西漢時代86 武帝(五) 荘助 前138年(1)

今回は西漢武帝建元三年です。二回に分けます。
 
西漢武帝建元三年
癸卯 前138
 
[] 『資治通鑑』からです。
当時、大臣の議論において多くが鼂錯の冤罪を訴えていました。鼂錯は諸侯王の勢力削減を主張して呉楚七国の乱を招き、処刑されました西漢景帝前三年154年)
そのため、大臣達は諸侯王を抑制することに務め、諸侯王の過失や罪悪をしばしば弾劾しました。非常に些細な事でも弾劾の対象となり、吹毛求疵(毛を吹き分けて頭皮にある小さな傷を探すこと。転じて些細な欠点を探すという意味)という様相を呈しました。諸侯王の臣を笞打って屈服させ、主の罪を自供させたこともあります。
このような状況を悲怨しない諸侯王はいませんでした。
 
冬十月、代王劉登、長沙王劉発、中山王劉勝、済川王劉明が来朝しました。
代王劉登は劉参(孝王)の子で文帝の孫です。長沙王劉発と中山王劉勝は景帝の子です。済川王劉明は梁孝王劉武の子で文帝の孫です。
 
武帝が酒宴を開いた時、劉勝が楽声を聞いて泣き始めました。
武帝がその理由を問うと劉勝はこう答えました「悲しんでいる者は累欷(むせび泣く声)を上げてはならず、憂慮している者は嘆息するべきではありません(悲しんでいる人がむせび泣く声を上げたらますます悲しくなり、憂慮している人が嘆息したらますます憂慮することになるからです。または「悲しんでいる者はむせび泣く声を聞いてはならず、憂慮している者は嘆息の声を聞いてはならない」という意味かもしれません。原文「悲者不可為累欷,思者不可為嘆息」)。今、臣は心結(心中に解決できない問題やわだかまりがあること)する日が久しくなり、いつも幼眇の声(小さな音楽)を聞いただけでいつの間にか涙が流れて顔中を濡らしています(原文「涕泣之横集也」。元の意味は「縦横に涙が流れる」「涙が縦横に流れて交わる」です)
臣は幸にも肺附(または「肺腑」。親族。腹心)という地位を得ており、東藩(東方の藩臣)になりました。親属の関係でいえば、(陛下の)兄を称しています。これに対して、今の群臣には葭莩の親(葭莩は葦の茎の薄膜。疎遠な親戚関係の喩えです)も鴻毛の重(鴻毛は鴻の羽毛で軽くて薄いことの喩えです)もありません(群臣とは親戚の関係もなく、重任を与えているわけでもありません)。それなのに群臣は党議(集まって議論すること)し、朋友間で助け合い、宗室同士を排斥させて骨肉の親情を氷解させています。臣は秘かにこれを悲痛しています。」
劉勝は官吏が諸侯王をどのように侵害しているか、全て詳しく報告しました。
武帝は諸侯王に対する礼を厚くすることにしました。有司(官吏)による諸侯王の過失に関係した上奏を廃止し、親属としての恩を加えます。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春、河水黄河が平原で溢れました。
資治通鑑』胡三省注によると、平原は元々斉国の地でしたが、高帝が郡にしました。禹が洪水の対策として黄河下流にあたる九河を通しましたが、全て平原郡と勃海郡にあります。
 
大飢饉が襲いました。
漢書武帝紀』顔師古注によると、河水の氾濫によって田地が被害を蒙り、大飢饉をもたらしました。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
茂陵武帝陵)に遷った民に対し、一戸当たり銭二十万、田二頃を下賜しました。
 
便門橋を造りました。
漢書』の注釈によると、便門橋は長安の西北、茂陵の東にありました。
便門は長安城北面の西端に位置する門で、平門を指します。便門橋ができたため渭水を渡って茂陵に直接行けるようになりました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、西北に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
済川王劉明が中傅を殺したため、王位を廃され、房陵県(漢中郡。『資治通鑑』では「房陵」ですが、『漢書武帝紀』は「防陵」としています。しかし『漢書』の列伝(下述)では「房陵」ですに遷されました。
資治通鑑』胡三省注によると、中傅は宦者(宦官)です。漢の諸王国には太傅がおり、秩二千石で、王に徳義を教育しました。中傅も王宮に出入りして王の教導を担当しました。
 
漢書文三王伝(巻四十七)』では「中傅」ではなく「中尉」になっています。以下、『文三王伝』からです。
劉明が中尉を射殺したため、有司(官員)が誅殺を請いました。武帝はそれが忍びず、王位を廃して庶人に落とし、房陵に移しました。済川国は廃されます。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
呉楚七国が破れた時、呉王の子劉駒は閩越(閩粤)に逃走しました。劉駒は父劉濞を殺した東甌を怨んでおり、しばしば閩越に東甌攻撃を勧めました。
 
西漢高帝五年(202)、高帝が無諸を閩越王に立てました。
西漢恵帝三年(前192年)には恵帝が搖を東海王に立てました。東海王は東甌を都にしたため、東甌と号しました。
 
閩越は劉駒の勧めに従って東甌を包囲攻撃しました。
東甌は使者を送って漢に救援を求めます。
 
武帝が田蚡に意見を求めると、田蚡はこう言いました「越人が互いに攻撃し合うのは元々常にあることです。それにしばしば反覆しているので(裏切っているので)、秦の時代から(越を)棄てて臣属させませんでした。中国を煩わせて救いに行く必要はありません。」
荘助が反対して言いました「憂いるべきは力が足りなくて援けられず、徳を及ぼせないことだけです。これらが可能なのに、なぜ棄てる必要があるのですか。そもそも秦は咸陽を挙げて棄てました(京師も併せて天下を全て棄てました)。越だけではありません。今、小国が窮困して急を告げて来たのに天子が救わなかったら、彼等はどこに訴えればいいのでしょう。また、どうして万国を子(臣子)とすることができますか。」
武帝が言いました「太尉(田蚡は前年に太尉を罷免されています。ここで太尉と呼んでいることに対して、『資治通鑑』胡三省注は「武帝がかつての官名で呼んだか、記述の誤り」と解説しています)は計るに足りない(相談するに足りない)。私は即位したばかりなので、虎符を出して郡国から兵を徴発したくない(皇帝の命によって大規模な戦争を起こしたくない)。」
武帝は荘助を派遣し、符節を持って会稽で兵を集めさせました。『資治通鑑』胡三省注によると、会稽郡の東南は越に接しています。
 
会稽守は法を楯に兵を出そうとしませんでした。漢の法では虎符の証明がなければ兵を動かせないからです。
荘助は会稽郡の司馬を一人斬り、武帝の意思(即位したばかりなので虎符を使いたくないこと)を諭しました。
ついに兵が動員され、海路から東甌を援けることになりました。
 
しかし漢軍が到着する前に閩越が兵を退いたため、漢軍も撤兵しました。
東甌が国を挙げて漢の内地に移ることを希望し、漢朝廷はこれに同意しました。東甌の全ての衆が長江と淮水の間に移住しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月丙子晦、日食がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武帝は即位したばかりの時から天下で選抜された文学材智の士を集め、破格の地位を与えて遇しました。そのため、四方から多数の士が上書して政治の得失を説き、自分を売り込む者は千人を数えました。
武帝はその中から俊異の者を選んで寵用しました。
 
最初に抜擢されたのは荘助で、その後にも呉人朱買臣、趙人吾丘寿王、蜀人司馬相如、平原の人東方朔、呉人枚皋、済南の人終軍等を得ました。
資治通鑑』胡三省注によると、吾丘寿王は吾丘が氏で、虞丘氏と同じです。春秋戦国時代の楚相に虞丘子がいました。
東方朔は東方が氏で、伏羲の子孫といわれています。伏羲が東方を主宰したので、子孫が東方氏を名乗りました。
枚姓は周の官に銜枚氏(銜枚氏が官名です。司寇に属しました)があり、その子孫が官名を姓氏にしました。戦国時代に賢人枚被がいました。
終姓は顓頊の子孫陸終の後代です。
 
彼等はそろって武帝の左右に侍っていました。武帝が彼等に大臣と辨論させると、中外(中朝と外朝。中朝は内朝ともいい、皇帝の近臣を指します。外朝は大臣諸官です)の臣が義理(仁義道理)の文(文辞)を使って応酬し、しばしば大臣が屈服しました。
但し、司馬相如は辞賦の才能だけが認められて寵幸を受けており、東方朔と牧皋は論点に根拠がなく詼諧(洒落。冗談)を好んだため、武帝は俳優(芸人)として養いました。しばしば賞賜を与えましたが、最後まで国家の大事を任せたことはありません。
東方朔は武帝の顔色を窺ってしばしば直諫したので、武帝にとって益になることもありました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代87 武帝(六) 上林苑 前138年(2)