西漢時代109 武帝(二十八) 身毒国 前122年(3)

今回で西漢武帝元狩元年が終わります。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
十二月、大雪が降り、民が凍死しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、天下に大赦しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
丁卯(二十一日)武帝が皇子劉據を皇太子に立てました。年は七歳です。
 
中二千石の官に右庶長爵位第十一等)を下賜し、民で父の後を継ぐ立場にある者に爵一級を下賜しました。
 
武帝が詔を発しました「朕が聞いたところでは、咎繇(皋陶)は禹にこう言った『大切なのは知人(人を知ること)にある。知人であれば哲(英哲。賢哲)となる。帝(堯)でもそれは難しかった(『尚書皋陶』の一部です)。』君(君主)とは心(心臓)であり、民とは支体のようなものである。支体が傷つけば心が(悲痛)する。最近、淮南衡山(淮南王劉安と衡山王劉賜)は文学を修め、貨賂(財物)を流通させ、両国が近隣し、邪説に誘われて簒弑を行った。これは朕の不徳によるものである。『詩(小雅・正月)』にはこうある『憂心惨惨(「惨惨」は憂愁の様子です)、国が虐政を為すことを憂慮する(憂心惨惨,念国之為虐)。』よって既に天下に大赦し、滌除(汚れを除くこと)してこれ(民)と更始した(改めて出直した)。朕は孝弟(悌)力田を嘉し、老眊(老人)(孤児)(夫を失った妻)(妻を失った夫)(子がいない老人)を哀れみ、あるいは衣食が欠乏している者を甚だしく憐愍(憐憫)するので、これから謁者に天下を巡行させ、存問(慰問)致賜(褒賞)する。
ここに宣言する『皇帝が謁者を派遣して、県三老と孝者に一人当たり五匹の帛を下賜する。郷三老と弟者、力田に一人当たり三匹の帛を下賜する。年九十以上および鰥寡孤独の者に一人当たり二匹の帛と絮(綿)三斤を下賜する。八十以上の者に一人当たり三石の米を下賜する。冤(冤罪。不当な理由)によって職(常業。生業)を失っている者がいたら、使者(謁者)は報告せよ。県郷はその場(対象者が住む場所)で賞賜を与え、贅聚(集会)してはならない(集会を禁止したのは、集会を開いたら民の負担になるからか、漢代は理由もなく三人以上が集まって会を開くことが禁止されていたからなのか、意図がはっきりしません)』。」
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
五月乙巳晦、日食がありました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
匈奴の一万人が上谷に侵入し、数百人を殺しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
張騫が月氏から帰った時武帝元朔三年126年参照)武帝に西域諸国の風俗について詳しく紹介し、こう言いました「大宛は漢の正西にあり、約一万里離れています。その俗は土著(城壁を築いて定住すること)して田を耕しており、善馬が多く、馬は血の汗を流します(これを汗血馬といいます)。城郭、室屋があり、中国のようです。その東北は烏孫で、東は于(于闐)です(『資治通鑑』胡三省注によると、于国は南山の麓にあり、西城に住みました)。于の西は水が全て西に流れて西海に注ぎます。その東は水が東に流れて塩沢に注ぎます。塩沢からは地下に潜って流れ、南に向かって河源黄河の源)で地上に出ます。塩沢は長安から約五千里離れています。
匈奴の右方は塩沢の東に住んでおり、隴西の長城(『資治通鑑』胡三省注によると、秦が築いた長城です。秦の長城は臨洮県から始まり、漢の隴西郡に属します)に至ります。南は羌に接して漢道を隔てています(漢から西域に向かう道を分断しています)烏孫、康居、奄蔡、大月氏は全て行国(移住する国。遊牧民族で、畜牧に合わせて生活しており、匈奴と同俗です(『資治通鑑』胡三省注によると、奄蔡国は康居の西北にあります)大夏は大宛の西南にあり、大宛と同俗です。
臣が大夏にいた時、邛(山の名。竹の産地です)の竹杖や蜀の布を見たので、『どのようにして得たのだ』と問いました。すると大夏の国人は『我が国の賈人(商人)が身毒(天竺。印度)で買ってきました』と答えました。身毒は大夏の東南数千里にあり、その俗は土著で大夏と同じです。騫(臣)が量るには、大夏は漢から一万二千里離れた漢の西南にあり、身毒国は大夏の東南数千里に位置して蜀の物があるので、蜀から遠くない場所にあるはずです。今、(漢の)使者が大夏に行くには、羌の中を通らなければならず、道が険しくて羌人もこれを嫌っています。しかしもし少しでも北に行けば匈奴に捕まってしまいます。蜀から(身毒を通って)行くことができれば、道が直接繋がるはずで、寇(敵。賊)もいません。」
 
 
張騫の上奏を聞いて武帝は再び西南夷経略に注目しました。
武帝は張騫の報告によって、大宛や大夏、安息(『資治通鑑』胡三省注によると、都は番兜城で嬀水に臨んでいます。長安から一万千六百里離れており、土著の国です)等が全て大国で、奇物が多く、人々は定住して中国と同じように農業を行っており、しかも兵が弱くて漢の財物を貴んでいると知りました。また、その北には大月氏や康居等があり、兵は強いものの礼物を贈ったり利を与えて誘えば入朝するはずだと考えました。もし義によって(兵を用いずに)西域諸国を帰属させることができれば、領地が万里も広がり、九訳(九人の通訳)を重ねて異なる風俗を取り入れ、威徳を四海に遍く施すことができます。
武帝は喜んで張騫の言に同意し、張騫に命じて蜀郡と犍為郡から間使(道を探る使者)を派遣させました。王然于等の使者を分けて、駹、冉、徙(斯楡)、邛の四カ所から並進させます。四路の使者は道を求めながら身毒国に向かいました、
しかしそれぞれ一二千里進んだ所で、北方は氐、で道が塞がれ、南方は昆明で阻まれました。
昆明一帯には君長がなく、寇盗(略奪盗難)が横行しており、常に漢の使者が殺略されて通過できません。
そこで漢は身毒への道を求めるために始めて滇国と通じました。
資治通鑑』胡三省注によると、滇国の地には滇池があったため、これが国名になりました。
戦国時代に楚の荘蹻が夜郎諸国を平定し、滇池に至って王を称しました(東周赧王三十六年279年参照)
 
滇王当羌が漢の使者に問いました「漢と我が国ではどちらが大きいか?」
夜郎侯も漢の使者に同じ質問をしたことがあります。道が通じていないため、どちらも自分が一州の主だと思っており、広大な漢を知りませんでした。
ここから「夜郎自大」という言葉が生まれました。「身の程知らずなこと。自分の力量をわきまえずに尊大な態度をとること」という意味です。
 
漢の使者は長安に帰還してから、滇が大国であることを強調し、帰属させる価値があると説明しました。
これが武帝の注意を引き、元朔三年(前126年)に頓挫した西南夷経営が再開されることになります。
 
 
 
次回に続きます。