西漢時代113 武帝(三十二) 卜式 前119年(1)

今回は西漢武帝元狩四年です。四回に分けます。
 
西漢武帝元狩四年
壬戌 前119
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
冬、有司(官員)が関東の貧民を隴西、北地、西河、上郡、会稽に遷すように進言しました(『資治通鑑』では前年に民を函谷関以西および朔方以南の新秦に遷しています)。移民の数は七十二万五千人に上りました。
県官(朝廷)が衣食を与えて生産を振興させました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
有司(官員)武帝に言いました「県官(朝廷)の用度(経費)が完全に空になりました。しかし、富商大賈(大商人)は冶鋳(金属の鋳造)と煮塩(塩の生産)を行い、ある者の財は万金も蓄積しているのに、国家の急を助けようとしません。銭を改めて貨幣を造ることで費用を補い、浮淫(軽薄放蕩)并兼(他者の財を兼併すること)の徒に打撃を与えることを請います。」
有司は朝廷の経費を満足させるため、銀錫を集めて白金や皮幣を作るように進言しました。
 
当時、禁苑には白鹿がおり、少府には多数の銀錫がありました。そこで白鹿の皮を一尺四方に切り、縁に藻繢(彩色の刺繍。装飾)をつけて皮幣とし、四十万銭で売り出しました。王侯宗室が朝覲や聘享(聘問)する時は、貢納する璧を必ず皮幣に置かなければ中(廷内。または宮中)に入れないことにします。
また、銀や錫で白金三品(三種類の白金の貨幣。『資治通鑑』胡三省注によると、「白金」は銀と錫の合金です)を作りました。大幣は円形で龍の図が描かれており、三千銭に値します。中幣は方形で馬の図が描かれており、五百銭に値します。小幣は楕円形で、亀の図が描かれており、三百銭に値します。
 
更に、県官に命じて半両銭を焼毀させ、改めて三銖銭を鋳造しました。三銖銭は建元五年(前136年)に廃されて、当時は半両銭が流通していました。
隠れて勝手に金銭を鋳造した者は全て死刑としましたが、吏民で白金を私造する者は数え切れないほどいました。
 
武帝は東郭咸陽と孔僅を大農丞に任命し、塩鉄の事を担当させました(領塩鉄事)
資治通鑑』胡三省注によると、東郭咸陽は東郭が姓、咸陽が名で、斉国の大夫に東郭氏がいました。
大農令には二人の丞がいます。
 
桑弘羊も計算を得意としたため重用されました。
資治通鑑』胡三省注によると、桑氏は秦の大夫子桑の子孫です。
 
東郭咸陽は斉の大煮塩(塩商人)で、孔僅は南陽の大冶(金属商)でした。どちらも資産は千金を数えます。
桑弘羊は洛陽の賈人(商人)の子で、暗算が得意だったため十三歳で侍中になりました。
三人が利について語ったら、秋毫(細かいこと)まで詳しく分析しました。
 
武帝は詔を発して民が敢えて鉄器を私鋳したり塩を作ることを禁止しました。違反した者がいたら左足に釱(鉄の足枷。または鉄の靴)をつけて(釱左趾。刖刑の代わりです器物を没収します。
 
公卿が上奏して税制を改めるように進言しました。賈人(商人)末作(商業を行う者)に自分の財産を申告させ、緡銭(紐で繋いだ貨幣。一緡は通常千銭です)二千(二千銭)ごとに一算(百二十銭)の税をかけます(初算緡銭)
民で軺車(小車)や五丈以上の船を持っている者にも一算の税がかけられました。
この新しい法令を「緡銭令」といいます。
 
税の内容について、『史記平準書』から少し詳しく書きます。
まず商人は上述の通り、緡銭二千で一算(百二十銭)の税がかけられます。
各種の手工業者(原文は「諸作有租及鋳」で理解困難です。『集解』は「手の力で物を作ってそれを売る者」と解説しています)は緡銭四千で一算としました。
官吏に匹敵する三老や北辺の騎士以外は軺車(小車)に一算、商賈人(商人)なら軺車に二算、五丈以上の船にも一算の税をかけました。
 
資治通鑑』に戻ります。
財産を隠して申告しなかったり、申告しても全てではなかったら、辺境の戍守を一年間勤めなければならず、緡銭も没収されました。
違反した者を告発したら没収した財産の半分が与えられます武帝元鼎三年・前114年に再述します)
これらの法の多くは張湯によって作られました。
 
張湯はいつも朝会の奏事で国家の費用について語り、日が暮れるまで終わらなかったため、武帝も食事を忘れるほどでした。
丞相李蔡は席にいるだけで、天下の大事は全て張湯が決定します。
百姓は動揺して生活に不安を抱き、皆が怨みを張湯に向けました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、河南の人卜式がしばしば家財を県官(朝廷)に納めて辺境を助けることを申請しました。
武帝が使者を送って卜式に問いました「官を欲しているのか?」
卜式が言いました「臣は幼い頃から田牧(農耕牧畜)をしており、仕宦(仕官)について詳しくないので、(仕官は)願いません。」
使者が問いました「家に冤(冤罪。ぬれぎぬ)があって訴えたい事があるのか?」
卜式が言いました「臣は生まれてから人と分争(紛糾)したことがなく、邑人に貧しい者がいたら貸し与え、不善の者がいたら教導してきました。だから(近所に)住んでいる人は皆、式(私)に従っています。式がどうして人から冤を受けることがあるでしょう。訴えたい事はありません。」
使者が問いました「そのようであるのなら、子(あなた)は何を望んでそうするのだ?」
卜式が言いました「天子が匈奴を誅しているので、愚(私)は賢者なら辺境で節を守って死に、財がある者なら蓄積した物を納めるべきだと思っています。こうすれば匈奴を滅ぼすことができます。」
武帝は卜式を賢才だと思い、尊顕(尊貴で名声があること)にすることで百姓を奨励しようとしました。
そこで卜式を招いて中郎に任命し、左庶長の爵位を与えて田十頃を下賜しました。併せて天下に布告し、人々に卜式のことを知らせます。
後に卜式は斉国の太傅に抜擢されました。
 
斉王劉次昌は元朔二年(前127年)に自殺し、国が廃されました。
元狩六年(前117年)になって武帝の皇子劉閎が斉王に立てられます。卜式は劉閎の傅になったはずです(『資治通鑑』胡三省注参考)
 
 
 
次回に続きます。