西漢時代135 武帝(五十四) 十三州 前107~106年

今回は西漢武帝元封四年と五年です。
 
西漢武帝元封四年
甲戌 前107
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十月、武帝が雍に行幸して五畤を祀りました。
武帝は回中の道を通って北の蕭関を出てから、独鹿、鳴沢(『資治通鑑』胡三省注によると、独鹿は山、鳴沢は沢の名です)を経由して代に至り、引き返しました。
帰路、河東を行幸します。
 
春三月、后土で祭祀を行いました。
武帝が詔を発しました「朕自ら后土地祇(地の神)を祀り、光が霊壇に集まって一夜に三燭する(三回輝く)のを見た。中都宮(太原)行幸した時は殿上で光を見た。よって汾陰、夏陽、中都の死罪以下を赦し、三県および楊氏(河東の地名)には全て今年の租賦を出さないことを賜る(今年の租賦を免除する)。」
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
夏、大旱に襲われ、民の多くが暍死(熱暑で死ぬこと)しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
漢の衛青や霍去病が沙漠を越えてから武帝元狩四年119年)匈奴は勢力が衰えてめったに国境を侵寇することが無くなり、遠く北方に遷って兵馬を休養させました。その間、射猟を習う一方で、しばしば漢に使者を送り、好辞甘言で和親を求めました。
漢は北地の人王烏等を使者にして匈奴の様子を窺いました。王烏は匈奴の習俗に従い、符節を置いて穹廬(氈帳。遊牧民の住居)に入ったため、単于(烏維単于に気に入られました。単于は甘言で偽って王烏のために太子を質(人質)として漢に入れることを約束します。
 
漢の使者楊信も匈奴に行きましたが、楊信は匈奴の習俗に従おうとしませんでした。
単于が言いました「以前の約(盟約)では、漢は翁主(諸侯王の娘)を遣わし、決められた繒絮食物を贈って和親としてきた。そして匈奴も辺境を侵すことがなかった。しかし今はかつての約に背き、我が太子に質となるように命じた。これでは匈奴には)何も無くなってしまう(無幾矣)。」
楊信が帰国してから、漢は改めて王烏を派遣しました。
すると単于はまた甘言を使って王烏に媚び、漢の財物をより多く得ようとします。単于が偽って王烏に言いました「わしは漢に入って天子に直接会い、兄弟の交わりを結びたい。」
王烏が帰国して武帝に報告すると、漢は単于のために長安に邸宅を築きました。
すると単于は漢にこう言いました「漢の貴人が使者にならなければ、わしは誠語(誠実な言葉)を話さない。」
 
匈奴が貴人を漢に送りました。ところが貴人は病にかかり、漢が薬を与えて治そうとしても効き目がなく、不幸にも死んでしまいました。
漢は路充国に二千石の印綬を佩させて匈奴に派遣し、匈奴の使者の喪(霊柩)を届けました。数千金に値する厚葬を行います。
この時、漢は路充国を「彼は漢の貴人です」と紹介しました。
しかし単于は漢が自国の使者となった貴人を殺したと思い、路充国を留めて帰国させませんでした。
単于が今まで語ってきたのは王烏を騙すための言葉で、漢に入るつもりも太子を送るつもりもありませんでした。
 
この後、匈奴は度々奇兵(遊撃兵、または騎兵)を送って漢の辺境を侵犯するようになります。
武帝は郭昌を抜胡将軍に任命し、浞野侯趙破奴と共に朔方以東に駐屯させて匈奴に備えました。
 
 
 
西漢武帝元封五年
乙亥 前106
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
冬、武帝が南に巡狩(巡行)し、盛唐に至りました。九疑山(蒼梧山ともいいます。帝舜が死んで埋葬された場所といわれています)で虞舜を望祀(遥望して行う祭祀)します。
その後、灊県の天柱山に登り、尋陽で船に乗って長江を移動しました。武帝自ら江中で蛟を射て捕まえます。
資治通鑑』胡三省注によると、蛟は龍の一種です。しかし「蛇に似ていて脚があり、(中略)人を呑みこむことができた」とあるので、鰐ではないかとも思われます。
 
舳艫(舳は船尾、艫は船首)を千里に連ね(多数の船を連ね)、樅陽に近づいた所で陸に上がりました。ここで『盛唐樅陽の歌』を作ります。
北に向かって琅邪に至り、海に沿って進みました。
通った場所では名山大川の礼祠を行いました。
 
春三月、引き返して太山に至り、増封(封の拡大。封は天を祀る盛り土です)しました。
甲子(二十一日)、始めて明堂で上帝を祀り、高祖を配しました。
ここで諸侯王や列侯に朝見を命じ、郡国の計(計帳。戸口賦税の帳簿)を受け取りました。
 
夏四月、武帝が詔を発して言いました「朕は荊揚を巡って江淮の物(神)を集合させ、大海の気を一つにし、泰山に合致させた(江淮の神と大海の神を祀り、最後は太山で封の儀式を行って祭祀を総合した)。上天が象を示したので、封禅を増修した。よって天下を大赦し、行幸した県は今年の租賦を出させず(本年の租税を免除し)、鰥寡孤独(配偶者を失った男女、孤児、身寄りのない老人)に帛を、貧窮の者に粟(食糧)を下賜する。」
こうして大赦が行われました。
また、行幸した地の租税を免除し、鰥寡孤独や貧窮の者を救済しました。
 
その後帰還して甘泉を行幸し、泰畤を郊祭しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
大司馬大将軍長平烈侯衛青が死にました。
衛青のために冢(墓)を作り、廬山に似せました。
資治通鑑』胡三省注によると、廬山は盧山を指し、匈奴の山です。衛青冢は茂陵武帝陵)の東にあり、霍去病冢の西側に並べて造られました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は『漢武故事』から衛青の子に関する話を載せています。
「大将軍衛青には四子がいましたが、どれも不才だったため、皇后(衛子夫。衛青の姉)がいつも太子を通して武帝に泣いて削封するように請いました。
しかし武帝は『わしはどうすればいいか分かっている(吾自知之)。皇后を憂いさせることはない』と言いました。
ところが衛青の少子が奢淫の罪を犯し、誅殺に当たることになりました。
武帝は人を送って皇后に謝り、諸子の封爵を全て削ってそれぞれ千戸だけを残しました。」
胡三省注(『資治通鑑考異』)は「衛青の四子で奢淫の罪に坐した者はいないから妄説である」と解説しています。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
武帝は胡匈奴と越を駆逐して国土を拡げたため、交趾と朔方の二州を設けました。冀、幽、并、兗、徐、青、揚、荊、豫、益、涼の各州と併せて十三部となり、それぞれに刺史が置かれます。
 
以下、『資治通鑑』胡三省注からです。
秦には監郡御史があり、諸郡を監督していましたが、漢が建国してから省かれました。漢は丞相史を各地に派遣して監視させましたが、常官ではありません。
武帝が始めて十三人の刺史を置き、秩六百石としました。管轄下の郡国を巡視し、治政を観察して、六條を確認しました。
第一條は、強宗豪右(豪族)の田宅が制度を越えていないか、強者が弱者を虐げ、衆(多数)によって寡(少数)に暴虐を加えていないかです。
第二條は、二千石(郡守)詔書を奉じず、典制を守らず、公に背いて私に向かい、詔を悪用して利を貪り、百姓を侵犯し、集まって姦を為していないか(または「重税をかけていないか」。原文「聚歛為姦」)です。
第三條は、二千石が疑獄を憐れまず、すぐに殺人を行い、怒ったら刑を自由に使い、喜んだら賞を自由に与え、煩擾苛暴(雑乱苛烈暴虐)、剝戮黎元(民衆に対して剥奪殺戮を加えること)によって百姓の憂いとなり、山が崩れて石が裂け、妖祥訛言(流言)が現れていないかです。
第四條は、二千石による官員の任免が不公平で、阿諛する者を愛し、賢人を隠して頑迷な者を寵用していないかです。
第五條は、二千石の子弟が栄勢に頼って監督から逃れていないかです。
第六條は、二千石が公に違えて悪人をかばい、豪強に阿附して貨賂(賄賂)を横行させ、政令を損なっていないかです。
通常は八月に郡国を巡行し、囚徒を記録して殿最(官員の成績。「殿」は成績が劣ること、「最」は成績が優れていることです)を考察しました。年の終わりに京都を訪れて奏事(報告)します。
各州の解説は省略します。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
武帝は文武の名臣が尽きてしまうのではないかと思い、詔を下して言いました「非常の功があったら、必ず非常の人として遇すべきである。だから奔踶の馬(乗ろうとしたら走り出し、立ったら人を蹴る馬)でも千里に至り、負俗の累(世俗に合わず非難を受けること)がある士でも功名を立てられるのである。泛駕の馬(制御できない馬)も跅弛の士(放蕩で法を守らない者)も、どう御すかにかかっている。よって州郡に命じて、吏民の中に茂才(本来は「秀才」といいます。東漢光武帝の諱が秀だったため、「茂才」と呼ばれるようになります)、異等(能力が超越している者)で将相に任命できたり絶国(遥遠の国)に派遣できる者がいないかを考察させる。」
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代136 武帝(五十五) 劉細君 前105年