西漢時代100 武帝(十九) 韓安国 前128年(2)
秋、匈奴の二万騎が漢に侵入し、遼西太守を殺して二千余人を奪いました。
更に匈奴は韓安国の営壁を包囲し、漁陽、雁門に入ってそれぞれの地で千余人を殺略しました。
匈奴が遼西に入って太守を殺しました。漁陽、雁門に入って都尉を破り、三千余人を殺略しました。
匈奴二万騎が漢に入って遼西太守を殺し、二千余人を奪いました。
また、漁陽太守の軍千余人を破り、将軍・韓安国を包囲しました。韓安国が率いる千余騎(『漢書・竇田灌韓伝(巻五十二)』では七百余人です。下述します)も全滅しそうになりましたが、燕が援けに来たため、匈奴は去りました。
その後、匈奴はまた雁門に入って千余人を殺略しました。
『資治通鑑』に戻ります。
韓安国は更に東に遷って北平(右北平)に駐軍しましたが、数カ月後に病死しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、韓安国の死は翌年の事です。
韓安国は材官将軍として漁陽に駐軍してから(武帝元光六年・前129年)、匈奴人を生け捕りにしました。捕虜が「匈奴は遠くに去った」と言ったため、すぐに上書して、佃作の時(農耕が忙しい時)なので屯兵を中止するように請いました。
韓安国の営壁には七百余人しかいません。韓安国は出撃しましたが、負傷したためまた営壁に入りました。
匈奴は千余人と畜産を奪って去りました。
韓安国は皇帝から疎遠にされ、しかも駐留軍の損失も大きかったため、内心非常に慚愧し、職を解かれて帰ることを望みました。しかし更に東に異動することになったため(右北平に駐軍することになったため)、失意して楽しめず、数カ月後に病を患い、血を吐いて死んでしまいました。
『資治通鑑』からです。
匈奴は李広を「漢の飛将軍」と称して恐れ、数年にわたって右北平に侵入しなくなりました。
車騎将軍・衛青が三万騎を率いて雁門を出ました。
将軍・李息も代から出撃しました。
衛青が匈奴数千人を斬首しました。
『漢書・武帝紀』は「将軍・衛青を雁門から出撃させ、将軍・李息を代から出撃させ、首虜(首)数千級を得た」としており、『漢書・匈奴伝上(巻九十四上)』も同じです。この記述からは、衛青と李息の功績を併せて首虜数千級だったとも読めます。
東夷の薉君(薉貊の国君)南閭等、二十八万人が漢に降りました。漢は蒼海郡を置きました。
徒衆を遷す費用が南夷に対するものと同等になり、燕・斉の間に情報が伝わると騒乱が起きました(靡然騷動)。
この年、魯王・劉餘(共王)と長沙王・劉発(定王)が死にました。
二人とも景帝の子です。
長沙では劉発の子・劉庸が継ぎました。戴王といいます。
長沙王・劉発について簡単に紹介します。
劉発の母を唐姫といい、かつては程姫の侍者でした。程姫は魯共王・劉餘、江都易王・劉非、膠西于王・劉端の母です。
ある日、景帝が程姫を召しましたが、程姫は避けるべきことがあったため応じられませんでした。顔師古注は「月事(月経)」と解説しています。
夜、程姫は侍者の唐児を着飾らせて進めました。景帝は酔っていたため唐児とは知らず、程姫だと思って幸しました。唐児が妊娠してから景帝はやっと程姫ではなかったと気づきます。
やがて子が生まれて発と名づけられました。
劉発は景帝前二年(前155年)に封王されましたが、母の身分が賎しくて寵愛も得られなかったため、卑湿で貧しい長沙の国が与えられました。
定王(劉発)の歌舞は袖を張って手を小さく挙げるだけだったため、左右の者が下手な踊りを笑いました。景帝が怪しんで理由を問うと、劉発はこう言いました「臣は国が小さくて地が狭いので、回旋(回転。旋回)するにも足りません。」
景帝は長沙国に武陵、零陵、桂陽を加えました。
臨菑の人・主父偃、厳安や無終の人・徐楽が政治に関する上書をしました。
主父偃は主父が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、戦国時代に趙武霊王が主父を自称し、その支庶が主父を氏にしました。
無終県は右北平郡に属します。春秋時代、無終子の国だった場所です。
主父偃は家が貧しかったため、金を借りるあてもありません。そこで西に向かって入関し、宮闕の下で上書しました。
すると、朝に上書したところ、暮には武帝に接見されました。
『資治通鑑』はここで主父偃、厳安、徐楽の上書を紹介していますが、長いので別の場所で書きます。
西漢時代 主父偃等の上書
『漢書‧厳朱吾丘主父徐厳終王賈伝(巻六十四上)』は三人の上書を元光元年(前134年)の事としていますが、厳安の上書に「西夷を従わせ、夜郎を入朝させ、羌・僰を降し、薉州を攻略した」とあるので、元光元年よりも後の事だと分かります。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は、「元朔」を「元光」に書き間違えたはずだとしています(元朔元年は本年に当たります)。
三人の上書が報告されると武帝は三人を招いて「公等は皆どこにいたのだ。なぜ出会うのが遅くなったのだ」と言い、三人とも郎中にしました。
主父偃は三人の中でも特に信任寵幸され、一年で四回昇格して中大夫になりました。
大臣は主父偃の口を恐れて千金に上る賄賂を贈ります。
ある人が主父偃に「横柄すぎませんか(太横矣)」と言うと、主父偃はこう答えました「私は生きている間に五鼎の食を享受できなかったら、死ぬ時に五鼎の烹を受けるだろう。」
『資治通鑑』胡三省注によると、五鼎の食は牛・羊・豕(豚)・魚・麋(鹿の一種)を指します。諸侯は五鼎、卿大夫は三鼎という決まりがありました。または、少牢(諸侯や卿大夫が祭祀で使う犠牲)を五鼎といいました。羊、豕(豚)、膚(精選された肉。何の肉かは分かりません。麋膚かもしれません)、魚、腊(干し肉)を指します。
「五鼎の烹」というのは釜茹での刑です。
次回に続きます。