係の喩えです)も鴻毛の重(鴻毛は鴻の羽毛で軽くて薄いことの喩えです)もありません(群臣とは親戚の関係もなく、重任を与えているわけでもありません)。それなのに群臣は党議(集まって議論すること)し、朋友間で助け合い、宗室同士を排斥させて骨肉の親情を氷解させています。臣は秘かにこれを悲痛しています。」
劉勝は官吏が諸侯王をどのように侵害しているか、全て詳しく報告しました。
大飢饉が襲いました。
便門橋を造りました。
秋七月、西北に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
呉楚七国が破れた時、呉王の子・劉駒は閩越(閩粤)に逃走しました。劉駒は父・劉濞を殺した東甌を怨んでおり、しばしば閩越に東甌攻撃を勧めました。
閩越は劉駒の勧めに従って東甌を包囲攻撃しました。
東甌は使者を送って漢に救援を求めます。
武帝が田蚡に意見を求めると、田蚡はこう言いました「越人が互いに攻撃し合うのは元々常にあることです。それにしばしば反覆しているので(裏切っているので)、秦の時代から(越を)棄てて臣属させませんでした。中国を煩わせて救いに行く必要はありません。」
荘助が反対して言いました「憂いるべきは力が足りなくて援けられず、徳を及ぼせないことだけです。これらが可能なのに、なぜ棄てる必要があるのですか。そもそも秦は咸陽を挙げて棄てました(京師も併せて天下を全て棄てました)。越だけではありません。今、小国が窮困して急を告げて来たのに天子が救わなかったら、彼等はどこに訴えればいいのでしょう。また、どうして万国を子(臣子)とすることができますか。」
武帝が言いました「太尉(田蚡は前年に太尉を罷免されています。ここで太尉と呼んでいることに対して、『資治通鑑』胡三省注は「武帝がかつての官名で呼んだか、記述の誤り」と解説しています)は計るに足りない(相談するに足りない)。私は即位したばかりなので、虎符を出して郡国から兵を徴発したくない(皇帝の命によって大規模な戦争を起こしたくない)。」
会稽守は法を楯に兵を出そうとしませんでした。漢の法では虎符の証明がなければ兵を動かせないからです。
ついに兵が動員され、海路から東甌を援けることになりました。
しかし漢軍が到着する前に閩越が兵を退いたため、漢軍も撤兵しました。
東甌が国を挙げて漢の内地に移ることを希望し、漢朝廷はこれに同意しました。東甌の全ての衆が長江と淮水の間に移住しました。
九月丙子晦、日食がありました。
武帝はその中から俊異の者を選んで寵用しました。
最初に抜擢されたのは荘助で、その後にも呉人・朱買臣、趙人・吾丘寿王、蜀人・司馬相如、平原の人・東方朔、呉人・枚皋、済南の人・終軍等を得ました。
東方朔は東方が氏で、伏羲の子孫といわれています。伏羲が東方を主宰したので、子孫が東方氏を名乗りました。
枚姓は周の官に銜枚氏(銜枚氏が官名です。司寇に属しました)があり、その子孫が官名を姓氏にしました。戦国時代に賢人・枚被がいました。
終姓は顓頊の子孫・陸終の後代です。
彼等はそろって武帝の左右に侍っていました。武帝が彼等に大臣と辨論させると、中外(中朝と外朝。中朝は内朝ともいい、皇帝の近臣を指します。外朝は大臣諸官です)の臣が義理(仁義・道理)の文(文辞)を使って応酬し、しばしば大臣が屈服しました。
但し、司馬相如は辞賦の才能だけが認められて寵幸を受けており、東方朔と牧皋は論点に根拠がなく詼諧(洒落。冗談)を好んだため、武帝は俳優(芸人)として養いました。しばしば賞賜を与えましたが、最後まで国家の大事を任せたことはありません。
次回に続きます。