丙子 前105年
春、首山宮を造りました。
『漢書・武帝紀』の注によると、首山宮が建てられた場所は「上郡」と「河東郡」という説があります。顔師古は下の詔と『漢書・地理志』の記述から河東郡が正しいと判断しています(『漢書・地理志上』を見ると、河東郡の蒲反に有堯山、首山祠があったとされています)。
武帝が詔を発しました「朕が首山を礼祀したところ、昆田(『漢書・武帝紀』の注によると、「昆田」は首山下の田地)から珍物が現れ、ある物は黄金に変わった。后土を祭ったら神光が三燭した(三回輝いた)。よって汾陰の殊死(死刑)以下の者を赦し、天下の貧民に一人当たり一匹の布帛を下賜する。」
漢は西南夷への道を通して五郡(犍為、越巂、沈黎、汶山、益州)を置いてから、大夏に道をつなげようとしました。
しかし、毎年十余組の使者がこれらの新しい郡を通って行きましたが、全て昆明(「昆明」は『資治通鑑』の記述で、『漢書・武帝紀』では「益州、昆明」です)で道を閉ざされ、使者は殺され幣物は奪われました。
『資治通鑑』胡三省注によると、昆明は越巂郡の西南に位置し、諸爨(爨族。西南の少数民族)が住んでいました。
武帝は京師の亡命(逃亡者。または死刑囚)の罪を赦して従軍させ、抜胡将軍・郭昌に指揮させました。
しかしその後に使者を派遣しても、やはり道は通じませんでした。
夏、京師の民が上林平楽館で角抵(格闘技。競技の一種)を観ました。
秋、大旱と蝗の害がありました。
烏孫の使者が広大な漢を見てから帰国し、烏孫王に報告しました(武帝元鼎二年・前115年、烏孫の使者が張騫に従って長安に入りました)。
烏孫が漢と通じたと聞いた匈奴は怒って烏孫を撃とうとしました。
当時、烏孫周辺の大宛、月氏といった国も全て漢に仕えていたため、匈奴を恐れた烏孫は漢に使者を送り、漢の公主を娶って兄弟になることを願いました。
漢は江都王・劉建(江都易王・劉非の子。劉非の父は景帝です)の娘・細君を公主にして烏孫王に嫁がせました。併せて盛大な礼物が贈られます。
匈奴も昆莫に女(単于の娘かもしれません)を嫁がせました。昆莫はこれを左夫人にします。
公主(劉細君)は自分で宮室を建てて住みました。四季ごとに一二回昆莫と会し、酒宴を開いて飲食します。しかし昆莫は既に年老いており、言語も通じないため、公主は悲愁して漢に帰りたいと思いました。
それを聞いた武帝は憐憫し、一年おきに使者を派遣して帷帳錦繡を届けました。
昆莫は「わしは老いた」と言って孫の岑娶(または「岑陬」。『資治通鑑』胡三省注は「岑陬は官名で、本名は軍須靡という」と解説しています)に公主を娶らせようとしました。
漢人には夫の孫と結婚するという習慣が無いので、公主はこれに同意せず、武帝に上書して訴えました。
ところが武帝はこう答えました「その国の俗に従え。烏孫と共に胡(匈奴)を滅ぼすためだ。」
こうして岑娶が公主を娶ることになりました。
やがて昆莫が死んで岑娶が立ちました。これを昆彌といいます。
『資治通鑑』胡三省注によると、昆莫というのは烏孫の王号で、名を猟驕靡といいました。後に昆莫の「昆」と猟驕靡の「靡」から「昆彌」と呼ばれるようになりました。「彌」と「靡」はほぼ同音です。
軍須靡の代から「昆彌」という号が定着したようです。
当時、漢の使者は西の葱嶺を越えて安息に至っていました。
安息は漢に使者を派遣して大鳥の卵や眩を得意とする黎軒人を献上しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、大鳥の卵は石甕ほどの大きさがありました。駝鳥の卵ともいわれています。
黎軒は「黎靬」ともいいます。東漢時代の大秦国です。安息や烏弋の西で、大海を隔てた場所にあります。
「眩」は「幻」と同じで、魔術を指します。大秦国の人は跳十二丸(十二の丸球を使うお手玉)や口から火を出したり、自分を縛って自分で解いたりする雑技に長けていました。
小国の驩潜、大益、姑師、扜冞、蘇䪥といった国もそれぞれ漢の使者に従って礼物を献上し、武帝に朝見しました。武帝は大変喜びます。
『資治通鑑』胡三省注によると、驩潜と大益は大宛の西にありました。
扜冞国の治所は扜冞城で、長安から九千二百八十里離れていました。後漢時代は寧冞と呼ばれます。
蘇䪥は康居の小王国で、蘇䪥城が治所です。陽関から八千二十五里離れていました。
西国の使者が絶えることなく往来しました。
武帝は沿海に巡狩するたびに外国の客を全て従えて大都市や人が多い地域を通りました。財帛を散じて賞賜とし、豊富な物資を準備して供給を充足させ、漢の豊かな財富を示します。
また、大角抵(格闘技)を行ったり奇戯や諸怪物を披露して多数の観客を集め、漢の強盛を誇示しました。
更に、外国の客に賞賜を与えて酒池肉林したり、各地の倉庫府藏に蓄積された物資を見せて、漢の広大さを顕示することで西域の使者を傾駭(驚くこと)させました。
大宛の周辺には蒲萄が多く、酒を造ることができました。苜蓿(草の名)も多くて大宛の天馬が好んで食べました。そこで漢の使者はこれらの実を採って帰国しました。武帝は離宮別観の傍に種を植えて見渡す限りを蒲萄や苜蓿で埋め尽くしました。
漢と西域の関係はこのようになりましたが、西域は匈奴に近く、常に匈奴の使者を畏れていたため、匈奴の使者への待遇の方が漢の使者に対するものより勝っていました。
この年、匈奴の烏維単于が死に、子の烏師廬が立ちました。年少だったため「児単于」と号します。
この後、匈奴単于がますます西北に移動しました。左方の兵は雲中に、右方の兵は酒泉、敦煌郡に接するようになります。
『資治通鑑』胡三省注によると、匈奴左方の兵は元々上谷以東に接しており、右方の兵は上郡以西に接しており、単于庭が代、雲中に接していました。しかし単于が西北に遷ったため、左右方も移動しました。
次回に続きます。