西漢時代123 武帝(四十二) 欒大 前113年(1)

今回は西漢武帝元鼎四年です。二回に分けます。
 
西漢武帝元鼎四年
戊辰 前113
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、武帝が雍を行幸して五畤を祀りました。
 
民に爵一級を下賜し、女子は百戸ごとに牛酒を与えました賜民爵一級,女子百戸牛酒)
これと同じ内容が西漢少帝八年(前180年)にもありました。その時の解説を改めて紹介します。
史記集解』は「男には爵位を、女子には牛酒を下賜した」としています、
『索隠』は『史記封禅書(巻二十八)』から「百戸につき牛一頭と酒十石を下賜した」と書いています(『封禅書』には西漢武帝が封禅の儀式を行う場面で「民百戸に牛一頭と酒十石を下賜する(賜民百戸牛一酒十石)」と書かれています)。夫や子がいない婦人は爵位を得られないため、女子を対象に牛と酒を下賜したようです。
しかし『漢書』顔師古注は「爵位を下賜されたのは一家の長で、女子というのは爵位を与えられた者の妻である。百戸を率いて若干の牛と酒を得た。数量は定められていない」としています。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
武帝が詔を発して言いました「今、上帝に対しては朕自ら郊(郊祭。天の祭)を行ったが、后土(地の神)には祀がないので、礼に合っていない。よって有司(官吏)に命じて議定させる。」
こうして后土祠が沢の中の圜丘(円形の丘)に建てられることになりました。
武帝は夏陽から東に向かって汾陰を行幸します。
 
今回、武帝が初めて郡国を巡行したため、不意に行幸を受けた河東守(郡守)は準備が間に合わず、自殺しました。
 
十一月甲子(初八日)、汾陰の脽(土丘)に后土祠を建てました。
武帝は自ら祠に望み、上帝と同等の礼で祭拝しました。
祭礼が終わってから、武帝は滎陽に行幸し、戻って洛陽に入ります。
 
武帝が詔を発しました「冀州(汾陰)で地を祭り、河洛黄河と洛水)を瞻望(遠望)し、豫州を巡省(巡察)し、周室を観察した。(周は)久しく途絶えて祀(祭祀)が無い。耆老(老人)に問い訊ね、やっと孽子(庶出の後代)嘉を得たので、嘉を封じて周子南君とし、周祀を奉じさせる。」
こうして周王室の後代に当たる姫嘉を周子南君に封じました。
 
漢書武帝紀』の注(臣瓚)は、周子南君を衛国の子孫としています。戦国時代、衛国の将軍文子(衛の公族)が子南彌牟と呼ばれており、その後代に子南固と子南勁がいました。子南勁は魏恵成王によって衛侯に立てられたとも言われています(東周顕王十九年350年参照)
今回封侯された姫嘉は周子南君に封じられたので、臣瓉は姫嘉が子南勁の子孫(衛君の子孫。子南氏)に当たるとしています(衛も周王室から分かれて生まれた国なので姫姓です)
しかし顔師古はこれを否定しており、子南は氏ではなく封邑の号で、周王室の子孫に当たるから「周子南君」という、と解説しています。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月、中山王劉勝(靖王)が死にました。
劉勝は景帝の子です。
 
漢書景十三王伝(巻五十三)』によると、劉勝は酒色を好み(楽酒好内)、百二十余人の子がいました。しばしば趙王劉彭祖(劉勝の兄弟)と批判し合ってこう言いました「兄(趙王)は王になったのに専ら官吏に代わって事を治めています。王者とは日々音楽を聞き、声色(音楽と女色)を御すものです。」
趙王はこう言いました「中山王は奢淫だけを行い、天子を補佐して百姓を撫循しようとしない。これでどうして藩臣と称すことができるか。」
 
劉勝の死後、子の哀王劉昌が継ぎました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
楽成侯丁義が方士欒大を武帝に推薦し、欒大は文成将軍(少翁)と同じ師に学んだと言いました。
史記高祖功臣侯者年表』『漢書高恵高后文功臣表』によると、高帝の功臣丁礼が楽成侯に封じられました。丁礼は諡号を節侯といいます。その後、夷侯丁馬従、武侯丁客(または「式侯丁吾客」)を経て、丁義の代になっていました。
漢書郊祀志上』は「楽成侯登」としていますが、「丁義」の誤りです(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
武帝は文成将軍を誅殺した事(元狩四年119年)を後悔していたため、欒大を得て大変喜びました。
欒大は以前、膠東康王(劉寄。武帝の弟)に仕えており、人のために美言を語るのが得意で、方略も多く、しかも敢えて大言して躊躇しませんでした。
欒大が言いました「臣は頻繁に海中を往来し、安期、羨門のような者(どちらも仙人です)に会いましたが、臣の身分が賎しいため、彼等は臣を信用しませんでした。また、康王も諸侯に過ぎないので、方(方術)を与えるには足りませんでした。臣の師はこう言いました『黄金は成すことができ、河は決壊しても塞ぐことができ、不死の薬は得ることができ、仙人は招くことができる。』しかし臣は文成に倣うのを恐れており、そうなったら(臣も文成のようになったら)方士が皆、口を塞いでしまいます。どうして方(方術)を敢えて語る者がいるでしょう。」
武帝が言いました「文成は馬肝(毒があり人を殺すといわれていました)を食べて死んだのだ。子(汝)が本当にその方(方術。方法)を修めることができるのなら、わしは何を惜しむだろう(我何愛乎)。」
欒大が言いました「臣の師は人に求めたことがなく、人が彼に求めました。陛下が必ず彼を招きたいのなら、彼の使者を貴くし、親属として客礼で遇すべきです。そうすれば神人に言を通じさせることができるでしょう(陛下の言葉を神人に伝えさせることができるでしょう)。」
武帝は欒大に小方(簡単な方術)を実験させました。欒大が旗に戦うように命じると、旗同士で互いに撃ち合いました。
史記封禅書』と『漢書郊祀志上』は「旗」ではなく「棊(将棋などの駒)」としており、『史記孝武本紀』だけが「旗」としています。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は『漢武故事』の記述を元に「旗」が正しいと解説しています。
 
当時、武帝黄河が決壊した事や黄金が錬成できないことを悩んでいたため、欒大の言葉を信じて五利将軍とし、後にまた天士将軍、地士将軍、大通将軍に任命しました。
 
夏四月乙巳(二十一日)武帝が欒大を楽通侯に封じました。食邑は二千戸です。
漢書武帝紀』は「位が上将軍になった」としています。
 
武帝は甲第(上等の邸宅)と僮(僕人)千人を下賜し、乗輿で必要なくなった車馬や帷帳、器物を与えて欒大の家を満たしました。
更に衛長公主を嫁がせ、金十万斤を贈りました。
資治通鑑』胡三省注によると、衛長公主は武帝と衛子夫の間に生まれた娘で、太子劉據の姉です。衛子夫は三女を生みました。
 
武帝自ら五利将軍の屋敷を訪ねました。欒大を慰問したり物資を供給する使者が道に連なります。
太主(竇太主。景帝の姉)を始め、将相以下多数の者が欒大の家で酒宴を開いて礼物を献上しました。
武帝は「天道将軍」と彫刻した玉印を作りました。『資治通鑑』胡三省注によると、「道」は「導」に通じるので、「天道」は「天子を天神に導く(為天子道天神)」という意味になります。
武帝は使者に羽衣(道士の服)を着せ、夜、白茅の上に立たせました。五利将軍も羽衣を着て白茅の上に立ち、玉印を受け取ります。これは欒大が武帝の臣下ではないことを表します。
欒大は武帝に謁見して数カ月で六印を佩すことになりました。五利、天士、地士、大通、天道の五将軍と楽通侯の印です。
その顕貴な様子が天下を震わせたため、沿海に位置する燕斉一帯の人々は発憤して「禁方(秘法)を持っている」と言ったり「神仙と通じることができる」と言い始めました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代124 武帝(四十三) 宝鼎 前113年(2)