西漢時代94 武帝(十三) 灌夫事件 前132~131年

今回は西漢武帝元光三年と四年です。
 
西漢武帝元光三年
己酉 前132
 
[] 『資治通鑑』からです。
春、河水黄河が流れを変えて頓丘(東郡)から東南に向かいました。
 
漢書武帝紀』は「河水が頓丘から東南に流れて勃海に入った」としていますが、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)が「頓丘は東郡に属し、勃海は頓丘の東(実際は東北)に位置するので、恐らく誤り」と解説しています。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
夏五月、高帝の功臣五人の後代を列侯にしました。
五人の詳細はわかりません。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙子(初三日)、濮陽(東郡)の瓠子(堤防の名)が決壊し、鉅野(山陽郡)に注いで淮水、泗水に通じました。
十六の郡が水害に遭います。
 
武帝黄河を塞ぐために汲黯と鄭当時に卒十万を動員させました。
しかし堤防を修復してもすぐにまた破壊されます。
 
当時、田蚡の食邑は(清河郡)でした。県は河北にあるため、黄河が決壊して南に向かえば県に水害の恐れがなくなり、邑の収入も増えます(恐らく河南で水害に遭った人々が河北に移住するからだと思います)
そこで田蚡が武帝に言いました「江河の決壊は全て天事なので、人力によって強制的に塞ぐのは容易ではありません。塞ぐことが天に応じているとも限りません。」
気を望んで方術を行う者も田蚡の意見に賛成したため、武帝は堤防建築を長い間中断しました。
 
武帝が龍淵宮を築きました。
漢書』の注によると、黄河の決壊を収めるために龍淵宮を建てたようです。恐らく、黄河の決壊は龍の怒りによるものだと考えられており、それを鎮めるために宮殿が建てられました。
龍淵宮は長安西にあったともいわれますが、長安西では黄河から離れすぎています。実際にどこにあったのかははっきりしません。
 
[] 『資治通鑑』からです。
景帝の時代、魏其侯竇嬰は大将軍で武安侯田蚡は諸郎でした。田蚡が竇嬰の酒席に侍ったら子姪(子や甥の世代)のように跪起(跪いて拝礼してから立つこと。儀礼の一つ)しました。
しかし田蚡は日に日に貴幸(尊貴寵幸)を増して丞相になり、逆に竇嬰は権勢を失って賓客が減少していきました。かつて燕相を務めていた潁陰の人灌夫だけが留まります。
竇嬰も灌夫を厚遇し、互いに尊重し合って父子のように親しくなりました。
 
漢書竇田灌韓伝(巻五十二)』によると、灌夫は武帝が即位してから太僕に任命されました。しかし、酒を飲んで竇太后の兄弟竇甫を殴ったため、武帝は灌夫が竇太后に誅殺されることを恐れて燕相に遷しました。当時の燕王は劉定国で、劉澤(高帝の親族)の孫です。
数年後、灌夫は罪によって罷免され、長安に住みました。
 
灌夫は剛直なうえ酒を飲むと気が強くなり(使酒)、自分より権勢が上の者に対して必ず凌駕凌辱しようとしました。
酒が原因でしばしば丞相田蚡とも衝突しています。
そのため田蚡が灌夫を訴えて上奏しました「灌夫の家属が潁川で横行しており、民がこれを苦にしています。」
 
漢書竇田灌韓伝』によると、当時、灌夫の宗族賓客が権勢利益を貪るために潁川で好き放題な振る舞いをしていました。そのため、潁川の児歌(童謡)は灌夫の宗族に対する憎しみを込めて、こう歌いました「潁水が清ければ灌氏は安寧だが、潁水が濁ったら灌氏は族滅される(潁水清,灌氏寧。潁水濁,灌氏族)。」
 
武帝は灌夫とその支属を逮捕させました。全て棄市の罪に当たるという判決が下されます。
これに対して竇嬰が上書して灌夫を助けようとしました。
武帝は竇嬰に命じて田蚡と東朝で廷辨(公の場での弁論討論)させます。
資治通鑑』胡三省注によると、東朝は王太后が住む長楽宮を指します。未央宮の東にあったので、東朝といいます。
 
竇嬰と田蚡は互いを誹謗しました。
武帝朝臣に問いました「両人のどちらが是だ(正しいか)?」
汲黯だけは竇嬰が正しいと言い、韓安国は両者とも正しいと言いました。鄭当時は竇嬰を支持していましたが、後に堅持できなくなります。
武帝が怒って鄭当時に言いました「わしは汝のような輩も併せて斬ってやろう!武帝は灌夫を助けたいと思っています)
討論が終わり、武帝が立ち上がって入宮しました。
武帝が王太后に食事を進めましたが、王太后は怒って食べようとせず、こう言いました「今、私がいるのに人は皆、私の弟(田蚡)を辱めています。私が百歳の後(死んでから)、皆、魚肉になってしまうでしょう太后の親族は魚肉のように殺されてしまうでしょう)!」
武帝はやむなく灌夫を族滅しました。
また、有司(官員)に竇嬰の罪を調べさせて棄市の罪に当たるという判決を下しました(竇嬰は翌年処刑されます)

 
 
西漢武帝元光四年
庚戌 前131
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十二月晦、魏其侯竇嬰を判決に基いて渭城で棄市の刑に処しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、漢法では冬月(十月から十二月)に重刑(死刑)を行い、春になったら罪を赦すか贖罪させました。十二月晦は冬の最後の日です。冬の間に竇嬰を処刑したのは田蚡の意によるものです。
 
資治通鑑』胡三省注は『漢武故事』(『漢書』の作者班固が書いたとも言われていますが、実際は魏晋以降の書のようです)からこういう話を紹介しています。
武帝が大臣を召して議論させたところ(昨年の事です)、群臣の多くが竇嬰を支持しました。武帝も追求を止め、双方の対立を解かせます。しかし田蚡が大いに恨んで自殺しようとし、まず太后に別れを告げに行きました。田蚡兄弟(田蚡と田勝)が共に号哭して王太后に訴えたため、太后も哭して食事をしなくなりました。武帝はやむなく竇嬰を殺しました。」
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は、「『漢武故事』の内容には誕妄(虚構)が多く、班固の書でもない」としてこの内容を否定しています。
 
春三月乙卯(十七日)、武安侯田蚡も死にました。
 
後に淮南王劉安が謀反して失敗します武帝元狩元年122年)
武帝は田蚡が劉安から賄賂を受け取ったり不順の語(大逆の語。田蚡は劉安に「次の皇帝は淮南王でしょう」と言っていました。武帝建元二年139年参照)があったと知り、「武安侯(田蚡)がもし生きていたら族滅に処すところだ」と言いました。
 
漢書竇田灌韓伝(巻五十二)』では本年(元光四年131年)五月に田蚡が燕王の娘を娶って夫人にしており、翌年(元光五年)十二月に竇嬰が処刑され、その年春に田蚡が死にます。
しかし『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は『漢書武帝紀』と『漢書外戚恩沢侯表』から『竇田灌韓伝』の誤りとしています。『竇田灌韓伝』の元光四年は三年、元光五年は四年になります。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、夏なのに霜が降って草が枯れました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
御史大夫韓安国が丞相の政務を代理で行うことになりました(行丞相事)。田蚡の代わりです。
 
しかし皇帝の車を導引している時、車から落ちて足を負傷しました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢代の大駕(皇帝の儀仗で最も盛大なもの)では公卿が皇帝の車の前導になりました。韓安国は大駕において前導を勤めた時、車から落ちたようです。
 
五月丁巳(二十日)、平棘侯薛澤が丞相に任命されました。
韓安国は病(怪我)のため免じられます。
 
漢書高恵高后文功臣表』によると、薛澤は高帝の功臣薛歐の孫です。薛歐は広平侯に封じられました。諡号は敬侯です。靖侯薛山を経て文帝時代に薛澤が継ぎましたが、景帝時代に罪を犯して廃されました。後に薛澤は平棘侯に封じられました。諡号は節侯です。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月に地震がありました。
天下に大赦しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
九月、中尉張欧が御史大夫になりました。
韓安国の傷が治ったため、中尉に任命されました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代95 武帝(十四) 西南夷経営 前130年(1)