西漢時代96 武帝(十五) 巫蟲事件 前130年(2)
秋七月、大風が吹いて木が倒れました。
女巫・楚服等が陳皇后に厭勝の術を教え、婦人の媚道を利用させようとしました。
張湯は徹底的に関係者を調査し、三百余人が関連して誅殺されました。楚服は市で斬られて首を晒されます(梟首の刑。ここは『資治通鑑』の記述に従いました。『漢書・武帝紀』では、逮捕されて巫蠱の者とみなされた者は全て梟首に処されています)。
武帝が言いました「皇后の行ったことは大義から外れていたので、廃さなければなりませんでした。主(あなた)は道を信じて自らを慰めるべきです(道義を信じて心を安んじさせてください)。妄言を受けて嫌懼(疑惑と恐懼)を生む必要はありません。后(皇后)は廃されましたが、供奉(待遇)は法に則るので、長門も上宮と変わりがありません。」
以前、武帝が竇太主(陳皇后の母。館陶公主)の家で酒宴を開いたことがありました。太主は自分が気に入っている珠宝の商人・董偃を武帝に紹介します。武帝は董偃に衣冠を下賜し、尊重して名を直接呼ばず(相手の名を直接呼ぶのは失礼なこととされていました)、「主人翁」と呼んで酒席に参加させました。
『資治通鑑』胡三省注によると、『漢武故事』(武帝に関して記した書。魏晋以降に編纂されたようです)がこう書いています「陳皇后が廃されて長門宮に住むようになりましたが、竇太主は宿恩(今までの恩)によって武帝と親しく接しました。後に太主の家で酒宴を開き、寵幸する董偃を武帝に会わせました。」
『漢書・東方朔伝(巻六十五)』を見ると、爰叔(袁叔。袁盎の兄の子)が董偃のために画策したため、董偃が竇太主に進言して長門園を武帝に献上させました。その結果、長門園を得た武帝は大変喜んで長門宮を建てました。この一件がきっかけで爰叔は董偃のために更に策を考え、董偃が武帝に近づくことになりました。『東方朔伝』によると、これらは全て陳皇后が廃される前の出来事で、『漢武故事』とは異なります。
『資治通鑑』本文に戻ります。
ある日、武帝が竇太主のために宣室で酒宴を開きました。
武帝は謁者を送って董君も室内に招き入れました。
この時、中郎・東方朔が戟を持って殿下の陛(殿上に登るための階段)の横に立っていました。
東方朔が戟を棄てて前に進み、こう言いました「董偃には三つの斬罪があります。なぜ入れるのですか!」
東方朔が答えました「偃は人臣でありながら個人的に公主に侍っています。これが一つ目の罪です。男女の化(風化)を敗り、婚姻の礼を乱し、王制を傷つけています。これが二つ目の罪です。陛下は春秋が豊かで(まだ若く)、『六経』に思いを積んでいる(『六経』の学習に専念している)時ですが、偃は経学を遵守して学問を勧めるのではなく、逆に靡麗(浪費、奢侈)を右(上)とし、奢侈に務め、狗馬の楽(娯楽)を尽くし、耳目の欲を極めています。彼は国家の大賊、人主の大蜮(蜮は水中に住んでいるとされる怪物で、人に害を与えます)です。これが三つ目の罪です。」
武帝は黙ったまま何も応えませんでしたが、久しくして「わしは既に宴席を設けてしまった。今後は自ら改めよう」と言いました。
しかし東方朔はこう言いました「宣室とは先帝の正処(正室)であり、法度に則った政を行わない者は入れないものです。淫乱が浸透したら簒奪に変わります。だから豎貂が淫を為して易牙が患を招き(春秋時代、斉桓公が豎貂と易牙を信任したため、斉国は大乱を招きました)、慶父が死んで魯国が全うされたのです(慶父が哀姜と私通したため、魯国は乱を招き、慶父が自殺してやっと安定できした)。」
武帝は東方朔に黄金三十斤を下賜しました。董君に対する寵幸は日に日に衰えるようになります。
しかしこの後、公主や貴人の多くが董偃に倣って礼制を守らないようになりました。
張湯は職位にいる官吏を厳しく拘束し、「見知法」を作りました。「見知法」というのは誰かが罪を犯したのを知っているのに検挙しなかったら刑を受けるという法です。この法によって官吏を互いに監視させました。
ここから法がますます苛酷になります。
張湯は漢代を代表する酷吏の一人とされています。
八月、螟の害がありました。
螟は蛾の幼虫です。『漢書』顔師古注によると、螟は苗心を食べました。
次回に続きます。