西漢時代137 武帝(五十六) 太初暦 前104年

今回は西漢武帝太初元年です。
 
西漢武帝太初元年
丁丑 前104
 
始めて夏正(夏暦)を用いて正月を歳首にしました。そのため太初に改元しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十月、武帝が泰山を行幸しました。
 
十一月甲子朔旦が冬至に当たりました。
武帝が明堂で上帝を祀りました。
 
武帝が東に巡行して沿海に至り、海に入った者と方士で神を求めた者を考察しましたが、結果が得られませんでした。
武帝はますます多くの者を派遣して神仙に会うことを期待しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
乙酉(二十二日)、柏梁台武帝元鼎二年115年参照)で火災がありました。
資治通鑑』胡三省注によると、「天火(雷等の天災による火災)は災、人火(人為による火災。失火)は火」と書きます。今回の原文は「柏梁台災」なので、天火だったようです。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
十二月甲午朔、武帝が自ら高里(『資治通鑑』胡三省注によると、高里は泰山下にある山)で禅。地を祭る儀式)を行い、その後、后土を祀ってから勃海に臨みました。
殊廷(特殊な庭。神仙の庭)に至るために蓬莱等の仙山を望祀しました。
 
春、武帝が帰還しました。
柏梁台で火災があったため、甘泉で諸侯の朝見と計簿(戸口や賦税の帳簿)の報告を受けました。
甘泉に諸侯邸が建てられます。
 
越人の勇之という者が言いました「越の俗では、火災があってから家屋を再び建てる時は、必ず大きくして勝服するものです(元の建物より大きな建物を造って禍を鎮めるものです)。」
武帝は広大な建章宮を建てました。
 
以下、『資治通鑑』本文と胡三省注からです。
建章宮は長安城西の上林の地に位置し、周囲は二十里もありました。出入り口は千門万戸を数えます。
東には高さ二十五丈の鳳闕(または「別風闕」)がありました。
北には高さ二十丈の圜闕があり、上に銅の鳳凰が配されたため、鳳闕とも呼ばれました。
鳳闕の西は唐中(または「商中」)といい、数十里の虎圈があります。
北には大池があり、太液池と名づけられました。池の中には二十余丈の漸台が建てられ、また、蓬莱、方丈、瀛洲、壺梁といった海上の神山を模した島が造られました。池の北には長さ三丈、高さ五尺の石魚が置かれ、南岸には長さ六尺の石鼈が三つ配置されました。
南には地上から十二丈の高さにある玉堂や、薄い璧玉で造られた璧門、條支(西方の国)に生まれる大鳥の像などがあります。
更に神明台や井幹楼は五十丈の高さがあり、輦道(天子の車が通る道)がそれぞれの建物を繋ぎました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
大中大夫公孫卿、壺遂(『資治通鑑』胡三省注によると、晋の大夫が壺口の邑を得たため、子孫が壺を氏にしました)、太史令司馬遷等が武帝に進言しました「暦紀が壊廃したので、正朔を改めるべきです(正朔を改めるというのは暦を改めることを意味します)。」
武帝は詔を発して児寬や博士(姓氏不明)等に共議させました。その結果、夏正を使うことになりました。
夏正というのは夏王朝が使っていた暦で、建寅の月(旧暦正月)が歳首になります。西漢はこれまで秦正(秦の暦)を使っており、建亥の月(旧暦十月)が歳首でした。
 
夏五月、武帝が詔を発し、公孫卿、壺遂、司馬遷等に協力して『太初暦』を作らせました。
この後、正月が歳首になります。
本年は太初元年に改元されました。太初元年は十月から始まっており、正月を経て十二月まであるので、十五カ月になります。
 
また、色は黄色をたっとび、数は五を用いることにしました。
漢は土徳によって興隆したと考えられたためです。黄色は土徳の色で、五は土徳の数に当たります。
資治通鑑』胡三省注によると、五という数字は例えば印文に使われました。丞相の印には「丞相之印章」と刻まれ、諸卿や守、相の印文でも五文字に足りない場合は「之」が足されました。
 
更に官名を定め、音律を調整し、宗廟百官の儀を制定し、これらを典常(常法)として後世に伝えることにしました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
匈奴で即位した児単于は殺伐を好んだため、国人が不安になりました。
しかも天災に襲われて家畜の多くが死にました。
そこで匈奴の左大都尉が人を送って秘かに漢に告げました「私は単于を殺して漢に降ろうと思います。しかし漢は遠いので、兵を出して私を迎えに来ていただければ、すぐに実行します。」
武帝は因杅将軍公孫敖に命じて塞外に受降城を築かせ、左大都尉の要求に応じました。
資治通鑑』胡三省注によると、因杅は匈奴の地名です。公孫敖が遠征した地なので将軍の号になりました。受降城は居延北に造られました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
秋八月、武帝が安定を行幸しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
西域に行った使者が武帝に言いました「宛には善馬がいますが、貳師城に隠して漢使に与えようとしません。」
武帝は善馬を求めるため、壮士車令等に千金と金馬を持たせて宛に派遣しました。
車姓は田千秋(車千秋。武帝の晩年と昭帝時代の丞相)から生まれたという説がありますが、『資治通鑑』胡三省注はこの記述から田千秋以前にも車姓が存在したと解説しています。
 
宛王が群臣と謀ってこう言いました「漢は我が国から遠く離れており、塩水(塩沢)では何人も死んでいる(塩水中数敗)。北に出たら胡寇があり、南に出たら水草が乏しく、その上どこに行っても邑(城郭)が絶たれているので(人が住む場所がないので)、多くの者が食糧に窮乏する。漢使は数百人が一組になって来るが、常に食糧に欠乏して死者は過半数に及んでいる。どうして大軍を至らすことができるだろう。我々に対してどうすることもできない(無柰我何)。貳師の馬は宛の宝馬である。」
宛王は漢の使者に善馬を与えませんでした。
怒った漢の使者は大宛を罵り、贈呈するはずだった金馬を打ち砕いて退出しました。
すると宛の貴人も怒って「漢使は我々を極めて軽視している!」と言い、漢の使者を追い出しました。
更に宛王は東辺の郁成王に漢の使者を攻撃させ、使者を殺して財物を奪いました。
 
これを聞いた武帝は激怒しました。
そこで宛に行ったことがある姚定漢(『資治通鑑』胡三省注によると、姚は帝舜の姓です。春秋時代の鄭に大夫姚句耳がいました)等が言いました「宛の兵は弱いので、三千人足らずの漢兵を用いて強弩で射れば全て虜にできます。」
武帝はかつて浞野侯趙破奴を派遣して七百騎で楼蘭王を捕えたことがあるので武帝元封三年108年)、姚定漢等の進言に納得しました。
武帝は寵姫・李氏(李夫人)の兄弟を封侯したいと思っていたため、李夫人の兄李広利を将軍に任命しました。貳師城を取って善馬を得ることを期待したため、貳師将軍と号します。
属国の六千騎および郡国の悪少年(素行が悪い若者)数万人を動員して宛討伐に向かわせました。趙始成を軍正に、元浩侯王恢武帝元封三年・前108年)を導軍(先導)に任命し、李哆を校尉にして軍事を監督させました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
中尉王温舒が姦利(不当な利益を貪ること)の罪を問われました。族滅の判決が下されて王温舒は自殺します。
二人の弟とそれぞれの婚家(姻戚)も他の罪に坐して族滅されました。
光禄勳徐自為が言いました「悲しい事だ(悲夫)!古には三族(三族誅滅)があったが、王温舒の罪は同時に五族に及んだ。」
資治通鑑』胡三省注によると、王温舒と弟二人の家族で三族、更に弟の妻の家族を合わせて五族になります。
光禄勳は元郎中令で、武帝によって改名されました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
関東で蝗が大起し、西に飛んで敦煌まで至りました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代138 武帝(五十七) 大宛討伐 前103年