西漢時代123 武帝(四十二) 欒大 前113年(1)
戊辰 前113年
民に爵一級を下賜し、女子は百戸ごとに牛酒を与えました(賜民爵一級,女子百戸牛酒)。
『索隠』は『史記・封禅書(巻二十八)』から「百戸につき牛一頭と酒十石を下賜した」と書いています(『封禅書』には西漢武帝が封禅の儀式を行う場面で「民百戸に牛一頭と酒十石を下賜する(賜民百戸牛一酒十石)」と書かれています)。夫や子がいない婦人は爵位を得られないため、女子を対象に牛と酒を下賜したようです。
こうして后土祠が沢の中の圜丘(円形の丘)に建てられることになりました。
十一月甲子(初八日)、汾陰の脽(土丘)に后土祠を建てました。
武帝は自ら祠に望み、上帝と同等の礼で祭拝しました。
武帝が詔を発しました「冀州(汾陰)で地を祭り、河洛(黄河と洛水)を瞻望(遠望)し、豫州を巡省(巡察)し、周室を観察した。(周は)久しく途絶えて祀(祭祀)が無い。耆老(老人)に問い訊ね、やっと孽子(庶出の後代)・嘉を得たので、嘉を封じて周子南君とし、周祀を奉じさせる。」
こうして周王室の後代に当たる姫嘉を周子南君に封じました。
『漢書・武帝紀』の注(臣瓚)は、周子南君を衛国の子孫としています。戦国時代、衛国の将軍・文子(衛の公族)が子南彌牟と呼ばれており、その後代に子南固と子南勁がいました。子南勁は魏恵成王によって衛侯に立てられたとも言われています(東周顕王十九年・前350年参照)。
今回封侯された姫嘉は周子南君に封じられたので、臣瓉は姫嘉が子南勁の子孫(衛君の子孫。子南氏)に当たるとしています(衛も周王室から分かれて生まれた国なので姫姓です)。
しかし顔師古はこれを否定しており、子南は氏ではなく封邑の号で、周王室の子孫に当たるから「周子南君」という、と解説しています。
春二月、中山王・劉勝(靖王)が死にました。
劉勝は景帝の子です。
『漢書・景十三王伝(巻五十三)』によると、劉勝は酒色を好み(楽酒好内)、百二十余人の子がいました。しばしば趙王・劉彭祖(劉勝の兄弟)と批判し合ってこう言いました「兄(趙王)は王になったのに専ら官吏に代わって事を治めています。王者とは日々音楽を聞き、声色(音楽と女色)を御すものです。」
趙王はこう言いました「中山王は奢淫だけを行い、天子を補佐して百姓を撫循しようとしない。これでどうして藩臣と称すことができるか。」
劉勝の死後、子の哀王・劉昌が継ぎました。
『史記・高祖功臣侯者年表』『漢書・高恵高后文功臣表』によると、高帝の功臣・丁礼が楽成侯に封じられました。丁礼は諡号を節侯といいます。その後、夷侯・丁馬従、武侯・丁客(または「式侯・丁吾客」)を経て、丁義の代になっていました。
欒大が言いました「臣は頻繁に海中を往来し、安期、羨門のような者(どちらも仙人です)に会いましたが、臣の身分が賎しいため、彼等は臣を信用しませんでした。また、康王も諸侯に過ぎないので、方(方術)を与えるには足りませんでした。臣の師はこう言いました『黄金は成すことができ、河は決壊しても塞ぐことができ、不死の薬は得ることができ、仙人は招くことができる。』しかし臣は文成に倣うのを恐れており、そうなったら(臣も文成のようになったら)方士が皆、口を塞いでしまいます。どうして方(方術)を敢えて語る者がいるでしょう。」
欒大が言いました「臣の師は人に求めたことがなく、人が彼に求めました。陛下が必ず彼を招きたいのなら、彼の使者を貴くし、親属として客礼で遇すべきです。そうすれば神人に言を通じさせることができるでしょう(陛下の言葉を神人に伝えさせることができるでしょう)。」
『史記・封禅書』と『漢書・郊祀志上』は「旗」ではなく「棊(将棋などの駒)」としており、『史記‧孝武本紀』だけが「旗」としています。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は『漢武故事』の記述を元に「旗」が正しいと解説しています。
更に衛長公主を嫁がせ、金十万斤を贈りました。
武帝自ら五利将軍の屋敷を訪ねました。欒大を慰問したり物資を供給する使者が道に連なります。
太主(竇太主。景帝の姉)を始め、将・相以下多数の者が欒大の家で酒宴を開いて礼物を献上しました。
欒大は武帝に謁見して数カ月で六印を佩すことになりました。五利、天士、地士、大通、天道の五将軍と楽通侯の印です。
その顕貴な様子が天下を震わせたため、沿海に位置する燕・斉一帯の人々は発憤して「禁方(秘法)を持っている」と言ったり「神仙と通じることができる」と言い始めました。
次回に続きます。