西漢時代115 武帝(三十四) 衛青と霍去病 前119年(3)

今回も西漢武帝元狩四年の続きです。
 
[(続き)] 伊稚斜単于が遁走してから、匈奴の兵は混乱の中、所々で漢兵と混じり合いながら単于を追いました。
しかし単于が久しく大衆(大軍)と合流できなかったため、右谷蠡王は単于が死んだと思い、自ら単于に立ちました。
十余日後、単于が再び部衆を得たため、右谷蠡王は単于の号を廃しました。
 
票騎将軍霍去病の騎兵車重(輜重車)は大将軍衛青の軍と同等でしたが、裨将(副将)がなく、李敢等を大校に任命して裨将に相当させました。
代と右北平を出て二千余里進み、大漠を渡り、匈奴の左方の兵に当たりました。
資治通鑑』胡三省注によると、匈奴は国を左右に分けており、左王は東方を、右王は西方を指揮していました。左王の地は上谷から東の濊貊、朝鮮に接し、右王の地は上郡から西の氐、羌に接します。これらの地を左方右方または左地右地といいました。
漢書武帝紀』は「(霍去病が)左賢王と戦った」としています。
 
霍去病は匈奴の屯頭王、韓王等三人と将軍、相国、当戸、都尉八十三人を捕え、狼居胥山で封(天の祭祀)を行い、姑衍で禅(地の祭祀)を行い、山に登って翰海(『資治通鑑』胡三省注によると、沙漠の北の湖。北海)に臨みました。
合わせて七万四百四十三級(首級)を得ます。
 
武帝は霍去病に五千八百戸を加封しました。
また、霍去病に従った右北平太守路博徳等四人を列侯にし(下述)、従票侯趙破奴等二人を加封し、校尉李敢を関内侯にして食邑を与えました。
軍の吏卒で官や賞賜を与えられた者も多数います。
しかし大将軍衛青は加封がなく、衛青軍の吏卒で封侯された者もいませんでした。
 
史記建元以来侯者年表』『漢書景武昭宣元成功臣表』『資治通鑑』胡三省注から、封侯された四人を紹介します。
右北平太守路博徳が符離侯(または「邳離侯」)に封じられました。後に廃されるので諡号はありません。
北地郡都尉衛山が義陽侯に封じられました。後に罪を犯して棄死の判決が下り、刑を行う前に病死します。諡号はありません。
復陸支が壮侯(または「杜侯」)に封じられました。諡号はわかりません。復陸支は元匈奴の因淳王(因孰王)でしたが、漢に降って霍去病に従っていました。
伊即軒(または「伊即」)が衆利侯に封じられました。諡号は質侯です。伊即軒は元匈奴の楼剸王でしたが、漢に降って霍去病に従っていました。
全て六月丁卯の事です。
 
史記建元以来侯者年表』では同日に匈奴から降った三人も封侯されています。
湘成侯敞屠洛(元匈奴符離王。後に廃されるので諡号はありません)、散侯董荼吾(または「董舎吾」。元匈奴都尉。諡号不明)、臧馬侯雕延年(元匈奴の王侯。諡号は康侯)です。
漢書景武昭宣元成功臣表』はこの三人の封侯を六月丙子の事としています。
 
資治通鑑』に戻ります。
衛青と霍去病が辺塞を出た時、塞で官私の馬を検閲したら十四万頭いました。しかし塞に戻って来た馬は三万頭もいませんでした。
 
武帝は大司馬の職位を増設し、大将軍衛青と票騎将軍霍去病を大司馬にしました。更に令を定めて霍去病の秩禄を衛青と同等にします。
資治通鑑』胡三省注によると、司馬は武事(軍事)を掌る官です。元々軍中に候司馬の官があったため、「大」をつけて区別しました。この後、票騎将軍は大将軍の品秩(官品と秩禄)と同等になり、位は丞相の下になりました。
 
票騎将軍霍去病の地位が上がったため、大将軍衛青は日々権勢を失い、霍去病が日々尊貴を得るようになりました。衛青の友人や門下の士の多くが衛青を去って霍去病に仕え、すぐに官爵を与えられました。任安だけは衛青の下に留まります。
 
霍去病の為人は言が少なく感情を表すことがなく、勇気があって敢えて前に進むことができました。
かつて武帝が『孫呉兵法孫武呉起の兵法)』を教えようとしましたが、霍去病はこう言いました「方略が如何であるかを顧みるだけのことです(戦争とはどのように謀略を用いるかにかかっています)。古の兵法を学ぶには及びません。」
武帝が霍去病のために邸宅を建てたことがありました。しかし武帝が霍去病に見に行かせると、霍去病はこう言いました「匈奴がまだ滅んでいないのに、家を建てるわけにはいきません匈奴未滅,無以家為也)。」
武帝はますます霍去病を重愛しました。
 
しかし霍去病は若い頃から尊貴な地位に登ったため、士卒に関心を持つことができませんでした。
以前、霍去病が出陣した時、武帝が太官を送って数十乗の食糧を届けました。
太官は皇宮の食事を主管する官で、『資治通鑑』胡三省注によると、令と丞がいます。霍去病に送られたのは皇帝が食べる御馳走だったはずです。
霍去病が帰還した時、重車(輜重車)には残った粱穀物肉が積まれていましたが、士卒は飢えに苦しんでいました。
霍去病が塞外にいた時も、士卒には食糧が欠乏して自給できない者もいましたが、霍去病は地を穿って(字面を掘って。原文「穿域」)鞠室(蹴鞠用の部屋)を造り、蹴鞠をして遊びました。
このような事は他にもたくさんあります。
逆に大将軍衛青は仁の人で、士を愛して謙虚に譲ることができました。和柔によって武帝の寵を得ています。二人の志操(志向節操)はこれほど差がありました。
 
当時、漢が殺虜した匈奴人は八九万に及びましたが、漢の士卒で死亡した者も数万を数えました。
この後、匈奴は遠くに離れ、幕南(漠南)に王庭が置かれることはなくなりました。
 
資治通鑑』胡三省注から少し補足します。冒頓によって匈奴は強大になり、秦の蒙恬匈奴から奪った地を全て取り返して王庭を幕南に置きました。しかし今回、匈奴が漢の攻撃を受けて幕北に逃げたため、幕南には王庭が置かれなくなりました。
 
漢軍は黄河を渡り、朔方から西の令居まで所々に渠(水路)を通しました。田官屯田を管理する官)を置き、吏卒五六万人に開墾させます。漢領は北に向かって拡大し、匈奴の地を徐々に侵食しました。
しかし漢も馬が不足していたため、匈奴に対して大挙遠征する力はありませんでした。
 
 
 
次回に続きます。