西漢時代 主父偃等の上書

武帝元朔元年(前128年)、主父偃、厳安、徐楽が上書しました。

西漢時代100 武帝(十九) 韓安国 前128年(2)

資治通鑑』を元に上書の内容を紹介します。
 
主父偃が上書して言いました「『司馬法(『司馬穰苴兵法』)』にはこうあります『国が大きくても戦を好んだら必ず亡びる。天下が太平でも戦を忘れたら必ず危うくなる(国雖大,好戦必亡。天下雖平,忘戦必危)。』怒とは逆徳(徳に逆らうこと)であり、兵(兵器)とは凶器(不祥な物)であり、争とは末節(節の最後にあるもの)です。戦に勝つことに務めて武事に尽力した者で、後悔しなかった者はいません。

昔、秦皇帝は戦国を併呑してからも勝つことに務めて休まず、更に匈奴を攻めようとしました。そこで李斯が諫めて言いました『いけません(不可)匈奴というのは城郭の居も委積(蓄積された物資)の守もなく、鳥が飛ぶように移動しているので、彼等を得て抑制するのは困難です。軽兵が深入りしたら糧食が必ず絶たれ、食糧を運んで行軍したら(『史記平津侯主父列(巻百十二)』と『資治通鑑』では「踵糧以行」。『漢書厳朱吾丘主父徐厳終王賈伝(巻六十四上)』では「運糧以行」)重くて事に及ばなくなります(戦機を逃してしまいます)。その地を得ても利とするには足らず、その民を得ても調教して守ることはできません。(だからといって)勝利を得る度に必ず殺していたら、民の父母ではなくなります。中国(中原)を靡敝(離散衰退)させて匈奴を快心させるのは(喜ばせるのは)長策ではありません。』秦皇帝はこの意見を聴かず、蒙恬に兵を率いさせて胡匈奴を攻め、千里の地を開き、河黄河を境にしました。しかしそこは元々沮沢(沼沢)、鹹鹵(塩鹹)の地で五穀が育ちません。それなのに後には天下の丁男を動員して北河を守らせ、十余年にわたって兵を野に曝し(暴兵露師)、数え切れないほどの死者を出しながら、結局、河黄河を越えて北上することができませんでした。これは人衆(人数)が不足し、兵革(武器)が不備だったからでしょうか?(そうではなく)(形勢)(北上を)許さなかったのです。更に天下に命じて迅速に飼料や食糧を運ばせ(原文「蜚芻輓粟」。「蜚」は「飛」、「芻」は「飼料」、「輓」は「車を挽く」、「粟」は「食糧」の意味です)、東や琅邪のような海に面した郡からも北河に輸送させましたが、元は三十鍾あっても到着するのは一石程度でした。男子が疾耕(農耕に努めること)しても糧餉(食糧)が不足し、女子が紡績しても帷幕が不足し、百姓は靡敝(離散衰退)し、孤寡老弱が互いに養えなくなり、道路には死者が並び、こうして天下が秦に背くようになったのです。

高皇帝の時代に至り、天下を平定して辺境を巡視した時(略地於辺)匈奴が代谷の外に集まっていると聞いたので攻撃しようとしました。すると御史(成は名)が諫言して言いました『いけません(不可)匈奴の性は獣が集まって鳥が散るのと同じで、それを追うのは影を撃つようなものです。今、陛下の盛徳をもって匈奴を撃とうとしていますが、臣は心中で危ぶんでいます。』高帝はこれを聴かず、北に向かって代谷に至りました。その結果、平城の囲(包囲)があったのです。高皇帝は甚だしく悔やんだはずです。そこで劉敬を派遣して和親の約を結び、その後、天下は干戈の事(戦争)を忘れることができました。

匈奴を得て制御するのが困難なのは一世のことではありません。辺境を侵して略奪するのは(行盗侵駆)彼等の業であり、元から天性がそうなっているのです。上は虞(舜)、夏、殷(商)、周の時代に及ぶまで程督(程は賦役の義務を課すこと。督は監督すること)しなかったのは、禽獣とみなして人には属させなかったからです。上は虞、夏、殷、周の統(伝統)を観ず、下は近世の失敗に倣うのは、臣が大憂とし、百姓が疾苦とすることです。」
 
厳安も上書して言いました「今、天下の人民は財を用いること侈靡(奢侈浪費)で、車馬、衣裘、宮室は全て修飾を競い、五声を調整して節族(律動)があり(美しい音楽を楽しんでおり)、五色を混ぜて文章(模様)を作り、五味を重視して方丈(方丈の食。豪勢な食事を意味します)を前に置き、天下に欲を顕示しています(天下を羨ましがらせるために、欲に任せた姿を示しています)。彼等民衆の情とは、美しいものを見たらそれを得たいと願うものなので、このような状況は侈(奢侈)によって民を教導することになります。侈(奢侈)になって節がなくなったら、満足できなくなり、民は本(農業)から離れて末(工商業)を求めるようになります。末(工商業の利益)はただで得られるものではないので、搢紳の者(官職に就いている者)は詐(詐欺。詐術)を為すことを憚らず、帯剣の者は矯奪するために(騙し取るために)競って人を殺し、しかも世は愧(慚愧)を知りません。だから法を犯す者が大勢いるのです。臣は民のために制度を作って淫(浪費。欲求)を防ぎ、貧富の者に相燿させず(互いに自慢させず)、その心を和す(調和する)ことを願います。心志(人心)が定まったら盗賊が消え、刑罰が少なくなり、陰陽が和して万物が繁殖します。

昔、秦王は意が広く心が逸脱していたため(志が大きく気持ちが現実から離れていたため。原文「意広心逸」)、海外への威を欲し、蒙恬に兵を指揮させて北の胡を攻め、また尉屠睢に楼船の士を指揮させて、越を攻めました。当時の秦の禍(兵禍)は、北は胡と構え、南は越に連なり、無用の地に宿兵(駐軍)させ、進むだけで退くことができなくなりました。出征して十余年経つと、丁男は被甲武装し、丁女は転輸(輸送)し、苦しんで生活もできなくなり、自ら道の樹で首を吊り、死者が相望みました。秦皇帝が崩じてから天下が大いに背反し、(秦の)世が滅んで祀(祭祀)が絶たれました。これは窮兵(戦争に尽力すること)の禍です。周は弱(衰弱)によって国を失い、秦は強(強暴)によって国を失いましたが、どちらも不変の患(国政を改めなかったために起きた禍)です。今、西夷西南夷を従わせ、夜郎を入朝させ、羌を降し、薉州を攻略し、城邑を建て、匈奴に深入りして龍城を焼き、議者はそれを美事としていますが、これは人臣の利であって天下の長策ではありません。」

 
徐楽も上書しました「臣が聞いたところ、天下の患は土崩(崩壊)にあり、瓦解(分裂)にはありません。これは古今において一致したことです。

何を土崩というのでしょうか?秦の末世がそれです。陳渉は千乗の尊(千乗の車を指揮する地位。諸侯の地位)も尺土の地もなく、その身は王公でも大人でも名族の後でもなく、郷曲の譽(称賛)を得たわけでもなく、孔子曾子墨子の賢も陶朱猗頓(どちらも富豪)の富もありませんでしたが、窮巷で身を起こし、棘矜(戟。「棘」は「戟」で「矜」は「柄」の意味です)を奮い、偏袒(片方の肩を露わにすること)大呼すると、天下が従風(迅速に従うこと)しました。これはなぜでしょうか?民が困窮しているのに主が救済せず(または「主が憐れまず」。原文「主不恤」)、下が怨んでいるのに上はそれを知らず、俗が既に乱れたのに政治を修めなかったからです。この三者は陳渉が資(資本)にしたことであり、これを土崩というのです。だから天下の患は土崩にあるというのです。

何を瓦解というのでしょうか?呉趙の兵(兵乱)がそれです。七国は大逆を謀り、号は全て万乗の君を称し(彼等は諸侯王を号しており)、帯甲(甲兵)は数十万を擁し、威は境内を制御するに足り、財はその士民を奨励するに足りましたが、西進して尺寸の地を奪うこともできず、逆にその身は中原の禽(擒)になりました。これはなぜでしょうか?権(権勢)が匹夫(平民)より軽く、兵が陳渉より弱かったからではありません。当時においては、先帝の徳がまだ衰えておらず、安居して俗を楽しんでいる民(安土楽俗の民)が多かったので、諸侯は境外の助けを得られなかったのです。これを瓦解といいます。だから天下の患は瓦解にはないのです。

この二つの状態は安危の明要(重点)なので、賢主は留意して深く観察するべきです。
最近、関東の五穀が繰り返し不作で(数不登)、年歳(一年の収穫)がまだ回復していないため、民の多くは窮困し、しかも辺境の事が重なっています。規律を推し量り道理に則って(推数循理)これを観ると、民の中には自分が置かれた状況に不安な者がいるはずです。不安があったら容易に動じます(容易に動乱が起きます)。容易に動じるのは土崩の勢(形勢)です。だから賢主は万化(万物の変化)の源だけを観察し、安危の機を明らかにし、廟堂の上(朝廷)でこれを修めて、形になっていない禍患を削除したのです。この要(要点)は、天下に土崩の勢(形勢)を作らせないことを願っただけです。」
 
上書が報告されると武帝は三人を招いて「公等は皆どこにいたのだ。なぜ出会うのが遅くなったのだ」と言い、三人とも郎中にしました。