西漢時代122 武帝(四十一) 函谷関 前114年

今回は西漢武帝元鼎三年です。
 
西漢武帝元鼎三年
丁卯 前114
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。 
冬、函谷関を新安に遷しました。旧関は弘農県にあります。
 
資治通鑑』胡三省注によると、弘農と新安は三百里離れていました(新安が東にあります)
 
函谷関を遷した理由を、『漢書武帝紀』の注はこう書いています「当時、楼船将軍楊僕がしばしば大功を立て、関外の民でいることを恥としたため、関を東に遷すように上書し、家財をその用度(費用)として提供した。武帝(関中を)広げたいと思っていたので、関を弘農から三百里離れた新安に遷した。」
楊僕が功績を挙げるのは元鼎五年(前112年)に始まる南越討伐からなので、この記述には誤りがあるかもしれません。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
十一月、武帝が令を下し、「緡銭令」に従わない者を告発した民には没収した財産の半分を与えることにしました。
資治通鑑』は武帝元狩四年(前119年)に「緡銭令」を紹介したところでこの内容もまとめて書いています。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月戊子(二十七日)、陽陵園(景帝の陵園)で火災がありました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、雹が降りました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
関東の十余の郡国を飢饉が襲いました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
常山王劉舜(憲王)が死にました。劉舜は景帝の子です。
子の劉勃が跡を継ぎました。
しかし劉勃は父が病の時も看病せず、喪中にも礼を失ったため、房陵に遷されました。
 
一月余経ってから、武帝は憲王劉舜の子劉平を真定王に立てました。常山国は郡になり、五嶽が全て天子の邦(天子が直轄する郡)になります。
 
資治通鑑』胡三省注によると、真定県は常山国に属していました。今回、真定、綿曼、藳城、肥塁の四県が分かれて真定王国になります。
五嶽は華山、嵩高(嵩山)、霍山(衡山)、太山(泰山)、恒山(常山)を指します。このうち華山と嵩高は元々天子の郡に属します。霍山は廬江に属しており、淮南衡山二王が謀反して国を廃されてから武帝元狩元年122年)郡になりました。太山は済北王が献上しました(元狩元年122年)。今回、常山も郡になったので、五嶽とも天子が管轄することになりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
代王劉義を清河王に遷しました。
史記梁孝王世家』と『漢書文三王伝(巻四十七)』によると、劉義の父は劉登(代共王)といい、その父は劉参(代孝王)です。劉参は文帝の子になります。
 
元々清河王は景帝の子劉乗が封じられましたが、武帝建元五年(前136年)に死に、子がいなかったため廃されていました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、匈奴の伊稚斜単于が死に、子の烏維単于が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。